第36話 その日に向けて



 ダテノアジュールは、天皇賞の一月前に一萬田厩舎に入厩した。



 七歳の雄の青龍。快晴の日に飛ぶと空に溶け込む薄青の古龍。取り立てて目立つところはないけど欠点らしい欠点もない。だからこそ、乗り手の能力が限界まで発揮される龍だ。



「以前と比べて変化はありますか」



 昼休憩の時間、俺は好連さんに尋ねた。



「今年こそ凡翔が続いてるけど、成績ほど調子は落ちてないよ。良い騎手が良い乗り方をすれば、相手なりには飛ぶ筈だ」



 ダテノアジュールは悪い龍じゃない。若い時こそ弱かったものの、五歳に入ると頭角を見せ始め、俺の一年目には重賞のG2とG3を一つずつ取り、俺の二年目、六歳の時にはG1でも二度掲示板に乗った。俺が墜落して以降は調子を落として成績も下落したけど、最近では復調の兆しを見せている。



「勝機はないわけじゃない、そう言う事ですね?」



「それは……うん、まあ」



 最大のライバルは歴代最強とも呼ばれるメテオライトだ。歯切れも悪くなる。



「分かりました。ちゃんとした調教をするようになったら呼んでください」



 俺は自宅に帰った。騎手が必要なのは調教とレースだけだ。必要な時以外、ダテノアジュールと会う気はない。それ以外の事は調教師と厩務員がしてくれる。だから俺は騎手として、天皇賞に、メテオライトに勝てるよう全力を尽くす。



 出翔予定の全龍を調べ、レースが行われる高尾山競龍場の癖や特徴を考慮して、その日の気候や風向きを絡めて何百、何千、何万というレース展開を予想した。しかし予想は予想、前哨戦で綺羅星のように現れる有力龍に全てを覆され、調教で見る龍たちの調子で予想をやり直す羽目になる。



 躰作りも欠かさなかった。家に籠っていた数日で衰えていた躰を鍛え直し、万全の状態に持っていく。



 そして、ダテノアジュールの初めての調教の時が来た。



 残暑もなくなり秋らしい過ごしやすい気候が続いている。陽射しも柔らかくダテノアジュールは彫像のように落ち着き払い、全てが中間に近づいて俺の掌に収まっていくような感覚がした。



「本当に軽くで良いからね」



 好連さんの指示を受け、俺はダテノアジュールに跨った。特に命令を出さずとも、利口なダテノアジュールは空に飛び上がった。



 龍に乗るのは半月ぶりだ。



 衰えは感じない。それどころか何万回と繰り返したシミュレーションのお陰で、以前より意識と躰のリンクが深まったような感覚さえある。手綱を咥えるのも、右手をひっかけるのも、姿勢を変えるのも、全てが一瞬の遅れもなくスムーズに行える。



 ダテノアジュールも相変わらず良かった。



 流石にまだまだ動きは鈍いけど、好連さんの言った以上に衰えは感じない。利口で勝負根性が強く、しかし大人しくて騎手の指示に従順。反応も機敏で旋回も上手く、技術的精神的にも文句の付けようがない。



 生物というより、機械のような龍だ。



 この龍を生かすも殺すも騎手次第。騎手が上手く乗れば実力以上の結果をもたらしてくれるけど、少しでも失敗すれば決め手の無さがモロに出て、格下の相手にすら苦戦してしまう。



 良い競翔龍だ。



 今まで乗った中で、ダテノアジュールより強い龍は何騎もいた。でも、ダテノアジュールより優秀で、俺に合う龍はいない。



 こいつに天皇賞を勝たせたい。



 改めてそう思えるだけの覚悟と自信が持てる調教だった。俺は地上に降り、ダテノアジュールを返して帰途に着こうとした。



 一騎の龍が眼に入った。



 ドス黒い色の赤龍だ。ダテノアジュールより少し小さいぐらいの体躯だろうか。普段なら見向きもしないような個体の筈なのに、その龍に視線が吸い寄せられた。



「……あれが、そうなのか?」



 騎手を待っているのか、赤龍は調教コースの前で厩務員と一緒に佇んでいる。欠伸をするように嘴を開け、翼をもぞもぞ動かし、一気に翼を広げた。



 巨大、あまりにも大きな翼だった。



 雄の個体は全長四メートル前後で、翼を広げた翼開帳は十一メートルぐらいが平均だ。これが雌になると全長が五メートル近く、翼開帳は十四メートルほどになる。しかしその赤龍は、雄の中でも小型な躰をしていながら、大型の雌に匹敵する異様なまでに巨大な翼を持っていた。



「メテオライトだね」



 いつの間にか監視塔から降りてきた好連さんが隣で言った。その眼は俺と同じようにメテオライトに釘付けになっている。貫禄さえ感じる圧倒的な存在感が、俺たちの視線を放してくれない。



 やがて、一人の騎手がメテオライトに跨った。メテオライトの主戦騎手の頼安だ。メテオライトは数回羽ばたいただけで高々と舞い上がり、遥か上空まで行ってしまった。



 その後の調教も圧巻だった。



 ダテノアジュールと同じ休養明けの飛翔を思い出させるような軽い調教でありながら、その飛翔は調教コースの雰囲気を一変させた。監視塔で競龍記者がフラッシュを瞬かせ、タイムを計るトラックマンはメテオライトの一挙手一投足に集中する。他の龍の調教に来ていた調教師や騎手、厩務員すらも手を止めた。



 理想的な競翔龍とは何だ。



 競翔龍には理想される体形がある。躰は小さく、翼は大きく、それでいて空気抵抗を受けない形。しかしそういう龍は往々にして、大きすぎる翼を持て余して深刻なパワー不足を露呈する。



 メテオライトにそれがない。流石に大型の雌にこそパワーは劣るけど、通常の翼を持つ雄よりも力強く山を登る。下りは最早言う事がない。一気に加速して最短距離でコーナーに突入して、少しも外に膨れる事なく水平旋回を行う。能力は最高峰、その上無類のレース巧者。



 これが、九戦九勝の無敗龍メテオライトか。



「……あれに、勝てる?」



 好連さんが聞いてくる。俺は、強がりさえも返せず黙り込んだ。



 メテオライトのレースは散々見返している。難敵というには手強すぎる相手なのは重々承知していた。それでも僅かに勝機があると思っていたけど、実物をこの眼で見ると想定の甘さに笑いさえ込み上げてくる。



 ダテノアジュールはほとんど全てにおいてメテオライトに劣り、長所さえもメテオライトと同程度。鞍上の俺と頼安の実力差もほとんどない。



 ダテノアジュールは勝てない。いや、メテオライトに勝てる龍はいない。



 それでも。



「……勝ちますよ」



 俺は家に帰り、一からシミュレーションをやり直した。ダテノアジュールに完璧に乗っても、メテオライトには勝てない。それならどうする。



 メテオライトに実力を発揮させない。



 それしかない。レースではダテノアジュールの力を温存させつつ、他龍を使ってメテオライトを封じ込める。その上で、俺とダテノアジュールは全ての人間を出し抜いて掠め取るように勝利する。



 その日から、俺は目立つ事を止めた。



 俺とダテノアジュールは敵じゃない。相手にもならない。天皇賞に出るのは記念に過ぎない。そう言うように平凡で地味な調教を続け、俺自身も騎手生活を諦めたように振舞って、ダイブの記事目当てに寄って来る奴らに弱気な対応をした。



 そんな事を来る日も来る日も繰り返し、天皇賞三日前の最終追切まで貫き通した。ダテノアジュールは一度も併翔をせず、レースを意識させるようなタイムも出させなかった。各紙は一様にダテノアジュールを低評価し、俺は終わった騎手のように扱われる事も多くなった。



 それでも、俺に不安はなかった。



 ダテノアジュールは賢い龍だ。こんな調教をしているのに自分でしっかり食餌量を減らし、自分で躰を作っていた。実戦からどれだけ離れていようと、ダテノアジュールは無関係に飛んでくれる。俺たちの意思を汲み取って、全力を振り絞って先頭でゴールする。



 各紙は揃ってメテオライトを本命に置く。二着、三着に来るのはどれだと盛り上がる。他龍の関係者すら弱音を吐き、なんとか二着は取りたいと空しく息巻いた。



 競龍関係者は言う。



 勝つのは九十九,九パーセント、メテオライトだ。



 なら俺たちは、その0,一パーセントを手にしよう。他龍は百パーセント、メテオライトには勝てない。俺たちだけが、0,一パーセントの勝機を握っている。



 天皇賞六千メートル。



 万全の準備は整った。

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