第6話 老いらくの恋

 私がふたたび母と働くようになって間もなく、ガマガエルのような婆さんが店を訪ねてきた。

 大酒飲みのガマガエルは、◯原弘の“○こそわが命”をろうろうと歌いあげたあとで話しはじめた。

「いい男だよね……いい男だから騙されちゃったの」

 好評価の相手はNだ。

 ガマガエルはNの“ひとつ前の鴨葱”だった。

 ガマガエルの美意識は一般的なそれから激しく逸脱していた。


 いつもなら、私がドアベルを鳴らすと取るものも取りあえず裏口から逃げるNだったが、あるとき、空腹というお粗末な理由から店に留まったことがあった。

 入り口で仁王立ちして無言で圧力をかける私に、Nは挙動不審に屁理屈をこね

「三日も何も食ってない!」

と母にやつあたりした。

 ヒモのくせにまるで立場をわきまえていない。

 ヒモのくせに無条件に情愛を授かれると思っている。

 なんたる厚顔無恥か!

 働かざるもの食うべからず、だ!

 勝手に餓死してしまえばいい!

 Nは母を脅して作らせたであろうカレーライスを性急に、だが、二杯も平らげて裏口から出ていった。

 その間、私はNを観察した。

 醜く肥えた短い体躯。

 精神病質の猪首。

 表情筋が退化したいびつな面。

 ふつふつ発酵する沼のような目。

 おぞましい……おぞましい……おぞましい……。

 ただ、ひたすらにおぞましい。

 そこまでおぞましい生き物を、生まれてこの方、私は見たことがなかった。

 ガマガエルが称した“いい男”はこれっぽっちも存在しなかった。


 ガマガエルとNは、母と同様にスーパー銭湯で知りあった。

 後家で一人暮らしのガマガエルの自宅に、Nは渡りに船とばかりに転がりこんだ。

「積み荷の仕事をしてたんだよね……それもすぐに辞めちゃってね……」

 ガマガエルはつぶやいた。

 ガマガエルも母と同様にすべての生命保険を解約させられ、返戻金を奪われていた。

 おまけに長年勤めた食品工場を早期退職させられ、退職金のほとんどを奪われて蒸発された。

「好きだったんだね……」

 ガマガエルは自分に言いきかせるようにつぶやいた。

 Nを裁くつもりなど毛頭ない。

 目の焦点が合っていない。

 まだ、洗脳が解けていないのだ。

 だから、身ぐるみ剥がされて蒸発されても、子どもたちに反対されても、Nの消息を辿ってこっそりやってきたのだ。


 ガマガエルと母は身体的な特徴が瓜ふたつだった。

 動作が緩慢でNよりふたまわり年上なのも同じだった。

 二人はすぐに意気投合した。

 二人はNにとって“典型的な鴨葱”だったのだ。

 しかし、Nは今までにいったい何人の“鴨葱”を渡りあるいてきたのだろうか……?






 


 

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