傘海月


 ビルの向かいにある、少し奥まった喫茶店に入る。時間は17時15分。

店内を見渡すと、目当ての人物がカウンターに座っていた。卓上には空になったアイスコーヒーのグラス。

 …待たせちゃったかな?

「お、お疲れ様、時雨くん」

「お疲れ様です、雨宮先輩」

 いつもの見慣れたスーツ姿じゃなくて、ジーンズに着崩したシャツと、歪なリングの形をしたペンダント。半袖シャツの隙間から見える黒インナーと首筋から鎖骨にかけてのラインがとても色っぽくて、直視するのが辛い。

「そ、その、格好、初めて見た…似合うね…?」

「そうですか?あ、ありがとう…ございます。じゃ、行きましょう」

 椅子から立ち上がってコーヒーの代金を払い、私の横に並んで歩き出す。普段からもっと、彼と喋っていればよかった。とてつもなく緊張する。

「先輩も…その服、似合ってます」

「え!?そ、そうかな?」

「ああ。……」

「……なぁ、よかったら…下の名前で呼んでいいか…な…?」

 突然の言葉に頭が真っ白になる。

 名前?苗字+先輩じゃなく??

「し、時雨くんが、良ければ」

「ありがとう。せめて、会社の外は」

「……後輩でいたくないから…なんて、な」

 !!

 な、ん、これは、どう答えたら…!

 いつにも増して心臓がドキドキする。まるで初デートの大学生になった気分だ。デートなんて生まれてこの方、したことがないけど。

 ……そっか、これから…。私たち、初デート…なのかなぁ…?

「…じゃ、私も…時雨、って呼んでいい?」

「ああ。好きに呼んでくれよ」

「えへへ。時雨」

「なんだよ」

「呼んでみただけ…!」

「ほたる」

「なぁに?」

「ふふ……仕返しだ」

 隣合って歩いてるだけで、フワフワした気持ちになってくる。幸せだなぁ、と感じる。まさか時雨くんから誘って貰えるなんて、思ってもいなかったから。

 あっという間に目的の水族館、マリンドームに到着する。この建物、名前の通りドーム状なのだけど、夜になると屋根の色が埋め込んだLEDによって変わるからクラゲ屋根なんて呼ばれてる。

 誰もいないチケットカウンターで、暇そうなスタッフが私たちを凝視した。

「大人2枚、チケットは既にある」

「はい、拝見します。こちらは…特別優待券ですね?レストランは1階、右手にございます」


 え?レストラン??


「ありがとう」 

 時雨がチケット半券をヒラヒラさせながら戻ってくる。レストランなんて、聞いてない…!!

「これ、雑誌の懸賞で当たって……水族館のチケットにレストランの食事券が付いてた」

「そ、そうなの…!?初めて聞いたからビックリしちゃった……」

「その、なんだ…ほたるを驚かせたくて…。嫌、だったかな?」

「ううん、そんなことないよ!!」

 水族館見て回って、それから……と後のことは考えないようにしていた。まさか食事まであるなんて、夢みたいだ。

「扉、開けるから」

「うん!」

 薄暗い館内が透けて見えるメインゲート。時雨が取っ手を握り、押し開けてくれた。


✕    ✕     ✕


「わぁぁ…!!!」

扉の向こうには、いきなり大きな水槽が聳えていた。目を見開いて呆気に取られるほたるを見て、彼女を誘ってよかったと思う。

「土日は混雑してるから、平日夜にと思ったんだ。ここ、22時までやってるから…」

「うん…ありがとう、時雨くん」

「ほたる…?」

 ほたるの目元がキラキラと光っている。まるで…

「この水槽ね、私が考えたの」

「えっ?」

「ここの水族館建設に、うちの会社も関わってて…設計士からあれこれ相談されて、この水槽思いついたんだ」

 思い過ごしじゃない。ほたるは泣いていた。水槽を見上げながら。

「…凄いな、先輩。そんなプロジェクトに関わってたんだ」

「えへへ、ありがと。時雨が入社する前、だけどね。まだ駆け出しでよく怒られてたなぁ…」

 ニコニコと眩しい笑顔が、あまりにも綺麗だった。俺の知らない彼女の過去に、偶然とは言え驚いてしまう。

 ほたるの涙を指先で拭って、そのまま彼女の手を握った。

「…ここに携わったのなら、案内してくれないか?でも、迷子になるなよ」

「大丈夫よ!子供扱いしないでよね?」

 ほたるに手を引っ張られ、順路を歩き出す。沢山の水槽に色とりどりの魚たちが悠々と泳いでいて、目が幾つあっても足りないくらいだ。

 18時になったアナウンスが流れて、イベントの告知が入る。これから陽が沈みかけた海を背景に、イルカショーが見れる。ほたるはこっちだよと俺の手を引っ張って、イルカのプールの場所を教えてくれた。俺から誘った筈なのに、いつの間にか彼女にもてなされているみたいだ。

 観客席には人がまばらで、プールと海が見れるいい位置に座れた。仕事帰りの夫婦らしき2人組、学生カップルが数組。イルカのトレーナーが挨拶をして、2頭のイルカが顔を出した。


『それでは、幻想的なショーをお楽しみください!』


 BGMが流れ出す。

 曲に合わせて泳ぎ回り、ホイッスルの音でジャンプ。トレーナーが投げたボールを鼻先でトスしては拍手が起こる。水平線の向こうに沈む夕陽とイルカショーなんて、贅沢な景色だ。

 初めて見る夕暮れ時のこの景色を、ほたると見れたのが嬉しくて仕方がない。

「きれい、だねぇ…!」

「ああ」

 貴女も、と言いかけて言葉を飲み込む。一際高いジャンプの後、飛んでくる水飛沫がきらりと輝いた。

 2頭のイルカが立て続けにジャンプして、トレーナーの持った大きいリングを潜っていく。

 キュイキュイと愛想を振りまく姿を想像していたが、予想よりもかなり迫力があって驚いてしまう。  

 ほたるも盛んに拍手と笑い声を贈っていた。

 最後はトレーナーもプールに入り、イルカに持ち上げられて手を振る。相当訓練したのだろう、動きに乱れが見られなくて、2人で夢中になった。

 最後のパフォーマンスに大きな拍手が沸き起こる。トレーナーとイルカが会釈して、あっという間にイルカショーは終わってしまった。

「はぁ、よかった……!」

「ああ。イルカショー、良いもんだな」

 感想を話しながら、イルカのプールがあるフロアから階段を降りて、再び水槽を巡る。

 熱帯魚、海の沖合いにいる魚、浜辺の水棲生物。水槽の配置や通路のレイアウトにも少しだけ、口を出したそうだ。

 センターホールにも、巨大な水槽が天井まで続いていた。水槽の中にはマンタ、サメ、マグロまで泳いでいる。

「時雨くん、水族館に来て思うことは?」

「悪い…この魚、うまいのかな、って」

「だよね!?館長さんもね、同じこと言ってた。だから美味しそうな水槽も作りたいんだ、って」

「ヒトは、何かを食べないと生きられないでしょう?魚もそのひとつ。だからこそ生きて泳ぐ姿を子供たちに見せたいんだ、って。私もそう思ったの…変わってるね、って言われたけど」

 そんな風に言われるとは思いも寄らなかった。大概の女性は、水族館に来て「うまそうだな」と評価すると嫌がるらしい(美容師の実談だ)が、ほたるはあっけらかんと泳ぐ鯛を目で追っている。

 今まで知らなかった彼女が垣間見れた。へんな、やつだ。勿論いい意味で。

「ほたる、腹減ったか?」

 言うや否や、ぎゅるるとくぐもった音が聞こえる。

「……うん」

 顔を真っ赤にして片手で腹を抑えるほたるが可愛くて、とてつもなく愛しく思う。そろそろ夕飯食べようか、と笑いながら彼女の頭を撫でた。

 ヒトは食事なしでは生きられないから。

 けしてほたるが食いしん坊だからとかではない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る