第7話 狩

「上杉です。今日はどのような件で来られたのですか?」

 上杉は無警戒に名刺を差し出してきた。警察しかも捜査一課の刑事に対し、警戒も怯えもなく自然体で向き合える人間は少ない。それは武道に長けた椚木が見ても、見事な自然体だった。

「今日は上杉さんの友人である、阪口明文さんのことで伺いました。ある重大事件に関係しているので、ご協力願います」

 椚木の言葉に上杉は大きく頷く。

「阪口に何かあったんですか?」

「当時彼はノイローゼ状態だったと聞いています。会ったときに、自身の番組の関係者に対する不満や怒りみたいな話はなかったですか?」

 上杉の質問には答えず、椚木は探りを入れてみた。

「もしかして、マウンテンゴリラに関係してますか?」

 上杉から再度質問が返されたが、椚木はそれには答えず、じっと自分の質問の答えを待った。

「すいません。これでは質問合戦ですね。職業柄質問することが多くて、答える前に反応してしまうんですよ」

 そう言って、上杉は恥ずかしそうに笑った。椚木が見ても会心の笑顔だった。百人の捜査官が百人とも疑いを消すような……


「職場の人達に対する不満みたいなものはありましたよ。ノイローゼの原因はたいてい人間関係ですからね。でも一般的なレベルで特に強い印象はありませんでした。阪口のノイローゼの主原因は、変われない自分に対する苛立ちですから」

「変われない自分?」

「ええ、阪口は高校もSLJCの付属高校で、自治会長を務めるなどエリートコースが約束されているような男でした。それを捨ててテレビ番組の制作を仕事に選んだのは、普通のリーダーとは違う者になりたかったからです」

「普通のリーダーとは違う者?」

「そう、一般的なリーダー像は、自分以外の人間に対し惹きつける、従わせる、慕われるなど、他人への影響力で評価されます。彼が目指したのはそうじゃない。人としての限界を超えた先を目指し、その結果として人間から進化した存在を夢見ていました」

 井上の顔に困惑の色が出ている。椚木はその顔を一瞥して質問した。

「それは天才的な科学者や文学者、歴史に残る政治家と言った類のものですか?」

「うーん、そういう人じゃないんです。むしろ目指していたのは人を超えた存在かな」

 そこまで話して、上杉は椚木の顔色を窺う。

――こいつ俺を観察している。

 椚木は話の内容よりも、観察者である自分に観察者として対している上杉に、不気味な不快感を感じた。


「人としてのエリートコースを捨て、少しでも成長のヒントとなる刺激を得たいと思い、今の職業を選んだようです。彼にとってテレビ局は、他の職業に比べクリエイティブな故に、自身の成長を促すイメージが強かったようです」

「その頃から少し病んでいるような感じがしますね。人を超えるなんて」

 たまらず井上が口を挟んだ。話の流れに巻き込まれて、刑事として上杉を観察することを忘れている。完全に上杉のペースに嵌ってしまった。

「そうです。そう成れない焦りが彼の精神を蝕み、一時的に他人とのコミュニケーションを拒絶してしまったみたいです」

「その悩みは今は解消されたんですか?」

 上杉の話の真偽は分からないが、椚木はとりあえず流れに合わせて質問した。

「今はもう大丈夫です。彼から迷いは消えました」

「何を話したんですか?」

 そこで上杉は話を中断して、窓の外を見た。そこには花壇があって、ブッシュローズのバラが一面に咲き誇っている。珍しいことに花の色は白一色だった。


「簡単です。形を示してあげたんです。例えば椚木さんは刑事ですよね。当然他の人間に法を守らせたり、人々の暮らしに秩序をもたらすといった、社会での使命が形として明確で、それを精神的な背景にして行動しています。一般的に人はその使命が明確で、その内容が受け入れやすい程、そのために発揮する能力はより高くなり熱心に取り組めます」

――当り前じゃないか。

 椚木はピンと来ない中で、黙って次の言葉を待った。

「現代は民主主義が基本となる社会です。合意が行動の基本と成るシステムです。全ての社会システムがその上に成り立っている。例え社会主義国でさえ、民主社会であることを標榜する。そうなると社会的に明確な使命は、民主主義の大義名分が必ず必要になる」

 ここまで話して上杉は初めて表情を変えた。微かだが苦しそうだ。

「しかし、例えば現在起きている人間による環境破壊から地球を救うためには、民主主義の政策決定システムでは無理がある。地球温暖化への対応ひとつをとっても、民主社会の中心であるアメリカが反対している。いや国民の合意を必要とする民主主義だからこそ反対せざるを得ない」

 話が大きくなったなと椚木は思い、本題に引き戻そうと口を開きかけたが、上杉の話は続く。

「こういう考え方もあります。もう地球を救うには、人間より強い種に成り、人間を支配下に治めるしかない。多くなり過ぎた人間を間引きするために、狩をしながら……」

――危険思想だ。

 椚木には上杉の存在がマウンテンゴリラ以上に危険に思えた。

「人類さえも自分に対する弱者とする。ニーチェはこの存在を超人と呼びました。阪口が目指す形の一つはそれかもしれない。ニーチェはそのための精神の三つの変化も予告しています」

「すいません。哲学はよく分かりませんが、阪口さんはその超人になるための具体的な方法を見出したんですか?」

 椚木は阪口の話に戻すために結論を急いだ。


「それは分かりません。他人が理解できることではないんです。ただ、話しているうちに彼にはピンと来たようです。彼は普通の人間とは違う。人としての成功や安楽・快楽を捨て、十年近く変わるべき姿を追い求めている。きっと我々とは次元の違う精神の成長を遂げているはずです」

 椚木はこの男にしては珍しく混乱していた。上杉の思想は理解の範疇を超えていた。上杉が何を求めているのか、そしてその先にある阪口の思い、全てが想像できなかった。

「理解しにくいですよね。ただ、私は阪口にそれは反人類的な思想であると言いました。また、人類はそういった異物を排除しようとすることも話しています。後はあくまでも彼自身の選択の問題です」


 椚木は観察者としての視点を捨て、上杉と正面からぶつかってみることにした。

「阪口さんは立ち直って、前にも増して職場の信頼を得ている。あなたの言葉通りとすると、彼はその思想を否定したんですね?」

「それは分かりません。でも椚木さん、あなたはもうすぐ真実を探り当てるでしょう。あなたはとても頭のいい人だ。今起こっていること全てを、人類の持つ宿命として捉え、理解することが可能だと思います」

 椚木は珍しく感情が表情に出た。上杉の賛辞は嬲られているとしか思えない。しかも、椚木の聞きたかったことは、まだ何一つ分かっていない。

「まるで予言者のようですね」

 井上が感心したように言った。

「いえ、感じたまま何の根拠もなく言葉にして申し訳ありません。ただ、私はこうした脅威にやがて晒されることを覚悟しなければならないと、日々感じています」

 三人のいる空間に沈黙が流れる。

「私が話せることはもうありません。そろそろ終わってもいいですか」

 上杉はあくまでも冷静にかつ好意的に話を終わろうとしていた。井上は何一つ分かってないにも関わらず、この場を辞去する表情をしている。椚木自身も、どう続ければいいのか分からなかった。言葉が見つからない。しかたなく、今日はいったん帰ることを選択した。帰ってもう一度上杉の話を振り返り、阪口と犯人を結ぶ仮説を立てる。

 椚木と井上は、上杉に丁寧に礼を言って、応接を後にした。駐車場に着いて、車に乗り込むと井上がじっと椚木を見た。


「マサさん、自分は今日の話は全然理解できませんでした。しかし、あんなに知的で穏やかな人に、底知れない恐怖を感じました」

 椚木は無言で目を閉じた。何が恐怖だったんだろう。上杉の話自体はよくある民主主義の矛盾を突いたものだ。民主主義より独裁政治が、よりダイナミックで大きな政策を打ちやすいと主張する論は、世間には多くある。

 警察組織を見ても、マスコミそしてその先にいる民衆の感情に、しばしば行動が制約されることはよくあることだ。

 椚木の脳裏に上杉のある言葉が突き刺さった……狩!


 そうか、阪口は狩を始めたのか。獲物はテレビで問題発言をして世間を騒がせ、かつ高層階で生活する者、そして狩場は彼らの住む高層階。狩のルールは、高層階の窓から侵入し、頭蓋骨を砕くことによって仕留める。

 胃の中に重い鉛のようなものを感じた。すぐに吐き出したい思いに駆られた時、井上が再び口を開いた。

「過激思想ですよね。多くなり過ぎた人間を狩るって」

 思わず井上の顔を見てやっと気づいた。上杉の思惑を考えすぎて、すぐに核心に近づけなかった自分と比べ、井上はあくまでも自然体で上杉と接し、感覚的にキーワードを捉え、そこに恐怖を感じたのだ。急に相棒の成長が頼もしく思えた。


「基本が大事だな。自然体を崩してはいけない。俺も勉強させられたよ」

 突然自嘲するような椚木の言葉の真意が分からず、井上は戸惑った表情に成る。

「いいから」

 椚木は、車を対策本部に向かうように指示を出した。

「義人はどうして警察官になったんだ?」

 どんどん刑事として成長していく井上に、なんとなく聞きたくなった。

「自分ですか? そうですねぇ、大した話じゃないんですが……」

 ほんとにつまらないと思っているのか井上は口ごもった。

「俺だって大した動機で警察官になったわけじゃない。いいから聞かしてくれよ」

 椚木に促されて、井上はしゃべり始めた。


「高校の時の社会科の先生がちょっと変わっていて、人間には三つのタイプがあるって云うんです」

「三つのタイプ?」

「そうです。一つは政治家や企業の社長のように、社会的に定まった価値観の上で人を導いて、自分自身の富や名声を築いていくタイプ」

「社会的に定まった価値観……」

「はい、面白い表現でしょう」

 椚木は急に興味が湧いて来た。

「それで後の二つは?」

 井上は少し考えた。眉が中心に寄っている。

「後の二つは……そう、同じように社会的に定まった価値観の中で、最初のタイプの人に支配されながらも、安心と快楽を追及するタイプ。サラリーマンに代表される大半の人達はここに属するそうです」

「じゃあ、三つ目のタイプは?」

 井上は再び眉を寄せて考え込みながら答えた。

「犯罪者だそうです。社会的に定まった価値観に反発、あるいは絶望してルールを逸脱するタイプ」

「なるほど、我々警察官は二つ目のタイプか?」

 そこで井上はニヤッと笑って答えた。

「警察官は本来三つのタイプのどこにも属さないタイプだそうです」

「どこにも属さない?」

 面白い見解だった。椚木はその理由を知りたくて、井上を目で促した。

「警察官は社会的に定まった価値観を守る立場にいる。だけど、相手にするのはそれを否定する人間なので、自然とその思考に触れないと使命を果たせない。だから解決するために、新しい社会的価値を人々に紹介する一面を持った職業だそうです」

「面白いな。そういう考え方もあるんだな。だが、そういう警察官は実は少ない」

 椚木の言葉に井上は大きく頷いた。


「自分も警察に入って、それに気づきました。だけど……」

「だけど何だ?」

「椚木さんに会って、自分は警察官になって良かったと思います」

 井上は助手席の椚木を見て、そう言った。

「さあ、そろそろ行こう。時間がないぞ」

 井上は慌てて前を見て、安全を確認して車を発進させた。

「椚木さんはいつも冷静に今できることを考え、焦らずそれを一つ一つ実行して、最後は問題を解決する。自分もそういう警察官に成りたいです」

 椚木は苦笑した。そんなに偉い者じゃない。しかしいい話だ。できればずっとそうありたいものだ。ふと死んだ父親のことを思い出した。


 椚木の父親は富山県警で山岳警備隊に属していた。山を行く人々の守り神であり、生粋の山男である父を頼もしく誇らしく思っていた。

 椚木が一五歳の時、中学卒業を記念して友人達を誘って冬山に挑んだ。ルートとしてはごく優しく、中学生でも達成感をそれなりに味わって安全に下山できるものだった。

 ところが、運悪く十年来の大寒波がやってきて、椚木と同級生の七人はホワイトアウトの中で立ち往生してしまった。六時間が経過し、ようやく天候が回復した時、一斉に捜索活動が始まった。

 ベテラン警備員である父が自分たちを発見したとき、衰弱していたが誰も怪我はしていなかった。父は無線で救助ヘリを呼んだ。着陸スペースはないので、ロープで一人ずつ引き上げを開始した。最後が椚木だった。


 ここでまたもや緊急事態が起きる。第二波の寒波が一分以内に現場を覆うと無線に入った。父は迷いなくヘリに飛び立つように指示した。そして残された椚木を連れて、少しでも避難可能な場所を探した。付近に雪で覆われているが岩壁らしきものが見えた。父は懸命に雪を払い、自分の身体で椚木を包むようにその上に覆いかぶさった。

「父さん、そんなことをしたら死んじゃうよ」

 椚木は父が心配になり、その体制を拒否した。その時帰って来た言葉が父の最後の言葉だった。

「大丈夫だ。今できる最良の方法を冷静に考えれば、体力のある俺がお前をこの体制で守っていくしかない。しかしあきらめてはいない。俺は絶対にお前の明日を守る」

 その後五時間に及ぶ寒波の中で二人は雪に埋もれ、父は帰らぬ人となった。椚木は父の死を掛けた働きで、凍傷になっただけで奇跡的に生還することができた。

 椚木は自分自身に誓った。父がくれた明日を使って、今度は自分が他の人の明日を守る。あくまでも父のように冷静に最良の手を探しながら。


 先が全く見えなかったこの事件も、やっと動機が見えてきた。

 やはり阪口は事件に関係している気がする。

 まだ具体的な方法は分からないが、阪口をマークすれば、きっと真相に近づけるはずだと思った。

 車が学園の正門を出るときに、二人の男女を見た。昨日の殺人現場である、武蔵小杉のタワーマンションの傍で見かけた二人だ。

――ここの学生だったのか。

 椚木は車を止めるように井上に言いかけて、その言葉を飲み込んだ。

 根拠のない刑事の勘だが、焦らなくとも二人とはすぐに再開するような気がした。

 もうすぐ夜になる。

 次の犠牲者を出さないために対策本部に急いだ。

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