第二幕第一場:親の願い(後編)

 公都マントヴァは、U字状に流れるチェレステ川によって大きく二つに分断されている。


 川の内側には、旧市街と呼ばれる城下町があり、その南側に位置する湾曲する川辺の丘の上には、支配者の公爵が住む古くて大きな城塞グランデフォルテッツアがあった。

 そして川の外縁沿いに狭々しく広がっているのは、多くの商売人と新たに外から来た者が住む新市街だ。


 かつて住んだ私たちの屋敷も新市街にあった。


 毎週欠かさず通った川辺の小さな教会も、よく買い出しをした公園通りも、露店街も全てそこにあったのだ。


 そしてあたしたちの、ささやかな思い出も。


 あたしたちをのせた馬車は、川沿いの道を下流方面へ向かっている。そのまま川を下るように街道沿いを東へと向かえば、海に面する王都エトルリアに辿り着けるからだ。


 激しく駆ける馬の足音と馬車の車輪音から推測するに、かなりの速度を出しているようだ。婆やもいるのだから、安全運転にして欲しいものだわ……。


 御者台側の内板を叩いて、この正当な抗議と要望を伝えようとした


 いきなり馬車は進行方向に向かって右に、遠心力が大きく働いた。


 つまり馬車は、左に大きく曲がったのだ。


 これは変だ。自分が想定していた馬車の進路ではない。

 急な進路変更のために、あたしと婆やは馬車の内板に頭や手や肩を強かに打ち付けられた。


 痛ぁ~。……今ので、私の右肩にあざができたかも。

 なんて乱暴な馬の扱いなんだと憤慨しつつも、しばらくして奇妙な事に気が付いた。


 馬車は坂を登っているようなのだ。それも急勾配を長い距離。


 慌てて小窓を開いて外を確認しようとしたが、小窓の扉がガンとして開かない。

 外から固定されているようだった。……してやられたみたいね。


 この街でこんなにも坂道が続いた上で、辿り着く場所はただ一つだけである。


 そう、支配者である閣下の住まう、丘の上の城塞だ。


 冷静になって考えてみれば、簡単な話だった。

 おそらくこの馬車はお父様が手配したものではなく、事前に知った上で先んじて送り込まれたのだろう。

 わざわざあたしを誘拐するために、これは仕組まれたのだ。


 何はともあれ婆やには小声で、馬車が止まったらすぐ飛び出して逃げると伝える。そしてあたしは小さな金目の物を、自分と婆やのスカートの内側にできるだけ隠した。

 それから私の靴のヒール部分を外して、少しでも走りやすいようにと工夫する。

 

 ついでに予備のタイツを取り出すと、そこに金貨を三十枚ほどいれて、端をきつく縛っておいた。

 これは自分の右手袖口に隠しておく。


 あぁ、こんな事ならば、保険で護身用に魔石を準備しておくべきだった。完全に油断していたわね。


 せめて昨日の気の良い彼が公爵であればとも思ったけど、それはきっと甘い期待で、彼は全くの別人であろう。今はもう忘れるしかない。

 しかしながら、あれほど悲惨な運命を避けようと考えを巡らせていたというのに、あたしは初めて味わいつつあった恋らしきモノに心を奪われて、油断した結果がコレだから目も当てられない。


 この期に及んでは覚悟を決めて、オオカミたちの巣から無事に逃げ出せるように最善を尽くそう。

 私の知恵と勇気と冷静な判断力を駆使して、必ずこの修羅場を切り抜けてみせる、と心で固く誓った。


 しかし、そのフラグのような誓いは、この後すぐに自分自身の手で(物理的に)打ち捨ててしまったのだから……。



 というのも馬車が止まった直後、馬車の出入り口扉を私は、内側から思いっきり両足で蹴りだしたのだ。丁度、誰かが外からガチャガチャと、扉を開けようとしている所に。


 その結果、扉の前にいた運の悪い不埒者は、勢いよく頭を地面に打ち付けたのか、ものの見事に気絶している。やったね、あたし!


 急いで婆やの手を取り馬車の外に出ると、御者台の老人が「何をやっとるのじゃ!」と怒りを露わにして、被っていた帽子を自ら地面に叩きつける。


 そして御者台から飛び降りて、物凄い勢いであたしたちに迫ってきた。


「婆や、後ろにある城門から走って逃げるのよ」


 そう言って、篝火かがりびによって闇夜に浮かび上がる後方の城門をあたしは指し示した。


 それから御者の老人に向かって、時間稼ぎのために一人だけで対峙する。

 次の瞬間、あたしの頭を電流が走り抜けたかのような衝撃を受けた。


 その老人の顔に見覚えがある。前世の私が見た、最後の記憶にあったものだ。

 (あの男だわ!)


 私はあの時、死を目前としたスローモーションの世界の中で、車の運転席から私を見つめ、驚き、動揺している表情の老人を見た。


 特徴ある四角いあご顔と鼻の下にある大きなホクロ、何よりも驕り高ぶったようなイヤな目つきは忘れようがない。 今しがた、思い出したけどね。


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 その後の記憶は、非常にあやふやだった。


 確かあの瞬間、あたしの感覚全てが加速し、死んだあの時のように、世界がスローモーションになって見えていたのだ。


 前世で私を車でひき殺し、母との夢も約束も全てを台無しにしたあの四角い顔の老人を再びこの目にした瞬間、私の全身は激情と憤怒の力によって包まれた。



 それからあたしはその老人に向かって、左肘を突き出しながら激しく体当たりをした。


 相手の胸元にあたしの肘がめり込むと同時に、あたしは勢いに任せて袖口に収めていた右手を出し、水平に大きく回転するように金貨の詰まったタイツを振り回した。


 体当たりを受けた老人は、あたしを突き放そうと押し出すがもう遅い。


 遠心力によって伸びた凶器のタイツは、老人の後頭部を猛打する。


 油断したところに、前後からキツイ打撃を二度受けて平気な男はそう多くはない……はず。


 老人は前のめりに、ゆっくりと倒れた。



 もしこの時、あたしが冷静であれば、すぐさま婆やの手を引いて無事逃げおおせていたかもしれない。

 でもあたしの精神は、冷静な極寒地にはなく、遥か遠い灼熱の場所にあったようだ。


 その後も、さながら理性の欠片もない狂った戦士の如く、ただ暴れ回わるあたし。



 だがその結末は、周りを兵士達に取り囲まれた後、突然あたしの意識が寸断される事で終わった。


 後で聞いた話だが、捕まるまでの間に猛獣の如く大立ち回りを演じたらしい。

 今思えば自分の愚かさ加減に、顔から火ではなく、溶岩が噴出しそうだった。


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 ただ、意識を失う瞬間の無意識下の言葉だけは、ハッキリとあたしの頭に残っていた。



「ごめんね、お父様……。ごめんね……、婆や」

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