第二幕第二場:親の呪い

 わたしは一人でピアノを弾いていた。


 ピアノのしらべに耳を傾けながら、自分の好きな曲を気分良く弾き続ける。


 わたしのすぐそばには、微笑みながら黙って聞いてくれる大好きなお母さんがいた。

 こうしてお母さんに、わたしが弾くピアノを聞いてもらうのは、何年ぶりの事だろうか。


 今、わたしが弾いている曲は、ジャコモ・プッチーニ作曲のオペラ『ジャンニ・スキッキ』の中でも有名なアリア『私のお父さん』だ。

 かつて幾度も幾度も弾いた大好きな曲、楽譜が無くともわたしの手はこの曲を覚えている。そして歌も。


 そしてわたしは、歌い始める……。


 **********************


 目覚めると、あたしはフカフカの大きなベッドの中にいた……。


 直ぐさま自身の体の隅々までを確認する。


 あぁ、右肩にある打ち身痕の青あざがちょっとひどいかも。

 あたしの柔肌は痛く傷ついたけれど、下腹部には異常も痛みも見受けられなかった。

 どうやら二十二年間守り続けた難攻不落の砦こと、あたしの操はまだ無事らしい。


 この先の事は……分からないけどね。


 周囲を見渡すと、贅沢な調度品に囲まれた大きな寝室らしき部屋にあたしは一人居た。


 あたしのお気に入りの天蓋付きベッドもそこそこの大きさダブルベッドサイズはあったけど、今この身をおくベッドは、その数倍の大きさであろう。

 しかもシーツの肌さわりが良く、柔らかくてフカフカだ。これは結構好きかも?

 (ああ、こんなベッドで毎夜を過ごせたら、きっと素敵だろう)


 しかしこのままノンビリとはしていられないと、その大きすぎるベッドからそっと降りた。


 それからソロリソロリと忍び足で窓際まで移動して確認する。


 分厚く重い豪華なカーテンの隙間から調べてみたが、やはり窓は鎧戸が下りていた。

 これでは外の様子も、確認できはしない。


 次に、この部屋唯一の二枚扉に、ゆっくり抜き足差し足で近づいていく。

 扉に近づくにつれ、遠くから人の叫び声が幾度か聞こえた。


 そして扉すぐ横の壁際に身を寄せて、部屋の外の様子を伺うあたし。

 何やら扉の向こう側から、騒々しい物音と言い争う声が聞こえてくる。


 聞き耳を立てると、扉の外ではどうやらこの部屋に押し入ろうとする者を、押しとどめているようだ。


 はて? 

 この聞き知ったような、歌声の主は?


 ・

 ・


『ねむれや ねむれ いとしいこ

 つたれたときは おねむりなさい


 ねむれや ねむれ たけりしこ

 こころをしずめ おねむりなさい』


 扉の向こうで、よく知る大好きな声の主が、古代ラテン語で優しく歌っている。


 同じ歌を二度繰り返すと、バタンバタンと次々倒れる音がした。

 そしてかすかに寝息やイビキが聞こえてくる。皆さん、おねむの時間かしら?


 これは好機とばかりに、意を決してあたしは扉の片側のドアノブをガッと引いてみた。


 すると、そこで意外な人物に鉢合わせしたのだ。


 その扉の向こう側に居たのは、大好きなお父様だった。

 何故ここに?

 鉢合わせしたあたしを見て、両目を見開いて驚くお父様は……。


「おぉ!ジルダや、わしの可愛いジルダや。大丈夫だったか?怪我はないか?」


 とても心配そうな声で問いかけながら、あたしをギュッと抱きしめ、そして優しく頭を撫でてくれた。


「ちょっと痛いわ……、お父様」

「なんと、どこが痛いのだ?」

「馬車でさらわれた時に、右肩にアザが出来ちゃって……」と青あざが残る右肩を見せる。


 それを見たお父様は、今にも泣きだしそうな顔と声で。


「あぁ、かわいそうなジルダや、ひどい目にあったんだね。だがもう大丈夫だ。

 ココは危ないから、すぐにわしと逃げよう」

「ココはどこなの?婆やはどこに?」


 するとそれに答えたのは、別の人物だった。


「ココは地獄の門をくぐった所じゃよ。薄汚い道化と愚かで粗暴な小娘よ」


 その憎々し気な言葉を発したのは、お父様の背後にある通路に立つ、あの四角い顔の老人だった。


 背後に数人の兵士を引き連れたその老人は、抱き合う私たち親子の水入らずの瞬間を威圧してきたのだ。再びこのあたしにコテンパンにされたいのだろうか?


「イグナチオ枢機卿! これは全て、お前が仕組んだのか!?」と、お父様は声を荒げる。


「左様じゃ。我が可愛い甥の公爵殿ためと、忌々しいおぬしに対するささやかな意趣返しじゃよ。幸いにも道化めを憎むものが、ここには沢山おってな。協力者には事欠かぬよ。おぬしも心当たりが沢山あろう?

 道化らしい笑える結末じゃな。ハッハッハッハッハ」


 癪にさわるダミ声と口調で私たち親子に語り掛け、高笑いする老人。


 あの時、キッチリとこの老人の止めを刺さなかった自分を恨みたくなる。と物騒な事が頭をよぎってしまう。


「わしの事だけならまだしも。娘にまで手を出すとは……、お前は枢機卿としての立場を考えないのか!?」

「ええい、うるさい! 黙れ! 黙れ!! 平民風情がこの我が輩に向かって、何たる口の利きようか!!

 その小娘は、この上級王国民の中でも名のある我が輩に対して、乱暴狼藉を働いたのだぞ。王国の国教を統べる十二使徒が一人、枢機卿という尊い存在である私にじゃ!愚昧な平民どもは、我が輩に恐れ慄き、平服しておればよい!!」


 あたしは生まれて初めて、その聞くに堪えない長セリフを耳にした。


 ささやかな幸せを求めて日々を生きる庶民の事を、塵芥とでも思っていそうな選民意識を感じる。

 選民きぞく意識高い系のとんでもない上級王国民とっけんかいきゅうの老人だわ。


 うわぁ、ヤバイ奴に絡まれちゃったなぁ。

 どうやってこの場を切り抜けようかと考えている所に、続けて選民意識が高い系のご老体が語り掛けてくる。


「しかしじゃ……、そこの道化が言うように我が輩も枢機卿としての立場があるのも事実じゃ。ここは大人しくその小娘が公爵殿の女になるというのであれば、親子共々ゆるしても良いと考えておる」


 あー、そうですか。ですか。

 お偉い公爵が、あたしを愛人として囲って下さるのですね?


 しかも、親子共々ゆるしても良いですって? 嘘つき!


 あたしは前世の記憶から、かの著名な神曲の一文を思い出していた。

 それには「この門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ」とあった。


 つまり先の言葉から、この老人はあたしたち親子を許す気など毛頭ないと伺い知れる。

 きっとこの老人は淡い希望を抱かせておいて、あとで地獄の底へ突き落とす腹積もりでしょうよ。


 それにしてもこの状況には困ったわ。お父様の先ほど眠り魔法で何とかならないかしら?


 ちなみにこの世界の魔法は、古代語と呼ばれる古い言葉をもって、歌う事で力を発揮する。


 以前私が婆やから聞いた話では、魔法と言うものはその古代語の歌の精度により、魔法の効力が大きく変わるらしい。

 歌い手の力量次第では、同じ発火の魔法もロウソクの灯火程度の小さな火から、屋敷を焼き尽くし大火までと、その結果は千差万別との事。

 つまり宮廷魔導師や高名な賢者ともなれば、彼らは皆が皆、古代魔法歌の名手たりえる存在となるらしい。


 そしてその古代語と言うものは、前世の世界のラテン語とほぼ同じものらしい。たまたまオペラ歌手の卵としてイタリア語だけでなく、その源流たるラテン語も学んでいた私には、先ほどのお父様の歌も、何となく内容が理解できたのだ。


「伯父上、これは一体何の騒ぎですかな?」


 しばし睨み合っていた平民と上級王国民の間に、聞き覚えのある素敵な声が割って入ってきた。

 すると、老人の後方には一人の伊達男の姿があった。


 高価そうで派手なお召し物にその身を包んだ男は、伯父上殿の言葉通りの上級王国民の一員だろう。


 しかし……彼は。


 ・

 ・


 あたしとお父様の二人は今、上級王国民のお二方と別室で、向き合うように長椅子に座っていた。


 上級王国民と平民、支配者と被支配者、監主と囚人という、涙なしでは語れない忌まわしい間柄だ。


「公爵殿も慈悲深いお方じゃ。このような下賤な平民を丁重に扱うなどと。吾輩には思いもつかぬよ、フハハハハ」


 上級王国民代表とおぼしき老人が、厭味ったらしい目でこちらを睨んでくる。

 ふん、アンタとは同じ空気を吸うのも願い下げだわ


「伯父上殿、下々の言葉にも耳を傾けるのが、支配者の器量と言うものでしょう」


 と、ふんぞり返りながら素敵な声で話す、もう一人の上級王国民代表の伊達男。

 ふーん。為政者ではなく、ですか?


 今のあたしは不愉快の極みの境地に達しつつあった。

 何故ならば。今、あたしの目の前にいるコイツは、あたしが知る昨日の彼ではないからだ。

 姿形も、その素敵なテノールの声も全く同じだ。

 でも違う。私にはハッキリと感じられる。その言動と派手な衣装以外から。


 コイツの内側からにじみ出てくるかのような魂の色というか、一個の存在としての雰囲気が違うのだ。


 昨日の彼には、ひたむきさと一種の気高さがあった。


 しかしコイツから感じるものは、どす黒い見下げ果てた、卑しさだけだ。……汚らわしいわ。


「それにしても美しいお嬢さん。こうして再会できたと言うのに、その機嫌の悪い顔はひどいな」

「あー、そうですか?……そうでしょうね。

 今のワタクシは、自分の胸の内を素直に表現していますので」


 と思わず心の声を口にしてしまった。でも反省はしない。

 そしてあたしはいかにも不機嫌そうなムッとした顔を続ける。


「つれないねぇ、せっかくボクが助け舟を出してあげたのに。

 しかし、もしあのままだと二人は縛り首になっていたかもしれないよ?

 あとあの老婦人もか」


 と、恩着せがましく語り掛けてくる。


「婆やはどうしたのよ!? もし何かあったら容赦しないから!!」


 公爵殿は肩をすくめて、隣に座る同じむじなの老人を一瞥する。


「安心するがよい小娘、牢獄ではない他の部屋で今は眠っているはずじゃ」

「…………まさか、永眠してますとか質の悪い冗談じゃないでしょうね?」

「フハハハ、別にそれでも良いが、それでは交渉する余地も無くなるじゃろう」


 小馬鹿にするようにあたしを嘲り笑うが、この状況で油断など出来るものですか。


「枢機卿、交渉とおっしゃるがコレはもう脅迫ではないか。わしに一人娘を公爵閣下に差し出せなどと……」


 と、お父様が会話に割って入ってくる。


「何を言うか! この痴れ者の道化が……、言うに事欠いて慈悲深い公爵殿の申し出を、脅迫などとは……不敬にも程があるぞ!」


 一方的な交渉という名の脅迫しているのは、アンタら二人でしょうが! と心の中で突っ込む。


「アナタの魂胆は分かっているわ。この状況を利用して、私を囲い込み、ベッドの上で飽きるまで弄ぶ気でしょう!?

 でも丁重にお断りします! ワタクシの清い体は、決してアナタの思い通りにはならないわ! たとえ死んでも嫌っ!!」


 と勢いよく啖呵を切る私だけど、この後の事は何も考えていない。

 手詰まり過ぎて、本音をぶちまけてしまった。

 しかしながら、もし手籠めにされようものならば、一矢報いてから自らの舌を噛み切るくらいの覚悟はある。


「今はそうかもしれないな。でもまぁ、別に楽しむのはベッドの上だけじゃないけどね……。いずれはボクのモノになるのさ」


 ニヤニヤと下卑た笑いを臆せず披露しながら、目の前の公爵様は何やら悦に浸っている。


 あぁ、もう駄目だ……コイツ。 

 今、あたしは生理的嫌悪感の極みにあった。


 そんな娘の姿をお父様は見かねたのか。

 その次の瞬間、横に座っていたお父様はいきなり立ち上がり、口から泡を飛ばすように罵詈雑言の嵐を目の前の二人に叩きつけ始める。


 ただ茫然とそれを見つめる私と、顔を真っ赤にしている他の二人。


 そしてその最後に、怒りに震えるお父様は、あたしが今まで一度も聞いた事のない激しく荒々しい口調で、己の主君と憎たらしい枢機卿に向かってこう言った。



「お前たちは皆、呪われてしまえ!!」と。




 そして一方的な降伏勧告の如き交渉は、至極当然の結果に終わった。

 その後、あたしたち親子は、いずこかの部屋に閉じ込められたのだ。

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