第二十六話 触れない防壁

 朝の風がどこからともなくやってくる。僕はスマホを耳に押し付けながら、眩しい屋上の反射に瞼を絞っていた。


「……はい。わかりました。では、病院で。はい、失礼します」


 電話を切ってスマホをポケットの中に滑らせる。


 彼女たちの元に合流しよう。


 東和総合病院は八階建てで、四階以上は全て病棟になっている。目的地は五階。

 気のせいなのか、どこか消毒液のような匂いに包まれたエレベーターのボタンを押した。


 花恋さんの母親に会うのは初めてだ。昨日、彼女がすみれちゃんを連れて行きたいと言った場所はここだった。


 絹舞苺。檸檬さんから教えてもらった通りの名前が丸ゴシックでぶら下がっていた。個室の広い病室。その奥から声が聞こえてくる。


 僕はドアを引いた。


「あ、高坂君」


 花恋はすぐに僕に気付いて顔をこちらに向けた。カーテンのかかった先、ベッドの正面にゆっくりと歩を進める。


 美しい女性だった。ベッド脇の機械と同じくらいびくとも動かないのに、どこか流動的で誰よりも生きているように見えた。


「……お母さん?」


 花恋さんにそう聞く。


「うん。私の、大好きなお母さん」


 優しく笑う彼女の傍で、すみれちゃんが俯いていた。

 僕は丸椅子を病室の端から持ってきてその場に座った。

 

「どんな話をしてたの? すみれちゃんと」 


「私の昔の話、かな」


 檸檬さんが言っていたことだろうか。と言っても僕も詳しく知っているわけではない。ただ俯くすみれちゃんの雰囲気が、彼女の過去の質量を教えてくれた。


「ごめんなさい」


 すみれちゃんがそうこぼす。


「え?」


「昨日、あんなこと言ってしまって……」


 花恋さんは首をゆっくり横に振った。綺麗な髪が遅れて病室の空気を縦断する。


「すみれちゃんは悪くない。大丈夫だから気にしないで」


「うれしかったです。先輩が抱きしめてくれたこと。弱い自分とは違って、誰よりも強くてかっこよくて、可愛くて。そんな先輩に受けて止めてもらえたのが、うれしかった……」


 僕は黙ってその光景を見ていることしかできなかった。本能的に、何をしても妨げになると分かった。


「おうちに帰ったら、お父さんと話せる? 自分の気持ち、ちゃんと伝えられる?」


「本当は、お父さんに、分かってもらいたいんです。わたしのこと、ちゃんと。でも、こわい……」


「うん」


「どうしてもお父さんの言ってることの方が正しく思えちゃうし、そうなるうちに、自信とかなくなって」


「……じゃあ、私も一緒にお父さんとお話していい?」


「え? でも、」


「いい案が、あるんだ」





「心配したんだよ、すみれ」


「ごめん。お姉ちゃん」


 すみれちゃんのお姉ちゃん、確か佳澄さんと言ったか。さっきお母さんと電話をした時も、電話口に彼女がいた。相当、妹のことを気にかけているのだろう。


「高坂くん、だっけ。それと花恋ちゃんも」


 佳澄さんは僕らの方を向いた。


「とにかく、ありがとう。すみれのこと守ってくれて」


「いいえ。本当はもっと早くご家族に連絡するべきだったんですが……」


「その通りだ」


 僕が頭を下げるより早いか、その低い声がロビーに響いた。たった短い一言だったが、くっと気圧されかけた。顔を上げなくても誰だかわかる。


 こつこつと靴音が近づいてくる。


「お、お父さん……」


 僕は顔を上げた。僕よりも遥かに背の高い無表情の男。


「高校生だろうが、君も一人の男だ。保護と銘打って未成年の女子を家に連れ込むなんてことが不健全極まりないことくらい理解しているだろう」


 勝手に頭がもたげていく。こんなに重力は強かっただろうか?


「まあ、盛んなのは結構だが」


「ちょっと、パパ。そんな言い方」


 佳澄さんの言葉に被せるように花恋さんが僕の前に入って、お父さんと対峙した。


「高坂君はそんな男の子じゃありません」


 静かに言い放つ。声の甘さは変わらずとも、明らかに芯の通った一振りだった。

 僕は急いで彼女を止めた。


「やめて花恋さん。責任は僕にあるから」


「で、でも」


「責任なんて言葉は子どもが軽率に使うものじゃない」


 頭上から鉄の塊が落ちてくる。


「ろくな大人じゃない奴が偉そうにするなよ」


 それは後ろからの援軍だった。佳澄さんが足早に僕の隣にやってくる。


「そもそもパパが頑なにすみれの話聞かないからこうなってんの。高坂くんたちが守ってくれなかったら、どうなってたかわからなかったんだよ? この子達恩人だよ? なんでそんな人相手に感謝の言葉のかけらも出てこないの? どれだけ自分が偉いと思ってるの? てか何? あんなにすみれに対して愛のない振る舞いしておいてこんな時だけ父親気取り? まだ高坂くんたちの方が保護者としてふさわしいじゃない」


 静かな剣幕で捲し立てるようにぶつける。すみれちゃんとは全く別の強さを持った姉の姿だった。お父さんは沈黙を守っていた。


「あの、お父さん」


 佳澄さんはすみれちゃんの方を向き返った。


「先輩たちは、悪くないの。私がね、家に帰りたくないって言ったから。連絡しないでってわがまま言ったから、それを許してくれたの。私のせいなの」


「すみれちゃん……」


「いなくなればいいと思ったの。いっそ、私がいなくなれば、お父さんだって出来の悪い娘に振り回されることないし、お母さんやお姉ちゃんの負担にだってならない。でも、それすらできなくて、結局たくさんの人に迷惑かけちゃった」


 彼女はそれ以上ないほど綺麗に頭を下げた。


「ごめんなさい」


 お父さんはため息を吐いて、すみれちゃんに背を向けた。


「これ以上人に迷惑をかけて恥をかかせるんじゃない」


 お父さんはそのままゆっくりと歩き出す。


「ちょっと、どこいくの」


「仕事だ。暇ではないのでな。佳澄も自分のやるべきことがあるだろう」


 佳澄さんは小さくなっていくお父さんの背中を睨みながら唇を噛み締めていた。体全体が怒りに震えながら平静を保とうとしているのが、側から見てもわかった。


 花恋さんは俯くすみれちゃんに寄り添って背中に手を当てていた。


「……お願い、できませんでした」


「大丈夫。私に任せて。ねね、高坂君。ちょっとだけすみれちゃんをお願い」


「え? あぁ、わかった」


 そう言い残して花恋さんはすみれちゃんのお父さんを追いかけて走って行ってしまった。





 小走りに追いかけてもお父さんに追いつくには時間がかかった。


「あの!」


 声で呼び止める。


「……なにか?」


「8月12日、私達の吹奏楽部が夏のコンクールで演奏します。部活で一番大きな大会です。もちろんすみれちゃんも演奏に乗ります」


 黒くくすんだように見えるその目に、まっすぐ。


「聴きに来てください。すみれちゃんが向き合おうとしてること、目指そうとしていること、ちゃんと見て欲しいです」


「……君か」


「え?」


「私はあの子に期待していないわけじゃない。姉に比べれば勉強の出来は悪いのかもしれないが、素直さ、優しさ、真剣に取り組む姿勢の正しさは素晴らしいものがある。ただ世の中のほとんど評価はそんな甘い採点基準でできていない。その素晴らしさがしっかり結果になるのか。人のためになるのか。第一に求められる」


 お父さんの顔に張られていた漆喰の壁がいつの間にか溢れ落ちそうになっていた。


「もし音楽でそんな世界に出たとしたら、そう言った評価の圧や無関心の牙からあの子を守ってやることができない。部活で楽しむのと、それで生きていく覚悟をするのでは、とてつもなく大きな違いがある」


「それでも聴いてほしいです」


 不思議と、心は揺るがなかった。

 私だって大人の世界のことを知っているわけではない。だからすみれちゃんのお父さんみたいな根拠のあること言えない。


 それでも根拠のない自信があった。


 すみれちゃんのためになりたかった。


「どうか、お願いします」


 真っ直ぐに頭を下げた。ため息と少しの間。


「結果を出しなさい。あの子にそう伝えてくれ」


 お父さんはそれだけ言い残してくるりと体の向きを変え、後は何も言わず去って行った。


「けっか……」


 具体的に言われなくてもそれはわかる。

 夏の大舞台。私たちはそれを金色に染める必要があるということだ。


 すみれちゃんの想いが届くなら。すみれちゃんが頑張れる理由になるのなら。


 それだけでどこか嬉しい気持ちだった。

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