第8話 巨人の力

「駄目だ! くだらなさ過ぎて、考える気も起きない」

 南新宿のタワーマンションの一室で、葉山は苛立ちを隠さず不満をぶちまけた。

 古賀は炭酸水のペットボトルを傾けながら、普段は冷静で理論的な葉山が、原因の分からない恐怖に苛立ち、感情をむき出しにする様子を黙って見ていた。

 葉山の部屋は、当代一、二を誇る売れっ子評論家とは思えないほど、質素で何もなかった。テレビを職業としているにも関わらず、テレビもビデオもない。必要があればパソコンで視ると言っているが、それをしているところも見たことがない。

 だが、そこが古賀がこの部屋を気に入っている大きな理由の一つだった。古賀はテレビが嫌いだった。正確にはあの箱の中で偉そうに世の中を語る人間が嫌いだった。

 いつもは葉山と静かな時間を共有するためにここに来るが、今日はペットボトルを持たない古賀の左手には、鈍い色で光るASP社製特殊警棒が、今日の目的が違うことを主張するように握られている。


 古賀は身長二メートル、体重百十キロの巨漢でありながら、百メートルを十秒台前半で走る。聖ラクスター学園ラグビー部の主将であり、葉山の十才後輩と成る。

 古賀が葉山と出会ったのは、昨年インターハイチャンピオンに成って、朝のニュース番組のスタジオに招かれたときだった。同窓の先輩としてコメンテーターに呼ばれた葉山は、古賀のストイックな道を追求する姿勢に共鳴し、以来二人は年の差を超えて人生を語る友人と成った。


「その特殊警棒だけで、マウンテンゴリラに勝てるのか?」

 苛立つ葉山を、古賀は余裕を見せながら宥めた。

「これでも、俺が使えば拳銃以上の武器に成ります」

「しかし、奴のやってることは人間離れしている」

「そんなに心配ならここを引き払えばいいじゃないですか。とりあえず、低層のウィクリーマンションに行くだけで、条件から外れます。ラグビーなら相手に狙われるポイントは、最初に消しておきますよ」

 古賀の言葉に葉山は少し沈黙した。

「ふっ、お前の前だと恐怖を感じている素の自分が出るな。面白いよ! ラグビーでのセオリーはそうなんだろうが、俺はここを動かない……」

 葉山は古賀が大好きな理想を語るときの表情を見せた。


「俺もこんな訳の分からない恐怖の中にいたくはないよ。ただ、お前の知ってる通り、俺はやっと居場所を見つけたんだ。俺は高校時代は常に成績トップで、SLJCに入ってからも敵なしだった。俺の将来を邪魔するものはないと思っていたよ。社会に出る時も敢えて官僚の道を選ばず、民間で人と違ったプロセスで、新しいタイプのリーダーとなることを目指した。だけどそこで生まれて初めて挫折を味わった」

 そこまで話して葉山は古賀の目を射るように見た。

「俺の成果を配属先の上司はまったく評価せず、同僚の嫉妬が俺の足を引っ張り、生まれて初めて人と協調しないと、結局何もできないことに気づいた」

「なるほど」

 古賀が、さも最もだと頷く


「そこは共感するな。俺は初めての挫折を味わい、これまで打たれたことはなかったから、あっさりと勤めていた会社を辞めた。自分の性格を考えて、才能次第で力を発揮できる評論の場に移った。これこそ天職だと思ったんだ」

 古賀は葉山の男を感じ、何を言いたいか察した。

「しかし、俺の言葉はエンタティメントの要素が全く足りなくて、一部の根強いファンの存在により、やっと生活できるという暮らしが続いた。そんな時だ、テレビの主婦向け情報番組のコメンテーターとしての仕事が舞い込んできた。俺は自分の才能にひれ伏さない世間に対して、復讐をするような気持で評論した」

 古賀は葉山にもそんな時代があって、そこを乗り越えて今があることを知った。身体が熱くなる。

――そうだ先輩も人生を懸けて戦っていたのだ。


「誰よりも高い場所で、俺を一旦排除した世の中を見下ろしながら生きることで、俺の評論はまた一段鋭さを増していくんだ。だから俺は死ぬ恐怖に負けてここを出ることはできない。そうすれば、俺の評論はつまらないものになっていく」

 古賀は聖ラクスター学園に入学当時、亜種として差別され異端視されていたのを、ラグビーの実力で周囲を納得させた過去を思い出した。

「何が来るのかさっぱり分からないが先輩は絶対に俺が守る!」

 古賀の言葉に葉山は黙って頷いた。


「しかし、マウンテンゴリラって何なんだ? これだけの人間を殺して、犯人に迫る証拠が何も見つからず、目的も殺人方法も分からない、漫画の世界じゃないんだ、いったい何が起こっているんだ」

 葉山は論理的が故に、理屈で考えを進められない事態が苦しそうだった。

「俺は何となく分かるよ。何か大きな意図のようなものを感じるんだ。プロに成りたい奴がいるチームと闘うと、同じことをよく感じる。そういう奴はただ勝つだけじゃダメなんだ。圧勝するとか自分のトライ数を設定するとか、条件をつけて勝とうとする。こちらとしては、実力では負けていてもそこがつけ目に成ったりするんだが」

 古賀の言葉は少しだけ理解可能だったらしく、葉山が黙ってうなづいた。二人の間の空間に少しだけ沈黙が訪れる。その沈黙を破ったのは葉山だった。


「こうしていると、剱岳を思い出すな」

 知り合って間もないころ、無謀な登山で命を落とす者の心境を知りたい、という葉山の思いに誘われて、二人で飛騨山脈の剱岳を登った。標高二九九九メートル、多くの登山家が命を落としている難所だ。

 危険な山という評判とは裏腹に、その手前の雷鳥坂は鮮やかな紅葉で包まれ、二人の気持ちを高揚させた。四時間の歩行を経て、麓の旅館に着いて剱岳を見上げると、半端な気持ちでは寄せ付けない厳しい景観が現れた。

 古賀にとっては何でもない登山であったが、経験の少ない葉山を伴っての行程は気を使った。何とか登り切った葉山ではあったが、アクシデントは下りで起こった。

 疲れで集中力が切れた葉山は、カニのヨコバイで足を滑らし右足を痛めた。後で医者に診せると、小指が骨折し脛にひびが入っていた。普通なら自力で下山は不可能だ。古賀は葉山をロープで背中に括り付けて、背負って降りることを考えた。おそらくその方が早くて、古賀自身もずっと楽に降りられる。

 しかし、葉山の目は死んでなかった。例え足に障害が残ったとしても悔いはない、やり遂げたい。古賀の助けをリジェクトする気合が全身から発せられていた。古賀は何も言わず、応急処置だけすると黙って下山を開始した。通常の三倍の時間がかかった。旅館まで帰り着いた時は深夜だった。


「あの時、俺はまったくあきらめる気にならなかった。不思議だな。痛みは限界を超えていたし、感覚も無くなっていた。だが前に進むんだ。だが、そのおかげで危険だと分かっていても挑戦する人間の心情に、迫れた気がしたよ」

 葉山は懐かしむように自分の右足を見た。

「後で医者から足の状態を聞いて、自分でも驚いたよ。その時なんとなく分かった。お前がいたから一人で歩けたんだと。不思議な力がお前から伝わって来て、それが痛みを抑えたし、足を前に向かせたと」

 古賀が初めて聞く話だった。

「前に言ってたよな。強敵と闘って力の差を見せつけられたときでも、不思議と全員が踏ん張れたと。それはお前の力だよ。よくは分からないが、お前には仲間を守り奮い立たす力が宿っている」

 古賀自身はそんな力があるとは毛頭思っていないが、葉山の言葉は嬉しかった。マウンテンゴリラは得体が知れないが、全力で俺が守ると誓った。

 また二人の間に沈黙が訪れた。葉山は明日のネタに上がりそうなニュースの確認作業を再開した。古賀は相変わらず炭酸水を飲んでいる。


 ガシャ!

 沈黙を切り裂いて窓ガラスが割れる音がした。そして割れた穴から手が伸びて、鍵が外され窓が開いた。古賀と葉山が同時に窓を見ると、そこには古賀を更に上回る巨人がプロレスラーのような軽装で立っていた。その厚い胸板を見てゾクッとした。古賀の身体にフィールドでしか感じない独特の感覚が拡がっていく。

 巨人を警戒しながら、右手で特殊警防の感触を確かめ、左目で葉山の動きを確かめる。葉山は愛用の五番アイアンを両手に握って、巨人の顔を凝視しハッとしたように叫んだ。

「阪口! お前は阪口だろう? その身体はどうしたんだ! 何をしに来たんだ!」

――知り合いか? 知り合いにしても何をしに来たはないだろう。殺しに来たに決まってるじゃないか


 突然巨人は猛ダッシュをして葉山の頭に手を伸ばした。しかし、その手は届かなかった。巨人の動きに反応した古賀の特殊警棒が、巨人の側頭部を直撃したからだ。

 人間の頭蓋骨さえ粉砕する一撃は、巨人の動きを一瞬止めた。次の瞬間、巨人の強烈なバックハンドブローが古賀に向かって炸裂した。この強烈な一撃を両手で受け止めた瞬間、反射的に左足のハイキックを巨人の顔面に入れた。頭を振動させるだけの手ごたえを感じた。人間ならばこれで昏倒する。そう思った瞬間、胸に巨人の掌底をくらい、古賀は三メートル先の壁まで吹っ飛ばされた。

 その衝撃で意識が飛びそうな中で、古賀はファントムを発動させた。古賀の隣に濃紺のラガーマンが現れ、巨人めがけて必殺のタックルを放った。

 ラガーマンの上半身は巨人の腹に吸い込まれ、一瞬にして窓際まで吹っ飛ばした。次の瞬間古賀は前方に注意しながら立ち上がった。

――終わった。

 いかに不死身の巨人でも、コンクリート壁を粉砕するタックルは耐え切れまい。

 そう思った瞬間、巨人は立ち上がり古賀のファントムを蹴り上げた。濃紺のラガーマンは古賀の後方に吹っ飛んで消えた。間髪を入れず、巨人の右の拳が古賀の腹にめり込み、古賀は跪くようにして倒れた。


 巨人は意識が朦朧として起き上がれない古賀を一瞥し、その戦闘力を奪ったことを確かめた上で、振り返って葉山に向かって飛んだ。葉山が振り下ろした五番アイアンを左手で払いのける。葉山の白いファントムで強化された五番アイアンは、いともたやすくシャフトが折れて、ヘッドが天井に当たって落ちた。

「阪口、なぜ?」

 葉山がそう叫んだ直後に、葉山の頭蓋骨が粉砕された。


 古賀は薄れゆく意識の中で、葉山の死の瞬間を見た。逆境に耐え抜き必死で生き抜いた尊敬すべき人が、理不尽に惨殺された。訓練によって常に冷静に機能していた頭脳に、激しい怒りの衝動が生まれた。

「許さん!」

 古賀は叫びながら必死に身体を起こそうとしたが、巨人に受けたダメージがそれを阻む。

「ウォー」

 声を振り絞り身体に気合を入れ、上半身を起こした時、巨人の姿がぼんやりと消えていくのが見えた。意識はある。部屋の様子ははっきり見えている。しかし巨人の姿だけが見えなくなった。どういうことだ。状況が理解できぬまま、ふと気づくとフィールドの緊張感が辺りから消えている。

 絶望的なダメージを負った体を、辛うじて動かしている闘志が、徐々に消えていくと感じたとき、玄関を激しく叩く音を聞いた。

――警察か。

 そう思った瞬間、意識が遠くなっていった。

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