第二十七話 臍の緒
「花恋先輩、大丈夫かな」
すみれちゃんは花恋さんが走り去って行った方向をぼんやり眺めていた。
その隣で佳澄さんが彼女の手を握っている。
「夏のコンクール、ほんとにパパ呼ぶの?」
「うん」
小さく頷く。
「来てくれるか、わかんないよ?」
「でも、見てもらうならそこしかないし」
佳澄さんは唇を結んでむっと考え込むように首を捻った。
「すみれ……!」
ロビーに聞き覚えのある女性の声が響く。
小走りにやってくる小柄な女性。
「お母さん」
「あ、ママ」
佳澄さんは勢いよく立ち上がった。
「ごめんなさい。駐車場混んでて遅くなっちゃったわ。あ、あなたが高坂くん?」
お母さんは僕を見つけると佳澄さんと同じように小走りで駆け寄ってきた。反射的に僕も立ち上がる。
「はい。この度は僕の判断でご迷惑をおかけしました」
「いえいえそんな、頭を上げてください。迷惑をかけてしまったのはこちらです」
お父さんとは真逆に、そして佳澄さんとも少し違う、圧倒的な丁寧さと上品さがお母さんにはあった。すみれちゃんに感じた清潔な女性像はお母さんから受け継いだものなのだろう。
「あの人、お父さんから何か言われたかしら?」
「えぇ、諌めの言葉を」
「そう。あまりに気になさらないで。理的に見えて頑固で不器用なだけですから。すみれを助けてくださったこと、感謝してます。足首の怪我の時も」
「あぁ、あれは当たり前のことしただけです」
足首のことが伝わっているのは予想外だった。
すみれちゃんは、お母さんには話をしていたのだろうか。
「あ、花恋先輩」
俯いていたすみれちゃんが呟きを落とした。僕も視線を声の方に移す。
遅くも速くもない速度で彼女は戻ってきた。
「どうだった?」
少し間を頬に含ませてから口を開く。
「結果を出しなさい、だって」
花恋さんはまずそれだけ置いた。それからすみれちゃんにまっすぐ向き合って、ゆっくりその手を取った。その白はいつ見ても美しかった。
「すみれちゃんの想い、届けることできるかもしれないよ」
「ほ、ほんとですか……!」
「うん。だから見せてあげよう。もし、お父さんが当日演奏を観に来れなかったとしても、誰も文句のつけようがない結果で伝えられるようにたくさん練習しなきゃ」
「はい!」
傘の中で聞いたすみれちゃんの声。羨望の眼差し。その全てに合点が入った。
「すみれ」
お母さんがその名前を呼んだ。それからゆっくりすみれちゃんの前まで歩を進めて、そのまま彼女を抱き締める。
「ぅ」
「一人でたくさん背負わせちゃってごめんね」
「おかあさん……」
「すみれが頑張ってるの、ちゃんとわかってる。偉い偉い」
まるで幼稚園児の頭を撫でるような、原初的な愛。すみれちゃんはそれを大切に噛み締めているように見えた。
「音楽するのは、楽しい?」
「うん、楽しい。お母さんがピアノ習わせてくれなかったら自分で始めることなかったし、可愛くて素敵な先輩にも出会えなかった」
「そっかぁ。それはよかったなぁ」
花恋さんが嬉しそうにニコニコしている。
「お父さんからはね、お前が音楽なんて始めさせるからだろ〜って怒られちゃうんだけど、すみれが楽しいって思えるならそれがいい」
上品なお母さんは悪戯っぽい無邪気な笑顔を見せた。背中にどれだけ矢を受けたとしても、愛情の方向に影を落とさない強さを感じた。
「ありがとう、おかあさん」
すみれちゃんはいつもの控えめな雰囲気のまま、ただ誰よりも安心したように微笑んでいた。
トイレから病室へ戻った。
すみれちゃんが帰った後に残っていたのは、咲くことをどこか躊躇っているような一輪の花だけだった。
「花恋さん」
「あ、おかえり」
彼女は僕に気付くと少しだけ花弁を塗り替えて笑った。
それから元のように眠る母親に目を戻した。さっきは紫を温めていた白い手は臍の緒のように母体と繋がれている。
「花恋さんのお母さんだって、花恋さんが頑張ってるのわかってるよ」
彼女はびっくりしたように僕を見た。
「なんで、考えてることわかったの」
「なんとなく」
寂しそうに眠りにつくその手を何度も握ってきた。
「お母さんが起きたらたくさん教えてあげよう。ケーキ屋さんで話題になるくらいの店員さんになったこととか、英語で特待生取って留学したこととか、部活で頼れる先輩になれたこととか」
「うん、そうだね……」
どこか遠い声だった。やっと羽衣に感情が映ったかと思えば、それは哀色のカーテンを引いたような雫を生んだ。僕は彼女のすぐ傍まで行って隣の椅子に座った。
花恋さんは懸命に目元を拭った。
「お母さんね、赤ちゃん出来にくい身体だったんだって」
「そうなの?」
「うん。本当は私にもお姉ちゃんがいたみたいなんだけど、ちゃんと産まれてくることが出来なくて。私が産まれて来たことをね、奇跡だぁ奇跡だぁっていつも言ってくれた。お父さんもお母さんもたくさん愛してくれて、大切にしてくれた」
花恋さんが愛される人である理由、正確には綺麗に磨かれたその愛嬌を持つ理由は、きっと幼い頃にこれ以上ないほど温かい愛情を受けていたからだろう。
愛されることも愛することも、彼女のそれは第一級で形容できないほど美しいと思う。
「私がお薬飲まなきゃいけなくなった時は、お母さんの遺伝かもってたくさん謝ってたけど、私はお母さんの子どもに産まれて来れてほんとに良かったし幸せだから、今でも毎日ありがとうって伝えに来るの」
「大切なことだね」
「言葉は返って来ないけど、ちっちゃい頃みたいに頭撫でて褒めてくれそうな気がして」
私のこと、触って?
いつだか彼女がそうお願いしてきたことがあった。男の子に恐怖があるのに僕にはまるで無いように振る舞うのは、家族に近しい信頼を彼女が持ってくれているからだろうか。
手を握ったり、頭を撫でたり。その度に幸せそうにする彼女が、今となってはちょっぴり切なく映る気がした。
「いつか、私も……」
花恋さんはその続きを飲み込んでしまった。きっと彼女の心の中で誓うように呟かれたのだろう。それを見守って、僕はゆっくり椅子から腰を浮かした。
「そろそろ、僕らも帰ろうか」
「あ、そうだね。もうこんな時間……」
名残惜しそうに母親の方を見つめる花恋さん。
「もう少しいる?」
「うん。高坂君は先に帰ってもいいよ。お仕事あるだろうし」
「……いや、隣にいるよ」
僕はもう一度腰を下ろす。彼女は少しだけ申し訳なさそうに首を振ろうとしたが、すぐに瞼を緩めて僕に頭をもたげた。甘い花香が喉に染みた。
教壇に立つ梅沢先生はどこか嬉しそうな表情をしていた。いや、いつもだろうか。
「中間テストの結果が出やがりましたよ皆さん」
クラスがざわつく。花恋さんは緊張した様子で背筋を伸ばしている。
梅沢先生は去年もクラスの成績を全教科分データ化して発表していた。今年もそのノリでまとめて来たのだろう。
「えっとですね、我々三組ですけれども、総合獲得点が学年第二位でしたね〜、えっとこれは結構素晴らしい。理系クラスの半数以上倒してる計算だからね。特に英語は学年一位かな」
おー、と声が上がる。
「なんだけどね、あの、一点ね。皆さん文系のクラスだからその、わかるっちゃわかるんだけど、えっと数学がですね……」
何かを察した雰囲気があたりに満ちた。
「クラス一位が高坂湊96点、これ素晴らしい。二位が絹舞花恋90点、これも素晴らしい」
隣で花恋さんがぴくりと跳ねるのがわかった。どよめくクラス。
「まあ二人のお勉強の成果は出てるんだけど、問題はそれ以外! これクラス三位が一気に54点まで落ちるんですけど、どういうことなんですか? いくら何でももうちょっとできて良いのではないの!?」
それでどうやって総合二位についたんだ。英語が相当ぶっちぎりだったのか。
「高坂はね、去年から数学は抜けてたからあれなんだけど、絹舞ちゃんはこれどうやって90点まで行ったの? クラスのみんなのためにさ、ちょっといい勉強方法あれば教えてよ」
クラスの視線が一気に彼女に集まった。事情を察している数人はフライングで僕に目を向けている。
「え、えっと……、高坂君に、教えてもらって……その」
「だそうだ。数学伸ばしたいやつは、教えてもらえー」
「えっ」
そこは流石に数学担当の先生頼った方がいいんじゃないの?
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