第35話 引退



 俺は身支度を整えると、一萬田厩舎に向かった。時刻は夕暮れ間近、午後の調教も一段落して厩舎も一息吐いてる。事務所に入ると、好連さんはテレビでレース映像を見ていた。



「ノックぐらい」



 言いながら好連さんは振り返り、俺を見て硬直した。



「お騒がせしました。すみません」



 俺は頭を下げる。慌てて椅子を引く音が聞こえ、好連さんの手が俺の肩に置かれた。



「いや、良いんだ。無事で戻ってきたならそれで良い。さあ、顔を上げて」



 言われた通りにする。何故か、好連さんの方が申し訳なさそうな顔をしていた。



「早速で悪いけど、騎乗依頼がいくつか来てる。明日から調教行ける?」



 俺は、首を振った。



「もう龍には乗りません」



「……え?」



「引退します」



 心苦しさはあった。



 好連さんに掛けた迷惑は計り知れない。俺のせいで随分と立場も悪くなったろう。それでも俺に騎乗龍を用意してくれた。俺の行為は裏切りでしかない。でも、騎手である限り龍は救えない。それなら騎手を辞めるしかない。



「ま、待ってくれ」



 好連さんは微笑交じりに言った。視線をテレビに移し、レース映像を眺める。ゴールまで一分近く微動だにせず、ようやく俺に眼を戻した。



「本気……なのか」



 好連さんの眼がまだ白黒している。俺は力強く頷いた。



「騎手じゃ駄目なんです。ドバイでは龍を使った郵便局があるしいんです。まずはそれを見てみたいです。それから向こうの牧場に勤めながら龍文化を勉強しようと思ってます」



 息を漏らし、好連さんは下唇を噛んだ。



「……諦めるのか?」



「根性論で解決できる問題じゃありません。セヴェリンとカラマンが死んだ時に騎手の限界を知りました。俺は、前に進む為に騎手を引退します」



「本気か……」



 崩れるように、好連さんは椅子に座り込んだ。



「……親次、もう少しだけ騎手を続けてみないか? ダイブの記者さんがお前の記事を載せてくれた。私も協力して、できるだけお前の龍への思いが伝わるような記事にしてもらった。お陰で風向きが変わって、少しだけど他所の厩舎から騎乗依頼が来るようになった。お前だからこそ乗ってもらいたいという龍主さんも出てきている」



 増していく罪悪感を抑え込む。



「俺は良いんです。でもそれで龍の立場が変わるんですか?」



「それは……」



 言い淀む。つまりはそういう事だ。騎手である俺がどれだけ頑張ったところで、弱い龍は死ぬしかないという現実はびくともしない。



「……どうしてもか?」



「俺にとって騎手とは、龍を救う為の手段でした。騎手では龍を救えないと分かった以上、手段を変えるしかありません。これ以上騎手を続けるのは時間の無駄です」



 また、好連さんは溜息を吐いた。



「……明日の昼にまた来てくれるかな。お前に会いたいという人がいるんだ」



 また説得されるのか。龍の為に少しの時間も惜しいけど、仕方ない。こればっかりは根気良く付き合って、好連さんに納得してもらうしかない。


「分かりました」



 俺は自宅に帰った。ふとカレンダーを見て、スマホで日付を確認する。



 もう九月も半ばか。



 そう言えば昼間はまだ暑いけど、夕方のこの時間になると随分と過ごしやすい気温になっている。反対に龍たちの換羽期は終わり、競龍は再び熱を帯びていく。一月もすれば毎週のようにG1レースが行われ、歴戦の古龍の戦いに若い龍が飛び込んでいく時期だ。



 そこに、俺はいない。



 それで良い。俺は久しぶりにちゃんとした食事を取り、早めに就寝した。翌日は家を綺麗にしてから、一萬田厩舎の事務所を訪ねた。



「お久しぶりです、戸次騎手」



 その人は、龍主の佐伯さんだった。



 所有する龍は一騎、七歳の雄のダテノアジュール。



 一年前に俺が大怪我をした時に乗っていた龍だ。中央競龍に復帰するのに一年掛かった俺とは違い、予定通り二月後の重賞レースに出翔し、以後も勝利はないものの何事もなくレースに飛び続けている。



「ダテノアジュールの騎乗依頼に来ました」



 そう来たか。俺は佐伯さんの横に立つ好連さんを見やった。昨日とは打って変わって覚悟を決めた表情をしている。これが、好連さんの切り札か。



「秋の天皇賞、是非騎乗してください」



 G1レース天皇賞。古龍の最高峰の一角に当たるレースだ。距離は六千メートル。区分は中距離に当たり、数あるレースの中でも最も層が厚い。



 少し前の俺なら、喜んで引き受けた。



「申し訳ありませんが、俺は騎手を辞めます。他の人に当たってください」



 当然、事前に聞かされていたのだろう。佐伯さんは顔色を変えなかった。



「私は一つ、戸次騎手に謝らなければならない事があります。戸次騎手が復帰してから一度だけ、ダテノアジュールがレースに出る機会がありました。しかし私は、主戦騎手である戸次騎手に騎乗依頼をしませんでした」



 気にしてない。復帰してからそんな事はしょっちゅうだった。



「龍主付き合いが理由ですが、決めたのは私です。あの時は失礼な事をしました」



 佐伯さんは深々と頭を下げる。それから頭を上げ、カバンから「ダイブ」を取り出した。



「ですがこれを読んで、私は自分が恥ずかしくなりました。一萬田先生にも確認を取り、戸次騎手の龍への思いに感服しました。あの時戸次騎手が命綱を外していなければ、ダテノアジュールは死んでいました。遅くなってしまいましたが、本当にありがとうございます」



 また、頭を下げる。そして顔を上げた時には、佐伯さんの眼が薄っすら潤んでいた。



 やめろ。



「私が競龍界に居づらくなるなんて些細なことです。ダテノアジュールに乗るのは、躰を張ってあの子を守った戸次騎手しかない。だから戸次騎手、天皇賞でダテノアジュールに乗ってください」



 やめろ。



「ダテノアジュールだけどね」



 ふと、好連さんが口を開く。



「もう七歳だ。ここしばらくは凡翔が続いてるし、天皇賞を最後にしようかと考えてる。佐伯さんは種牡龍にしたがってるし、血統も悪くない。でも、実績がね」



 やめろ。



「なんとか牧場を探し回ってみたけど、どこも場所がないって断られた。それでも方々歩き回ってようやく、G1を一つでも勝てたら受け入れるって牧場さんが見つかった」



 やめろよ。



「どうする、親次」



 クソ。俺が助けたい龍はたった一騎じゃない。できるだけの多くの龍を助けたいんだ。ここでダテノアジュールに乗って、勝たせて助けられたとして、それでどうする。レースまで一月半、騎手を辞めて中東に勉強に行けばその分多くの龍を救えるかもしれない。



 俺はしばらく黙り込み、長い吐息漏らした。



「……乗ります」



 断れるわけがなかった。



 断れるなら、そもそも俺は騎手になってない。騎手を辞めようとは思わない。目の前で生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされた龍を、無視できるわけがない。



 二人が感嘆の声を漏らす。即座に、俺は言った。



「でも、それが俺の引退レースです」



 佐伯さんは残念そうな顔をしたが、好連さんは予想していたのか頷くだけだった。



「それまで他のレースにも調教にも乗りません。残り一月半、俺の全てを掛けてダテノアジュールに乗ります。そして」



 古龍の最高峰、天皇賞。例年に増してレベルが高く、それ以上に注目が集まっていた。



 九戦九勝の無敗龍メテオライトが出翔する。



 二歳では二戦とも圧勝し、三歳ではクラシック三冠を取り、年末のグランプリでは古龍を一蹴、今年は国内のG1を二つ取った後、海外のビッグレースに挑戦して完勝した。



 まさに、世界最強。



 龍主は城井国綱、主戦騎手は角隈頼安。全てにおいて隙のない相手が、ダテノアジュールの最期かもしれないレースに出翔する。



 それがどうした。



「必ず天皇賞に勝ちます」

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