第4話 始まりの時

「渋谷梨奈さん。24歳。花菱製菓株式会社勤務。で、合ってるよね」


状況が飲み込めないまま正面に座る尚哉の姿を視界に入れていた梨奈へ、席へ落ち着いて間を置かず、自己紹介で梨奈が話した内容を復唱するように尚哉が口にして尋ねてきた。


「えっ。あ……。覚えて、いたんですか」


自分が異次元の住人と感じたように、尚哉もまた梨奈に対して興味を抱くことはないだろうと確信に近いものを得ていた梨奈は、自分の考えとは裏腹な尚哉の態度に戸惑いを増していた。それでも、条件反射で問われたことに応えた梨奈だったが、途切れ途切れに聞き返すだけで精一杯だった。


そんな梨奈の疑問に応えたのは、真衣の前に座った達樹だった。


「こちらは、早坂真衣さん。二人とも、年齢も出身大学も同じみたいだけど、親しい仲なの」

「そちらは、森山達樹さんと新井尚哉さん。お二人も年齢も出身大学も同じようですけど、親しい関係なんですか」


達樹の問い掛けに、真衣が綺麗に微笑んで二人を交互に見ながら達樹を真似て返すと、達樹の動きが一瞬止まり、次の時には楽しげに笑いながら子どもの頃からの付き合いだと教えてくれた。


「花菱製菓って、子ども向けのお菓子を扱っている会社だよね」


達樹と真衣の遣り取りを見て、梨奈の中では有り得なかった筈の状況を無理やり飲み込んだ梨奈を含め、改めて、4人で簡単な自己紹介を済ませた後、早速に尚哉が梨奈へ話を振ってきた。


 梨奈は年号の一つと同じ名前の私立大学を卒業した後、両親の待つ地元へは帰らず花菱製菓へ就職した。


花菱製菓は会社の規模としては中小企業に分類されたが、創業時より半世紀以上に渡り子ども向けのお菓子の製造・販売をし続け、ロングセラー商品も数多く取り扱っていた。時代の移り変わりと共に、パッケージのデザインには多少の変化はあるものの、大人になってからコンビになどでそれらの商品を目にし、懐かしい思いを抱く人も少なくなく尚哉もその一人だった。


 そこからお菓子談議に花が咲き、その他にもお互いの仕事の話などをしているうちにすっかり打ち解けた雰囲気になり、4人で楽しい時間を過ごしていた。


「少し、いいからしら」


突然、背後から声を掛けられ梨奈が振り返ると、そこにはクリスマスパーティに相応しい華やかな装いをした2人の女性がグラスを手にして満面の笑顔で立っていた。


「見ての通り、ここは満席だ。座る場所を探しているのなら、向こうの方に空いている席がいくつかあるんじゃないか」


社交的な場が苦手は梨奈でも、男女が出会いを求めて集うような場所で特定の相手を引き止めておくことはルール違反になるのではないかと思い当たり、慌てて席を立とうとしたのだが、それより一瞬早く尚哉が言葉を返した。


尚哉の言葉に2人の女性は揃って笑みを掻き消し、明らかに気分を害したと分かる表情へ変化させて立ち去ってしまった。はっきりと拒絶の意思表示をした尚哉と、自分の感情を隠そうともしない2人の女性に呆気に取られて女性たちの後姿を見送っていた梨奈は、これからどうしたらいいのかと助けを求めて真衣へ視線を送った。


「そろそろ飲み物のお代わりでも取りに行かないか」


達樹の誘いに、『そうね』と応えて乗った真衣に続いて立ち上がった梨奈を尚哉が引きとめた。


「俺たちは、デザートを見に行かないか」


梨奈が返事をする前に席から立った尚哉が、デザートコーナーへと梨奈を促した。思わず足を止めて遠ざかる真衣の背中を目で追っていた梨奈は、重ねて『行こう』と尚哉から言葉を掛けられ、尚哉の後ろについてデザートコーナーへ向かった。


 デザートコーナーには、お洒落に飾りつけられた鉢に植えられたポインセチアの周りにミニチュアのスノーマンやサンタクロースなどが並べられ、工夫を凝らして透明なグラスに入れられたスイーツがその外側を囲み、見た人の気分を盛り上げ自然と手が伸びるように置かれていた。


 デザートコーナーの長テーブルの前に立ち、目の前のスイーツに視線を留めながら、頭の中でこれからのことを考えていた梨奈の視界に不意に四角いカードが差し出された。


「日を改めて、近いうちにまた会わないか」


突然、視界の中に現れた白くて手のひらに収まりそうなサイズのカードへ、スイーツから視線を移した梨奈の頭の上へ尚哉の誘い文句が落とされた。視界に映るカードをよく見るとそれは名刺のようで、裏返されて差し出された面には携帯電話の番号とメールのアドレスが手書きで書かれていた。


カードから顔を上げて尚哉の顔を見上げると、優しい色を湛えた尚哉の瞳と目が合った。その瞳の色があまりにも優しげで、梨奈は尚哉の視線に包み込まれたような感覚を覚え、いつまでもその瞳に自分を映していてほしいと思った。


尚哉から差し出された名刺を両手で受け取った梨奈は、肘に掛けていたバッグへ仕舞い、代わりにいつも持ち歩いているペンを取り出した。それから、デザートコーナーに用意されていた紙ナプキンを一枚手に取り、そのペンで自分の名前と携帯電話の番号、それにメールのアドレスを順に書いていった。


「私は事務職なので、名刺を持っていなくて……。えっと、これでも良かったら……」


書き終えた紙ナプキンを胸に押し付けるようにして尚哉へ応えた梨奈は、胸から離した紙ナプキンに両手を添えてそっと差し出した。


 この時が、尚哉と梨奈の始まりの時だった。

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