第8話 内容証明郵便

 彼は私の身を案じて毎晩店に顔を出してくれた。

 だが、その夜は少し様子が違っていた。

 彼は一枚の白い封筒を手にしていた。

「ママ。ちょっとこれ確認してくれる?」

 酒も頼まないうちに母に渡した。

「何?」

 私が覗く。

「えっ?何これ!」

 私は母より先に不穏に気づいた。

 実在する弁護士からの内容証明郵便のコピーだった。

 原本をその場で破棄されてしまうのを恐れてのことだろう。

 要約すると“これ以上店主(母)を脅迫するようなら脅迫罪で告訴しますよ”という内容の警告文だった。

 私は母にそれを伝えた。

 母の顔が青ざめた。


 母には識字障がいがある。

 神経発達症の枠組みである学習障がいのうちの、読字障がいと書字障がいだ。

 読みかきが苦手なので、公文書のように漢字だらけで専門用語の多い文面を理解することはできない。

 だが、その書面の最後にはしっかり母の署名押印があった。

 明らかに母の筆跡だった。

 ご丁寧に実印が押してある。

「こういうのは困るんです。私がいつあなたを脅迫しましたか?誰かさん(N)に伝えてください。そちらがそのつもりならこちらも出るところに出ますよ、って」

 彼は怒りを押しころして母をたしなめた。

 母を案じて、憎まれ役を買ってまでこちらの世界に引きもどそうとした彼には、あまりにもひどい仕打ちだった。

 しかも、それは彼の経営する会社宛に差しだされていた。

 嫌がらせもいいところだ。

「Aさんに相談してきたんだ」

 彼が私に言った。

 店にくる前、彼は兄貴と慕う仕事仲間に相談していた。

 Aさんは店を貸しきって宴会を開いてくれたりと、母や私もずいぶんお世話になっていた。

「『書け!』って言われたから書いただけなのに!私は何も知らないよ!」

 母は端で飲んでいた友人に訴えた。

「ママ!さすがにそれは無責任なんじゃない?」

 彼がたしなめた。

「ちょっと出ようか」

 私は彼を隣のスナックに誘った。


「なんかごめんね。私といると迷惑がかかるね……」

 私は少し泣いてしまった。

 生まれてこの方、家族というだけで、母にありとあらゆるものを奪われてきた。

 母は私から愛する彼をも奪うのか!?

「いや、薫が謝ることないよ」

「でも母が謝れないから謝っとく。人の気持ちが汲めないんだよ。ごめん……」

「うん」

 母の自閉スペクトラム症は神経発達症の他の枠組みと複雑に重なりあっていた。

「面倒だったら離れてもらってかまわない。それで卑怯だなんて全然思わない……」

「大丈夫だよ。そばにいるよ」

 彼はうなだれていた私の頭を撫でた。

「仕事に支障はない?」

 べそをかきながら訊いた。

「全然!大丈夫!」

「よかった……」

「なんなら闘うし!」

「雑魚相手に人生の大切な時間を使うのはもったいないよ」

「Aさんと同じこと言うよなぁ!」

 彼が笑った。

「「頂きます!」」

 勝手知ったるママが、黙ってグラスビールを注いでくれていた。


 Nは正義感の強い彼がじゃまなのだ。

 懲りずに母を引きもどそうとしている。

「この弁護士にね、問いあわせてみたの。Nとはまったく関係なかったよ」

「そうなの?事務的に処理しただけってこと?」

「そうだろうね……」

 数日前には彼の自転車が盗まれた。

 仕事の打ちあわせで入った喫茶店の前に駐輪した、ほんの数十分のできごとだ。

 社用の自転車には社名が入ったステッカーが貼られていた。

 彼は私を気遣い、それと警告文を関連づける話をしなかった。


「大変なことをしてくれたね。明日、飲みにくるから。ちゃんと彼に謝って」

 店に戻ると私は母に促した。

 母はNとつながっていた。

 母はNを頼ってしまった。

 母のなかで、敵と味方が目まぐるしく交代していた。

 母が落ちつかなかったので、その晩はタクシーで帰宅することにした。


 翌日、友人に会うからと昼ごろ自宅を出た母は、営業時間になっても店に現れなかった。

 母はそのまま、消えた。


 






 


 

 


 

 

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