第10話 食品衛生責任者

 母が蒸発してしまったので、週の半分は店を閉めざるを得なくなった。

 開拓した客からも苦情が出る。

 増えた実入りも減る。

 安くはない地代を考えると頭が痛い……。

 難しい選択だったが、私はその月でお世話になった◯座の小料理屋を辞めることにした。

 紹介してくれた方とオーナーに直接事情を説明した。

 “母の体調が思わしくないので私が居酒屋を継ぐことにした”と、うそぶいた。

 紹介してくれた方の顔を潰すようで申しわけなかった。

 私は後身が見つかるまで月をまたいで働いて辞めた。


 母が蒸発してから、私は仕事のしかたを大幅に変えた。

 まずは薄汚れた店の隅々まで掃除した。

 客から見える所も見えない所も。

 衛生面を考えれば飲食店としては当然だった。

 母が業務用スーパーで購入していた惣菜をやめ、毎日少量ずつ手作りした。

 冷蔵庫には3パックもの生卵があった。

 今にも雪崩を起こしそうで消費期限も近い……。

 マヨネーズも使いかけの業務用が二本。

 じゃが芋、人参、玉葱、胡瓜、万能葱、豆腐、鯵の干物、魚肉ソーセージ、豚肉、もやし、きゃべつ、焼きそば……パックのままゴム留めされた紅しょうがは液漏れして棚を汚していた。

 料理の注文が少ない、ままごとのような居酒屋の冷蔵庫の中身だ。

 母の買いだしは、あまりにもロスが多かった。


 私はメニューを限定することにした。

 毎日買いだしにいき“本日のメニュー”を書きいれたホワイトボードを店の外に吊るした。

 母と働きはじめたとき、客に

「この店は居酒屋なのにエイヒレも置いていないのか!?」

と、ごもっともなお叱りを受けたので、リクエストには極力応えるようにした。

「お嬢さん!損して得取れだよ!」

 そう教えてくれた品のいい老夫婦は常連になった。


 私は休みなく働いた。

 そんな日が続いたあるとき、店に向かうバスの座席で不覚にも泣いていた。

 大腿に置いた手の甲に大きな雫がぽとぽと落ち、我に返った。

「一時間だけ店を空けない?リフレッシュしよう!」

 私の異変に気づいた彼が、近隣の祭りに連れだしてくれた。

 母の携帯電話はふたたび不通になった。

 Nに操作されたのだろう。

 どこをフラついているのかもわからない……。

 それでも、私は母の帰りを待った。


 その晩は遅くまでにぎわった。

 くたびれたので細々したかたづけは翌日に持ちこし、彼の家に向かった。

 母が蒸発して以降、防犯上の面からも、私は毎晩彼の家に泊まった。


 翌日、前日の残りのかたづけをするために前倒しで店に入った。

 一段落して一服していると、すりガラスの扉の向こうに鍵を開けようとする影があった。

 私はとっさに雄叫びをあげ、そのどす黒い塊を追いはらった。

 新しくした鍵を持っているのは母と私だけだ。

『母から鍵を盗んだのか!?』

 これ以上、私から何を奪おうというのだ!?


 カウンターのスツールに座り、冷静を取りもどそうと努めていると、キッチン奥に掲げていた“食品衛生責任者”の青いプレートがなくなっていることに気づいた。

 それには、取得者である母の氏名が記されていた。

 取得するのは簡単だが、飲食店を営むには絶対必要だ。

 それにしても、なんたる稚拙な嫌がらせか!

 このまま母が戻らなければ、私が新たに取得する手間と受講料が必要だった。


 あくる日、いつものように十七時の開店に合わせて買いだしをし、惣菜を数品作った。

 一服にアイスコーヒーを飲もうと製氷機の扉を開けたが、氷がやけに少ない。

 自動で製氷されるはずなのになぜ?と思い、あちこち調べた。

『いよいよ壊れたか?』

 リサイクルセンターで購入した中古品だ。

 それもあり得る。

 さらにあちこち調べて……私は心底ゾッとした。

 製氷機につながっている水道管の元栓が閉められていたのだ!!!

 ネズミや幽霊のしわざじゃない。

 私は急いで開栓した。

 幸い、開店まで時間があったので事なきを得た。


 サイコパスは痕跡を残さない。

 追いつめたい相手にだけ、知らせるように痕跡を残す。

 どこをどうしたらそんな発想にいたるのか!?

 サイコパス本人にさえ、わからないのかもしれない……。

 







 



 

 

 






 

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