第5話 悪夢の時間

 本年12月8日。


「……分かりました。こちらが片付き次第、伺います」


尚哉はデスクの上の内線電話を切ると、重い溜め息を零した。壁に掛けられている時計を見上げると、終業時間まで後2、3分というところだった。それは、同時に、尚哉にとってこれから始まる悪夢の時間までの残り時間をも表していた。


「樫山専務か」

「ああ」


尚哉の溜め息を耳聡く聞きつけた同僚でもある隣の席の山内が、尚哉への同情を含んだ苦笑を浮かべて聞いてきた。


 現在、四葉環境の専務の座にある樫山秋光は尚哉たちと同じ営業部の出で、営業マン時代には常にトップの営業成績を保持するという偉業を成し遂げた人物として、今でも営業部内で語り継がれている半ば伝説と化した人物でもあった。


その秋光は、営業マン時代の功績が認められ短期間で課長へ昇進したことで、四葉環境と取引のあるメインバンクの当時の頭取から目を掛けられるようになり、頭取の一人娘の婿へと納まっていた。


 大きな後ろ楯を得て部長へと出世した秋光は、それまでに培った営業のノウハウを生かして、各分野に精通し、尚且つ、各部署において高い評価を得ていたメンバーを集めプロジェクトチームを立ち上げた。


その後、プロジェクトチームの有用性が認められるようになると、立ち上げ当初から総責任者を務めていたことが評価され専務を座を手にしていた。


「お前もご苦労なことだな」


綺麗さっぱり片付いた自分のデスクの上を見てまた一つ溜め息を吐いた尚哉へ、詳しい事情は知らなくとも、ここの所の尚哉と秋光との間のギスギスした関係に気が付いていた山内が労いの言葉を掛けてきた。尚哉は苦笑いで返し、帰りの挨拶をして秋光の待つ専務室へ行くため席を立ちエレベーターへと向かった。


 エレベーターへ乗り込んだ尚哉は上昇しているのを感じながら、自分の協力者でもある友人の達樹へ向かって『頼んだぞ。達樹』と心の中で呼び掛けていた。


 エレベーターから降りて専務室のドアの前に立ち腕時計に目をやると、終業時間からまだ10分も経過していなかった。いつもなら終業時間など気にもせず仕事をしているのだが、今日は秋光による事前の根回しで残業が禁止されていた。


 腕時計から顔を上げた尚哉は、ドアの上に貼り付けられた専務室と書かれたプレートへ視線を留め、鋭い光を宿した瞳で見据えた。


「俺は、帰る。必ず、梨奈の元へ」


強い決意を秘めて独りごちた尚哉は、ゆっくりと右手を持ち上げて目の前のドアをノックした。


「遅刻よ」


専務室の中へ足を踏み入れた尚哉へ、接客のために置かれている応接セットの長椅子に座っていた秋光の一人娘の美咲が言葉を放った。


「それぐらいにしておきなさい。今日は、記念すべき日だろう」

「分かったわ。それじゃあ、行きましょうか」


専務室に備え付けられている堅牢なデスクから立ち上がり、美咲の方へ歩きながら発した秋光の言葉を小さく息を吐き出して受け入れた美咲は、手の甲が見えるように尚哉へ向けて右手を差し出した。差し出された手の爪に一分の隙もなく施されたネイルアートの赤い色が、唇に塗られた紅い色と相俟って毒々しさが際立ち、尚哉はその手を叩き落としたい衝動に駆られた。


『長くても4ヶ月だ』


衝動のままに突き動かされそうになった尚哉の耳の奥で、達樹の声が木霊した。この数ヶ月の間、消えることが許されず、尚哉の中で燻り続けている憎悪の炎に熱が加わったのを感じながらも、尚哉は耳の中で響いた達樹の言葉に敢えて意識を逸らし、自分の感情に目を瞑って美咲へ歩み寄り、差し出された美咲の手を取って立ち上がらせた。


美咲は満足そうに微笑み、差し出した手を引かれたまま尚哉の前まで来ると手を離して横へ並び、当然のように離した手を尚哉の肘へ置いた。美咲が触れている部分から自分が薄汚れていく錯覚にとらわれながら、尚哉は秋光へ挨拶をして専務室から出ようと背を向けた。


「近いうちに結婚式の日取りを決めて、二人の結婚を周知しよう」


秋光の言葉を背中で受け止めた尚哉は、即座に美咲の手を振り払い秋光と向き合った。


「それは、約束が違います。何度も申し上げている通り、私には美咲さんと結婚する意思はありません。今回のことは契約に基づくものだという事を、お忘れにならないで下さい」


予想できたこととは言え、平気で約束などなかったような態度をとる秋光に対し、尚哉は腹立たしさから固い口調で反論した。


「この期に及んで、まだ君は……」

「一緒に過ごし始めれば、直ぐに何の価値もないあんな女より私の方が何倍も魅力的で、尚哉さんにとって本当に必要な相手は誰なのか、嫌でも良く分かるでしょう」


秋光はあからさまに怒気を孕んだ様子で尚哉へ詰め寄ろうとしたが、それを美咲が止めた。対峙する秋光と尚哉の間に割り込み、尚哉と向かい合うと片手を伸ばして尚哉の顔に触れ、父である秋光へ背を見せたまま話し掛けた。


人を見下すような笑みを浮かべて尚哉の頬を撫でながら、美咲が何の価値もないあんな女と言い放った相手は梨奈だった。

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