第10話 WINTER CLAMOR

「はぁ~っ」

 月夜はオフホワイトのもこもこのミトンに包まれた両手に息を吹きかけた。

 真っ白な息が凍えた両手をじんわりと暖める。

「――寒い?」

 と、すぐ隣を歩いていたウィンが、心配そうに訊ねた。

 月夜はあわてて首を振る。

「ううん、大丈夫」


――沈まぬ太陽を持つ白夜の国、クレセント・ノーブル。

 この、一年中深い雪に覆われる国の山中深く、あまりに人里から離れすぎているためにガーディアン達も引き上げ、すでに無人と化している神殿を目指して、月夜達は深い雪の中を歩いていた。


「ひぇ~、さみー。ったく、何だってンな雪ん中を歩かなきゃなんねーんだよ。神殿なら他にもあるだろーがよー」

 キッドがぶ~たれながら言う。

 身軽が信条の彼は、動きにくい防寒服と歩きにくい新雪に、どうやらご機嫌斜めのようだ。

 と、この寒さがちっとも堪えていないらしい聖が慰めるように言った。

「仕方ないだろ、僕たちはしがない巡礼者。下の大神殿にはこの国の王様とその家族が滞在してるんだから」

 たまたま国王一家の参拝行事と同じ時期にこの国を訪れてしまった月夜達一行は、まさか本当の身分を明かすわけにも行かず、本神殿である大神殿から、昔使われていたという山奥の小さな無人神殿への移動を余儀なくされてしまったのだ。

「ったくよー、曲がりなりにも、こっちは伝説の創造神様ご一行だぜぇ。あー、納得行かねー」

「……」

 月夜が体を小さくして俯いている。

 本当は謝りたいところなのだが、最近やっとキッドの性格を把握してきた月夜は、自分がそう言えば彼がまた気を悪くするだけだと知っていて、それもできない。

 そのため、今の彼女にできるのはせめて身を小さくして「ごめんねキッド君」を表現することぐらいだった。

「いい加減にしろよキッド。今更そんなこと言ったって仕方ないだろう」

 キッドが月夜を責めているわけでも、悪気があって言っているわけでもないことはわかっているのだが、そんな月夜の仕草が可愛くて、つい庇ってしまうウィンである。

「……けっ」

 そしてまた、キッドの方も聖以外の人間に言われるとおもしろくない。

 吐き出すようにそう言って、彼は黙り込んでしまった。

「それにしても遠いわねー。その神殿って、確かあまりに山奥過ぎて閉鎖されたとか言ってなかった?あの神殿の人」

 こちらも寒さに心なし身を縮めるようにして歩く桜華が言う。

 頷いて、ユリウスが言った。

「ベルツィア神殿は元々、雪と白夜の神オルダを奉るこの国で、一番最初に建てられた由緒ある神殿です。ただ、夏でも雪が消えることのないこの国の冬は本当に豪雪で、真冬の1月、2月ともなると、雪のために完全に下とは隔絶状態になってしまうんですよ」

「まるで島流しね……。それで、下に大神殿を建てて、閉鎖したのね」

「はい。まあ、雪の中と言っても、神殿があるのは比較的地熱の高い場所ですから、凍り漬けになっているようなことはないと思いますが、それでも今日一日は宿泊できるように、あちこち手を入れないといけないでしょうね」

「ねぇねぇシオン。あとどれくらいあるの?まだ遠いの?」

 夏生まれながら、寒さにも雪にもまるでめげていない陽南海が、足取りも軽く訊ねる。

 ちなみに彼女が通るのは、前を行くシオンが歩いて出来た窪みの上だ。

 陽南海が歩きやすいように普段より歩幅を狭め、雪を出来るだけ硬く踏みしめながら歩くシオンは、いつも通り無表情ながら、さすがに肩が微かに上下している。

 しかし彼は疲れた素振りのひとつも見せることなく言った。

「いや、もう遠くはないだろう。山へ入ってから既にかなり歩いているからな。そろそろ見えてくる頃だと思うが」

 シオンの言葉を肯定するかのように、一行の前に真っ白い神殿の姿が見えてくる。

「うわー……キレー……」

 陽南海が感嘆の声を上げた。

 あまりの白さに周囲の雪景色と同化してしまいそうなその神殿は、まるで一枚の風景画のようにそこに佇んでいた。

 その周囲に降り積もる、足跡一つ付いていない新雪と、生命の息吹さえを感じさせない絶対の冷たさが、何人も侵しがたい清浄で神聖な雰囲気を醸し出している。

 思わず立ち止まって見惚れている鈴原一家を、ユリウスが微笑みながら促した。

「――さあ、いつまでもここにいては体が冷えます。中に入りましょう」

「何だ、長い間ほっぽってた割にゃぁキレーじゃねーか」

 歩きにくい新雪の上から逃れて、早速神殿の中に入ったキッドが周囲を見回しながら言った。

 確かに、長期間放置されていたにも関わらず、神殿には寂れたところなど一つもない。

 その柱の向こうから今すぐにでもガーディアン達が現れそうな雰囲気さえある。

 ユリウスは微笑んだ。

「小さいとは言え由緒ある神殿ですから、そう簡単に傷むような建築物ではありませんし、これだけ寒い場所では凍り付いているも同じですから、むしろ人がいる時より汚れはないのかも知れませんね。さあ、とにかく泊まれそうな部屋を探しましょうか。ウィンとシオンはこの神殿の暖房設備を調べて下さい。どこかに熱源となる〈火の宝珠〉がある筈です」

「OK」

「わかった」

「じゃ、オレたちも部屋見に行こうぜ、聖」

 床に置いた荷物を抱え上げキッドが言う。

 頷いて、聖は月夜を振り返った。

「それじゃ行こうか、月夜姉さ……」

 言いかけた聖は、月夜の姿を見て脱力した。

「ね、姉さん――」

 何を考えているのかいないのか、月夜は未だ神殿の中には入らず、その入り口付近に座り込んで何やらせっせと雪を丸めて遊んでいた。

「……え?」

 きょとん、とした顔で月夜が振り返る。

「なあに?ひぃ君」

「なあに、じゃなくて――何やってんのさ姉さん」

 疲れた顔で訊ねる聖に、月夜はふわん、と微笑んで手に持ったそれを差し出した。

「見て見て、可愛いでしょ?」

 そこに乗るのは雪で作られた、小さな雪ウサギ。

 どこで手に入れたんだか、しっかり赤い目まで付いている。

「あのね、さっきね、赤い小さな木の実を見つけたの。で、神殿についたら雪ウサギ作ろうって、ずっと思ってたの」

「……」

 脱力した上に、頭を抱えてしまう聖である。

 ぽんぽん、と誰かが彼の肩を叩いた。

 見上げると、陽南海と桜華が諦めたような顔で首を振っている。

 少なくとも、聖よりは月夜との付き合いが長い二人だ。

 理解しているとは言わないが、その行動パターンにはすっかり慣れている。

「……と、とにかく部屋へ行こう、月夜姉さん。姉さん一人じゃいつまでたってもたどり着けっこないんだから」

 大神殿と比べれば遙かに小規模ながら、それでもかなりの広さがありそうな神殿である。

 この分なら、おそらく一人に一つずつの部屋を割り当てられるだろう。

 しかしそうなると、極度の方向音痴を誇る月夜が無事に一人で自室へ戻ることは皆無に等しい。

 普段ならウィンが月夜に付き添っているところなのだが、今回ばかりは聖が月夜の腕を取った。

「ほら、行くよ」

「うん」

 大人しく頷いて立ち上がった月夜の腕を取ると、聖は彼女の分の荷物も持ってキッドと共に奥へ消えた。

「さて、では私達も行くとするか。……陽南海、お前はどうする?」

「あ、私も一緒に行く!……ねえ、ユリウスさん?」

「はい?」

「お部屋探して泊まれるようにしたら、外に遊びに行っても良い?」

 この国に入った時から久しぶりに見る雪に目を輝かせ『犬は歓び庭かけ回り~♪』状態でうずうずとしていた陽南海である。

 ユリウスは微かに苦笑して頷いた。

「ええ、構いませんよ。ただし、一人で行動しないで下さいね」

「うん!」

 見ているこちらまで明るくなるような眩しい笑顔を浮かべ、陽南海は鈴原夫妻を追って駆け出していった。

「さて――私達もそろそろ行かないとね」

 残った桜華が、どこか妙に不自然さを感じる明るさで言う。

「……大丈夫ですか?桜華」

 それに気づいたユリウスは、それまで浮かべていた微笑みを引っ込め、気遣うように桜華を見つめた。

「……え?」

「唇が真っ青ですよ。体もこんなに……冷え切って」

 スッと頬にユリウスの大きな手があてがわれる。

 桜華はその温もりに無意識に頬を押しつけながら首を振った。

「ううん、大丈夫。なんでもないわ」

 真っ青な唇。ゆるめられた防寒服の襟元から僅かに覗く、鳥肌の立った首筋。

 こうしてあてている柔らかな頬も、氷のように冷たく、微かに震えてさえいるようで……。

 どこからどう見ても大丈夫などではない桜華の、しかしそれを認めようとしない強気な台詞に、ユリウスは眉をひそめた。

「……桜華」

 責めるようなユリウスの呟き。

 はっと目を上げれば、そこには自分を非難するように、しかし悲しげに見つめるユリウスの瞳がある。

「約束したでしょう?私には強がりを言ったりしないと」

「……」

 ユリウスの言葉には、僅かな疑問も質問も含まれてはいなかった。

 すっかり見抜かれているのを悟り、桜華はフッと力を抜く。

 実はさっきから寒気がして仕方なかったのだ。

「……ごめんなさい」

 ムキになって否定しても良かった。

 実際、普段の桜華ならそうした筈だった。

 ……けれど、目の前のこの恋人が相手だと、どうしてもそれが出来なかった。

 もう、認めてしまってもいいのかもしれない。

 強がっていることに疲れてしまったことを。

 本当は心のどこかで、ずっと支えを求めていたことを。

 けれど、今の桜華にとって、それはまだ容易ではなかった。

 だからせめてもの口実に、桜華は呟く。

「――約束だものね」

 そう言って薄く笑う桜華。

 しかしユリウスはその言葉にハッと表情を硬くした。

 彼女にとって。

 今まで、一人で立っていることを誇りにして、それを支えにアイデンティティーを保ってきた彼女にとって。

 誰か、頼る人間を求める、その思いを認めるのは難しいことなのかも知れない。

 それがわかっていても、それでも、ユリウスは心の中が満たされない苛立ちを覚えた。

 頼って欲しい。認めて欲しい。もう、自分なしでは立っていられないのだと。

 心の底から望み、求めて欲しい。

 そうすれば、今、この胸の中にある不安も、乾きも癒されるのに。

 それが出来るのは、目の前のこの強気で勝ち気な恋人だけなのに。

 それを少しでも伝えたくて、自分にこんな苦しみを与える恋人を罰したくて、ユリウスはほぼ衝動的に彼女を引き寄せた。

「ユリ……?」

 いくら今は二人きりだと言っても、ユリウスがこんな風に強引な行動に出ることは珍しい。

 驚いて咄嗟に腕に力を込め、抗う桜華を、ユリウスは尚も抱き寄せる。

「ちょ……やめ……」

「……それだけですか?」

 ユリウスは桜華の抵抗など歯牙にもかけず、あっと言う間に彼女を腕の中に引き寄せると、その髪に顔を埋めた。

「……え?」

 その声の中に、微かに非難めいた調子が混じっているのを感じ、桜華は動きを止める。

 と、ユリウスは体を離し、真っ直ぐに桜華の目を見つめて繰り返した。

「……それだけですか?私を頼って下さるのは、約束だから、本当にそれだけ……ですか?」

 冗談を言うように軽い口調で訊ねるユリウス。

 しかし、その声には紛れもなく気弱で不安げな想いが混じっている。

「――バカね」

 そう言って、桜華は自ら身を寄せた。

「わかってるくせに」

 その言葉に、ユリウスはほっと肩の力を抜いた。

 本当に聞きたかった言葉とは違うが、仕方がない。

 ずっと長い間、そう、生まれてから25年間もの長い間、彼女はそうやって生きてきたのだ。

 追いつめ、それを言わせるのは簡単だが、出来ることならそれは、彼女自身から言い出して欲しかった。

「……話が脇道に逸れてしまいましたね。寒いのですか?桜華」

「ん――ちょっとね」

「ちょっと?」

 からかい気味に聞き返すユリウス。

 桜華はため息を付いた。

「はいはい、わかりました。とっても寒くて体中凍えてるから、出来れば暖房がきいてくるのを待つより、温泉か何かで体を芯から暖めたい気分です。……これで満足?」

 ちょっと拗ねたように睨む桜華に、ユリウスは笑いながら頷いた。

「ええ、満足です。……温泉、ですか。神殿の人に聞いたのですが、ここの裏手に温泉源があるんだそうです。確か、それを利用したジャグジーとプールもあるそうですよ。よろしかったら、行ってみませんか?」

「ジャグジーとプール?へえ……」

 途端に、桜華の相好が崩れた。

「プールか……いいわね。私、あっちの世界では毎日泳いでたのよ。こっちじゃそんなヒマもないし、諦めてたんだけど……行ってみたいわ。あ、でも水着……」

「ああ、それなら心配はいりません。この神殿には確か、物資供給用のパイプラインがあった筈ですから」

「パイプライン?」

 桜華の荷物を代わりに受け取り、部屋へ向かいながらユリウスが頷く。

「ええ。先ほども言ったように、ここは冬になると完全に下とは隔離されてしまいます。かと言ってガーディアン達がこの神殿を離れることは許されませんし、こんな小さな神殿では貯蔵しておける物資も限られてしまいますから、神殿を建てる際に小さな空間歪を作っておいたらしいんです。それと下の街がつながっていますから、後で街に下りて買ってきましょう」

「ちょ……ちょっと待って」

 桜華は微かに眉をひそめてユリウスを見上げた。

「はい?」

「その空間歪を通れば街に簡単に下りられるっていうの?」

「ええ」

「じゃ……じゃ、何で私達、わざわざあんな山の中歩いてきたの!?」

 桜華の言い分ももっともである。

 が、ユリウスは首を振った。

「小さいとは言え、曲がりなりにも空間の歪です。こんな無人の神殿、しかも閉鎖されようと言うのに放っておくわけがないでしょう?空間歪は封印されて、こちら側から解かなければ使えないようになっているんです」

「ああ……なるほど」

 納得したような桜華に、ユリウスは苦笑する。

「そうでなければ山登りなどさせませんよ。私達はともかく、マスターに山登りをさせるのは敵に襲われるより危険ですからね」

 可愛い妹がずいぶんな言われ方をされているが、実際、ここへ到着するまでの間に月夜が転んだ回数を考えると何も言えない桜華である。

 その代わりに、桜華は冗談めかしてユリウスの腕に腕を絡ませ、言った。

「ねえ、あなたは?」

「はい?」

 きょとんとした表情で、ユリウスは猫のように悪戯っぽく瞳を輝かせる桜華を見下ろす。

「あなたは、他に何かすることあるの?」

「そうですね……」

 桜華の言いたいことを悟り、ユリウスはにっこりと微笑む。

「いいえ、泊まり支度が終われば、あとは特にありません。――私もご一緒してよろしいですか、桜華?」

 穏やかに自分を見つめ微笑む恋人に、桜華はにっこり笑って頷いた。

 一面に広がる銀世界。

 誰の足跡も付いていない雪野原に眩しい陽射しが降り注ぎ、ダイヤモンドのかけらのようにキラキラとした煌めきがそこら中を埋め尽くしている。

 真っ青に澄み渡る空と燦々と輝く太陽に誘われたように、神殿から勢いよくいくつかの人影が飛び出してきた。

「ひゃっほ~っ!!」

 神殿に到着してから小一時間。

 早々に泊まり支度を終えたキッドが、まず先陣を切って飛び出した。

 その小脇に抱えるのはお手製のスノーボードだ。

 と言っても、そこら辺に落ちていた木ぎれの四隅を丸く削り、それっぽい形にしただけの簡単な代物だったが、仮にもダルスの精鋭を名乗るだけあって、そんなものでもキッドには十分らしい。

 最初の数分だけ手間取ったものの、キッドはあっと言う間にコツを覚え、そのスノーボードもどきを器用に乗りこなしている。

 ビュンビュンと耳元を過ぎていく風。

 右に、左に、めまぐるしく変わる色彩、線と化した景色。

 何より自身の体の重みさえ消え、大気と一体化したようなその解放感が、キッドをたまらなく自由な気分にさせた。

 もっと早く。もっと、もっと。

 体にまとわりつく風が、勢いを増すごとに彼を阻み、邪魔をする。

 しかし、そんな感覚さえも自分の体が風に溶けていくように感じられて、キッドは更にスピードを求めた。

「キッド!!」

 と、そのすぐ横で声がした。

「ひ……聖!?」

 見ると、キッドに負けず劣らずの凄まじいスピードを出しながら、聖がスキーで横を滑っている。

「お、お前、それ……」

「はぁっ!?よく聞こえないよ、キッド!!」

 それはそうだ。

 二人とも同じ様なスピードだから互いの姿を確認できるものの、今こうしている間も彼らはトップスピードで滑っているのだ。

 周囲を吹き抜けていく風はすでに轟音と化し、互いの声も殆ど聞き取れない。

 キッドは手振りで止まるように言い、自身も暫く滑り降りてゆっくりと止まった。

「……あーもう、すっごい早さで滑ってくんだもんなぁ。待っててくれたっていいじゃないか」

 ストックを斜面に刺し、ゴーグルを取った聖が膨れっ面で言う。

 キッドは呆れながら言った。

「だって、お前がこんなにスキーが出来るなんて知らねーからさ。お前、どっちかってーと運動とか苦手っぽそうに見えるしよー」

「何言ってんだよ、これでも僕、部活は体育会系……って言ってもわからないのか。とにかく、冬生まれだしね、スキーは昔から得意なんだ」

「あぁ……だろうなぁ。このオレについてくるんだから……」

 目の前――いや、目の横で見た聖の技術は紛れもなく本物である。

 キッドは聖の意外な一面に驚いてポカンとしていたが、その次の台詞で我に返った。

「で、これからどうやって帰るつもりだい?」

「……は?」

 何言ってんだ、コイツは?

 そんな呆れた思いがモロに顔に出ていたのか、聖はぷっと膨れる。

「だって、見ろよ、アレ」

 と指さす方向、遙か彼方にぽつん、とした神殿が見える。

「……こんな下まで滑りおりてきちゃってさ。さっき、あれだけ苦労して登ったのに……リフトとかないんだろう?だったら、また山登りしなくちゃならないんじゃ……」

「お前……なあ」

 思わず頭を抱えてしまうキッドである。

「バカじゃねぇんだからよ。それぐらいわかってるよ、オレだって。……ほら、これ」

 ポォン、とキッドは何かを投げて寄越す。

 上手に受け取って、聖はそれをまじまじと見つめた。

「……なに?これ」

 それは、どこからどう見ても何の変哲もない鍵だった。

「何って……花の種にでも見えるか?鍵だよ、鍵」

「……だから何の鍵だよ」

 からかわれているのはわかっているが、ついつい真面目に応えてしまうあたり、聖もウィンと性質が似ているのかも知れない。

 キッドはおかしそうに顔を歪めながら言った。

「リフトの鍵だよ。さっき神殿を探してた時みつけたんだ」

「リ……フト?」

 聖はそのまま辺りを見回す。

 一面の銀世界。あるのは雪の斜面と枯れ木のような林。

「このどこにリフトがあるって?」

 聖の問いに、キッドは肩を竦めた。

「今はまだ起動してねぇから隠れてんだよ。ほら、ここってこの国初めての神殿だろ?何の因果か、こんな辺鄙な場所に建てちまったけどよ、元々神殿なんてなぁ、参拝する人間がいなきゃ話になんねぇわけだ。で、中央の連中がさ、何とか参拝者を集めようってんで、わざわざ大変な山登りしなくても参拝できるように、リフト作ったらしいんだ。だけど、中央組織がでかくなって、参拝者が増えたんで、この国の王様が下に神殿を建てた。だからリフトも必要なくなって、封鎖されちまってたってわけだ」

「はあ……なるほど」

 思わずキッドをまじまじと見つめる聖。

 キッドは不思議そうに首を傾げた。

「……なんだよ?その意外そうな目は」

「だって意外だったんだもん」

「なにが」

「いや……普段ふざけて不真面目なようでも、お前ってやっぱエリートガーディアンなんだなぁと思って。よく知ってるよな、自分の守る以外の神殿の事情とか」

「な、何だよそれ。ほめてんのかけなしてんのか、わっかんねーじゃねぇか」

 と言いつつ、その鼻は膨らんでいる。

 人に、それも聖に感心されて、嬉しくないわけがないキッドだった。

「じゃあ、上りは気にしなくていいんだ」

「ああ。……なぁ、今度は勝負しようぜ」

「勝負ぅ?」

 板を外し、リフトがあるという林の方へ歩きながら聖が言う。

「だって、お前があんなに滑れるとは思わなかったしよ。何ならハンデくれてやってもいいぜ」

「よく言うよ。さっきだって互角だったろ。……よし、その勝負受けた」

「そうこなくっちゃ」

 くしゃっと、少年っぽい笑顔を浮かべるキッド。

 聖は手のかかる弟のようなキッドの、その滅多に見せない年齢相応の笑顔に、胸の中がくすぐったくなるような気分にとらわれながら微笑み返した。

「……」

 せっせ。せっせ。

 月夜が雪を手のひらでギュッと固めてはころころと転がしている。

 もう既に何個作ったかわからない、その雪玉を眺めながら、ウィンは後ろで月夜を見守っていた。

「……ねえ、月夜」

「ん?」

 ウィンの呼びかけに、月夜が振り返る。

 ウィンは月夜の前に並んだそれを指さしながら言った。

「それ……何て言うんだい?」

 ウィンが指さしたのは、大きい雪玉と小さい雪玉を重ね、小さい方の雪玉に人の顔のようなものを付けた物だった。

「これ?知らないの?……雪だるま、って言うのよ」

「雪……だるま?」

 月夜の周囲には、その『雪だるま』とやらが総勢十数個並んでいる。

 その全てにきちんと手足が付き、表情も個々に違うのだから芸が細かい。

 ウィンは雪の上に座り込んで小さな雪だるまを作り続ける月夜に視線を戻した。

 ――やっぱ、ほっとくわけにはいかない、よなあ。

 背後の斜面から、聖とキッドの歓声が聞こえてくる。

 ウィンは脇の雪面に刺したストックとスキー板をちらっと横目で見やって肩を落とした。

 ――オレも滑りたいなぁ。でも……。

 思いつつ、再び月夜の方に視線を戻す。

 と、月夜は自分で並べた雪だるま達にスペースを占領され、別の場所へ移動しようと立ち上がった所だった。

「あっ……」

 慌てて、ウィンも立ち上がる。

 と、それに応じたかのように、月夜の体がよろめいた。

「……きゃっ!?」

 いきなり雪に足を取られ、後ろへよろける月夜。

 元々が転びかけた体勢を立て直す、なんていう運動神経すら持ち合わせていない月夜は、それでも辛うじてお尻から倒れ込んだ。

「きゃん!」

 ぺたんっ、と雪の上に座り込む形で倒れる月夜。

 柔らかい新雪はその体重に沈み込み、月夜の体がほんの少し、雪に埋まる。

「……」

 ウィンはため息を付いて月夜の元へ歩み寄った。

「大丈夫かい?月夜」

 言いながら片手を差し出す。

 月夜がその手をしっかりと握ると、ウィンはよっ、と軽く月夜の体を引っ張り上げた。

 が、今度はどうやら引っ張りすぎたようだ。

「……きゃっ」

 雪に埋もれて思うように足を前に出せなかった月夜の体が、今度は前のめりによろめく。

 ウィンは慌ててその体を抱き留めた。

「きゃっ」

「っ……と。ほら、気を付けて。大丈夫かい?」

「う、うん。ごめんねウィン。ありがと」

 ウィンの腕の中で、その胸にしっかりしがみついたまま、月夜がはにかむような微笑みを浮かべて見上げる。

 ウィンは一瞬、息をのんだ。

 寒さで潤んだ瞳とピンク色に染まった鼻の頭、耳の真ん中まで深くかぶったニットの帽子からわずかに零れる幾房かの黒髪。

――か、可愛い……。

 ウィンは思わず月夜を支える腕に力を込めた。

 ぶ厚い防寒服を通してさえわかる、華奢な月夜の体。

 柔らかいマシュマロのような頬は真っ赤に染まり、肩と胸の上下に合わせて吐き出される白い息が、ウィンの喉元をくすぐる。

 肌を露出した部分など殆どないのに、こうして身を寄せ合っていると彼女の甘い香りがウィンを包み込んだ。

――ま、いいか。

 ウィンは背後で聞こえるキッド達の歓声もすっかり耳に入らない様子で、にっこりと微笑んだ。

「……ウィン?」

 月夜はそのまま動こうとしないウィンに首を傾げる。

「どうかした?……きゃっ」

 と突然、ウィンが月夜を抱え上げた。

「ウィ、ウィン……!!」

 何の脈絡もないウィンの行動に、月夜は慌ててその首に手を回し、体のバランスを取る。

 ウィンはそのまま雪だるま達の前へ歩いていき、いきなりドカッと雪の上にあぐらをかいた。

 抱いていた月夜の背中を自分の胸にぴったりと押し当て、その細い腰に手を回し、月夜を自分のあぐらの上に座らせる。

「……??」

 何を考えているのかわからないウィンに、月夜はおそるおそる後ろを向いた。

 その不安げな想いが顔に出ていたのか、ウィンがにっこりと微笑む。

「ウィン……?」

 するとウィンは、真面目な顔で言った。

「女の子は、腰を冷やしちゃいけないんだよ。……さっきから月夜、雪の上に座り込んでたろ。それよりは、こっちの方が暖かいから」

「あ、え、と……」

 思わず言葉を失ってしまう月夜。

 その雪をも溶かさんばかりの光景は、他人が見ていたら間違いなく砂を吐いたであろう。

 ……結局、ウィンにとって、これはこれでそれなりに幸せなのかも知れない。

――所は変わって、ここはジャグジーとプールが隣接している半屋外の広い一室。

「へえ……結構広いのねぇ」

 早速、街へ行って買ってきた水着を着込んだ桜華が、プールの脇にある椅子の背にバスタオルをかけながら見回した。

「ガーディアンは日々の訓練を怠ることは出来ませんから、外での訓練が思うように出来ない分、こういう施設が必要だったようですね。……まぁ、ジャグジーの方は恐らく趣味でしょうが」

 こちらも水着に着替え、長い金色の髪をゆるく束ねたユリウスがジャグジーに身を浸しながら言う。

「……」

 普段こうしてまじまじと見たことのない彼の姿に、桜華は一瞬見とれた。

 服の上からではわかりにくい、筋肉質の体。

 その肩は桜華の体をすっぽりと包み込んでしまえるほど広く、彼を華奢に見せている美しい白い肌が実は見かけより硬く滑らかなのを桜華は知っている。

 すらりと伸びた長い脚、しなやかな腕。その節くれたったところのない細い指は音楽家のように優美で繊細な彼の印象をより一層引き立て、戦っているときでさえ優雅さを失うことはない。

 彼のことを知らない人間なら、決して彼が神官を守る戦士、しかも精鋭の名を冠するダルス隊のリーダーであるなどとは思わないだろう絶世の麗人。

 その彼の姿が、窓の外に降り積もった真っ白い雪の照り返しで、プラチナゴールドの光に染まっていた。

 肩からこぼれ落ちる絹糸のような金色の髪が、まるで本当の黄金のようにキラキラと輝き、その周囲の空間だけ時間が止まって見える。

 実際、桜華は息をすることさえ忘れたようにそこに立ちつくしていた。

――見かけで好きになったわけじゃない。それは断言するわ。でも……。

 と同時に、胸の中にふつふつと誇らしいようなくすぐったいような歓びが浮かび上がってくる。

 通りすがる全ての女性が振り返らずにはいられない麗しの君。

 その彼を独占できることに歓びを感じるのは、もしかしたら許されない傲慢なのかも知れない。でも、それでも、その歓びを抑えることは出来なかった。

「……?どうかしましたか?」

 その様子に気が付いたのか、ユリウスが訊ねる。

 桜華は慌てて首を振った。

「う、ううん、なんでもないわ」

 ――まさか、あなたの体に見とれてました、なんて言えるわけがない。

 桜華は誤魔化すように別の話題を探した。

「あ、あなたは泳がないの?」

 心の動揺を隠すように軽いストレッチをしながら訊ねると、ユリウスは首を振る。

「いえ、私はこちらの方にします」

「……そう」

 若干つまらなそうな表情を浮かべたものの、桜華はそのままプールの飛び込み台に立った。

 スッキリとした黒い水着に包まれた、桜華のスラッとしなやかに伸びた見事な肢体が、窓から差し込む陽射しを受け金色の光に包まれる。

 神々しくも艶やかな恋人のその姿に、ユリウスはぼうっと見惚れた。

 引き締まった腕、スラリと伸びた脚、見事な曲線を描く体。

 その全てが透き通るように白く美しいこの女性を、その腕に抱いたときの感触がありありと蘇ってきて、ユリウスは慌てて視線を外した。

 そのまま見ていたら、理性が吹き飛んでしまいそうな気がして。

 それが悪いわけではないが、ここは半屋外の一室。

 神殿からも外からも、誰でもが自由に入ってくることが出来る。

 その瞬間、桜華が水音を立てて綺麗にプールに飛び込んだ。

 毎日泳いでいた、という言葉を肯定するような見事なフォームで、桜華はゆっくりとプールを往復する。

 そのまま何度か往復して泳ぐと、桜華はプールから上がってデッキチェアーに腰掛けた。

 椅子の背からバスタオルを取り、濡れて水滴がしたたり落ちる髪をバスタオルで包み込む。

 そんな姿がいやに色っぽく感じられて、再び横目で桜華を見ていたユリウスはドキン、と胸が高鳴るのを感じた。

 と、まるでそれが伝わったかのように桜華がこちらを向く。

「……」

 別に悪いことをしていたわけではないのに、ユリウスは思わず、慌てて視線を逸らしてしまった。

「……」

 くす、と桜華が微笑む。

 そのままゆっくりと歩いてくると、桜華は温かい泡の吹き出すジャグジーにスルリと身を沈めた。

「……」

「……」

 二人とも、何も言わなかった。

 片方は気まずさに言葉を失って。

 片方は相手の動揺を楽しむように。

 ほんの数十㎝しか離れていない場所に並ぶ体。

 腕を伸ばせば届く位置に座る恋人。

 その距離がじれったくて、けれど場所を忘れるほど無茶にはなれなくて、ユリウスは苛立たしげに腕を組んだ。

 と、桜華が動いた。

 その顔に明らかなからかいの表情を浮かべたまま、桜華はジャグジーの縁に組んだ両腕をかけ、その上に頭を乗せる。

 そして、気持ちよさそうに目を閉じると、彼女ははふ、と大きなため息を付いた。

 隣りに座る恋人。彼が何をどう感じるか、ちゃんと見越した上で。

 暫くしてふと見ると、ユリウスは何やらしかめっ面をしたまま、ブツブツと小さく呟いていた。

「……」

 ちょっと苛めすぎたかしら。

 桜華はくすくすと笑い声を立て、起きあがる。

 そして、まだしかめっ面をしたままのユリウスに近寄り、その腕を取った。

「……?」

 ユリウスが振り向く。

 桜華はその腕を引っ張るようにしながら言った。

「ね、泳ぎましょ」

「……そうですね」

 ユリウスが微笑んで身を起こしかける。

 ……しかし、桜華は気づかなかった。

 その微笑む瞳の中に炎のように宿った、何かを企むように悪戯っぽく、しかし強く輝く熱い光に。

 ぐいっ。

 突然、ユリウスが自分の二の腕をつかむ桜華を強引に引っ張った。

「……きゃっ!?」

 いきなりのことで驚いた拍子に体勢を崩した桜華が、引っ張られるまま前のめりに倒れ込む。

「きゃあっ!!」

 倒れていく体を支えようと、辛うじてつかんでいたユリウスの腕にしがみつく。

 が、それこそユリウスの思惑通りの行動で、桜華は腰に絡みついてきたユリウスのもう片方の腕に引き寄せられ、あっと言う間に背後から抱きすくめられてしまった。

「ユリ……っ!」

 抗議の声を上げようとした口は、すぐさまユリウスの唇に塞がれる。

 体の中を駆け抜けていく、もうお馴染みになった感覚に一瞬身を委ねようとして、しかし桜華はハッと我に返った。

 ここは神殿の裏手に作られたジャグジーとプール。

 外からも、神殿の中からも、誰でもが自由に入ってこれる。

「やめ……ちょ……ユリウス、ちょっと待って……」

「何故ですか?きっかけを作ったのはあなたの方です。それも無意識などではなく、しっかりと自覚して、私がどう感じるか見越した上で、そうしたのでしょう?……それなのに、拒むのですか?」

「そ、それはそうだけど、でも……んっ」

 甘い唇。

 首筋に滑り落ちる、触れるか触れないかの軽い感触に、一瞬息が止まる。

 腕の中で震える桜華の体。

 その瞳に切ない光が宿ったのを見て取ったユリウスは、悪戯っぽく呟いた。

「……罪は償って貰います」

「ユリウス……」

 そのまま、この感覚に身を委ねてしまいたい欲求が体を貫く。

 ……が。

 辛うじて保たれた理性の壁が、その欲求を押しとどめた。

「や……ダメよ……やめてユリウス……」

 切ない瞳。

 けれど、その声に宿る懇願と拒絶もまた、真実。

 もとより、求めこそすれ、傷つけるつもりなど毛頭ないユリウスはため息を付いて力を緩めた。

「どうしてですか?理由くらいは教えてくれるでしょう?」

 それでも体も感情も、そう物わかりよくはなくて、せめてもの思いを恨めしげな声に込めて訊ねてみる。

 と、桜華はちらっと外へ視線を投げた。

「だって……誰がいつ入ってくるかもわからないのに……」

 普段の彼女からは到底考えられないような……そう、ユリウスにしか見せない恥じらうような仕草で、目を伏せて呟く桜華。

 その言葉の意味を理解した途端、ユリウスは再び力強く桜華を抱き寄せた。

「ユリ……!?」

 背後から肩に顔を埋めるユリウス。その体が小刻みに震え、喉から漏れる声で彼が笑いをこらえているのが分かる。

「どうしたの?」

 不思議そうな桜華の声に、ユリウスは微かに首を振った。

「何でもありません、ただ……何だか安心して」

 彼女が彼を拒むのは、ただ単に場所が場所だから。

 彼女が理性を保っている理由、それが彼への拒絶ではなく、むしろ拒絶できない自分を自覚してのことだと聞けば、もうユリウスの思いはとどまらない。

 再び顔を上げたユリウスの瞳には、今度こそ決して譲らない強い光が瞬いていた。

「ユ、ユリウス、ちょっと……」

 瞬時に彼の思いを察して身を引こうとする桜華。

 が、ユリウスは穏やかに微笑んだ。

「?」

「大丈夫です。ここには誰も入ってきません。――さっき、結界を張りましたから」

「け、結界!?」

 そう言えばさっき、腕を組んで顔をしかめながら、ぶつぶつと何事か呟いていたっけ。

 桜華は呆れて肩を竦めた。

「マメねぇ」

「あなたの為なら、何でもしますよ、桜華」

 フッ、と腰を抱く腕をゆるめ、そのまま彼女の体を反転させて向き合うと、ユリウスは彼女の頬をそっと撫でた。

「そう、あなたのためになら何でも出来る。――あなたを、この腕にとどめておくためになら……」

「ユリウス?」

 見慣れたはずの瞳。

 自分を抱き寄せるときの熱く、しかし決して穏やかさを失うことのない瞳。

 けれど、その中に、いつもと違う何かが宿っていた。

 穏やかさと微笑みの裏側に隠された、真実の想い。

「……あなたは強い女性です、桜華」

 その頬を撫で、髪を指に絡めながらユリウスが呟く。

「けれど、その強さが私を不安にする。あなたは強い人だから……一人でも立っていられる人だから、なおのこと……いつか、私から離れていってしまいそうで……私だけ置き去りにされてしまいそうで」

「……」

 『馬鹿ねぇ』。

――普段の桜華なら、口にするところである。

 しかし、言えなかった。

 目を伏せ、辛そうに肩を震わせ、不安にとぎれがちになる言葉を必死で紡ぐ恋人の姿。

 きっと、ずっと前から、彼が彼女への想いを自覚したその瞬間から抱いてきた不安。

 それを、ユリウスは今までずっと心に秘めてきたのだ。

 自分は、彼女を守ると誓ったのだから。弱みを見せて欲しいと、涙を見せて欲しいと願ったのは自分。

 頼られる側でありこそすれ、頼る側に回るわけには行かない。

 そんなユリウスの想いが手に取るように伝わってきて、桜華は我知らず、自分から彼の首に腕を回していた。

「……桜華?」

「私が強いなんて、本気で思っているの?ユリウス」

 少しだけ体を離し、その瞳を真っ直ぐに見つめる。想いが伝わるように。今、感じている全てが瞳を通して彼の全てに染み込むように。

「あの時、言ったでしょう?私は、強い女なんかじゃない。大丈夫、って笑ってる裏側で、心が泣き叫んでることだってある。だから……だから守って欲しいって言ったのよ。私を、本当の私を見て欲しいって……だから、もし、あなたが私を強いと言うのなら、それは……」

 そっと、唇を重ねる。

 温もりが、彼に少しでも癒しを与えるのなら。

 何百回でも、何万回でも。

「私が強くいられるのは……そばにあなたがいるからよ」

 振り返れば、いつだってそこにある穏やかな瞳。

 誰かのための自分でいられる人。

 誰かのために自分を殺すことを覚え、それに慣れてしまった人。

 彼だけは、自分を見てくれる。

 どんなに強がっても、どんなに無理をしても、彼が自分を見ていてくれるから。

 壊れそうになったときは、彼がきっと守ってくれるに違いないから。

 そう信じられるから、私は強くあれる。強くいたいと……願う。

「桜華……」

 重ねられた唇に、次第に熱がこもっていく。

 くちづける度に混じりあう吐息。その甘さに、最後に残った理性の壁が取り払われていく。

 何度も何度も重なる唇。ふれあうだけだった軽いキスが、やがて次第に深く、甘さを増して……。


 ――もう、止められない……。


 背中に回された腕。うなじを支える大きな手。ぴったりと重なる体。

 その全てに力がこもり、キスが、彼の望みをはっきりと伝えるように激しさを増すと、桜華は完全に抵抗を諦めた。

 彼女の体からぐったりと力が抜ける。

 ――降伏したわけではない。ただ、認めただけだ。

 身内に眠る、彼を求める熱い想いを。

 こちらもまた、くちづけ、貪ることに夢中になっていたユリウスが、突然ふっと軽くなった桜華の体に、ふと顔を上げた。

 降伏など、求めてはいない。征服など、望んではいない。

 彼女は決して、自分を失わない。誰かのために己を殺し、周囲にとけ込む、自分のようにこそくな手段を、彼女は使わない。

 いつだって、一人で。

 誰にこびるでもなく。誰にへつらうわけでもなく。

 彼女は一人で、立っている。

 だが、それでも、いや、それこそがユリウスの望みだった。

 自分を見失わない人だから。だからこそ、彼女が力を抜いたのは自分の意志。

 ユリウスを受け入れたのは、彼女自身がそう望み、求めたから以外の何者でもない。

 それだけで、幸せ。それこそが、本望。


 ――このまま……。


 膝に乗せていた桜華の体をひょい、と抱き上げ、ジャグジーの縁へ運ぶ。

 波打ち際のように湯が寄せては返すその場所に桜華を横たえ、ユリウスがその上に覆い被さろうと……そう、その瞬間だった。


「きゃーーーーーーーーーーっっっっっ!!!!」

 突如、もの凄い悲鳴がジャグジーに響きわたった。

「っ!?」

 近くはないが、かと言って遠くもないどこかで響くその声に、二人は慌てて身を離す。

「な……何事?一体」

 微かに息を喘がせ、頬を紅潮させた桜華が訊ねる。

 起きあがろうとする彼女に手を貸しながら、ユリウスは首を傾げた。

「――わかりません。とりあえず、そんなに切迫したような声ではありませんでしたが……」

 冷静そのものの声に、ふと顔を見やれば、その表情は既に『ダルスのリーダー』に戻っている。

 この表情になったユリウスが自分自身を優先させることは皆無に等しく、桜華は軽くため息を付いて立ち上がった。

「桜華?」

「とにかく、服を着て外に出てみましょ。……そのつもりなんでしょ?」

 責めるでもなく、膨れるでもなく、ただ、仕方ないわね、といった風に微笑む桜華の言葉に、ユリウスはすまなそうに立ち上がった。

「申し訳ありません、桜華。しかし――」

 言いかけるユリウスの言葉を遮り、桜華は悪戯っぽく微笑む。

「何言ってるの、ユリウス?さっき、やめろって言ったのを無視したのはあなたの方よ?」

 だから謝るんなら、自分自身に謝るのね、そう言って笑う桜華を微笑みながら再び強く引き寄せると、ユリウスは最後にもう一度だけ、名残惜しそうに熱いキスを交わして脱衣所へ姿を消した。

「まったく――」

 その姿をぼーっとしたまま見送り、数秒後我に返った桜華は、未だ外で響きわたる声に苦笑した。

 その悲鳴が危機や危険によるものでないことは、誰が聞いても明らかだった。

 最初の悲鳴は陽南海。そのすぐ後にキッドの声が響いたから、おそらくまた、あの二人が何か騒ぎを引き起こしたのだろう。

「本当に、あの二人はいつもいつも……」

 肩を竦め、軽く外を睨んで、桜華はそっ、と胸に触れた。

 ユリウスの温もりが、火照りと共に残る体。その胸の奥で脈打つ心臓は、彼女の外見と裏腹に、未だ早鐘を打っている。

「私がちっとも平気じゃないってことわかってて、あの人は――もうっ。本当に意地悪なんだから」

 舌先に痺れるような感触が残る最後のキス。

 その甘さを確かめるように唇に触れ、舌先でちょっと舐めて、桜華はきびすを返した。

「故意にじゃないのはわかるけど、でも――」

 きらん、と桜華の瞳に挑むような光が宿った。

「いいところで邪魔したんだから……この報いは受けてもらわないとね」

――何だか最近、行動パターンがすっかりユリウスに似てきた桜華である。

「ユリウス!」

 しっかりと防寒服を着込み、神殿の外へ出た桜華はそこに立つ人影に驚きの声を上げた。

「待っててくれたの?」

 さっきユリウスがジャグジーを出てから、桜華がここへ来るまでに、既に30分は経っている。

「言ってくれたら、もっと早く用意したのに……」

 どうせ、あの調子ならたいしたことはないだろうとタカをくくり、のんびり服を着て、のんびり体を温めて、さっきまでのんびりお茶なんか飲んでいたのだ。

 もこもこの防寒服に阻まれながらも身を寄せ、冷たくなった頬に手を当てる桜華に、ユリウスは微笑んで首を振った。

「あの声の様子では危険なわけではなさそうですし、そう急ぐことはないと思い直したんです。……ちゃんと体を暖めてから来たようですね、桜華」

 そう言って桜華の腰に手を回し、引き寄せようとしたユリウスがふと動きを止めた。

「……どうしたの?」

「私の体は冷たいですから。……せっかく暖めたあなたを冷やしてしまう」

「――バカ」

 桜華はそう言って自分から身を寄せた。

「こうしてれば、二人とも暖まるじゃない。冷えたら、もう一度ジャグジーに入ればいいんだし」

 分厚い防寒服を通して、歯がゆいほど微かに互いの体温が伝わってくる。

 このまま彼女を連れ去って、二人を隔てるこの邪魔な服を剥ぎ取ってしまおうか。

 一瞬でも真剣にそう思った自分に驚き、ユリウスは苦笑した。

「?」

 不思議そうに桜華が見上げている。

 ユリウスはそっと頬にくちづけた。

「その時は、さっきのように焦らすのはなしですよ?」

 耳元に響く低い声。

 くすくすと笑い声を立てると、桜華は頷いた。

 と、その時だった。

「お姉ちゃん、危ないっ!!」

 宝くじに当たるより珍しい、月夜のせっぱ詰まった声が響いた。

「えっ……」

 咄嗟に身を離し、声のする方に振り向くのと、白く小さい球体が桜華めがけて飛んでくるのはほぼ同時だった。

「きゃっ!」

 思わず身を竦ませた桜華の前に、サッとユリウスの手が差し出される。

 パシャッ、という軽い音が響き、拳大ほどの雪玉が砕けた。

「な……?」

「コレは一体どういうことです?」

 手に付いた雪を払い、ユリウスは桜華の方を向く。

「大丈夫ですか、桜華?」

「え、ええ。ありがと」

 と、月夜がそばへ駆け寄ってきた。

「大丈夫、お姉ちゃん?」

 心配そうに眉をひそめる月夜に頷き、桜華は雪玉が飛んできた方を見る。

 と、そこには『あっちゃ~』という顔をしたキッドが、気まずそうに立ちすくんでいた。

「質問に答えて下さい、キッド。これは、一体何の騒ぎです?」

「オ、オレが悪ぃんじゃねえからな!その……当てそうになっちまったのは悪かったけど……で、でも最初にケンカ売ってきたのは、あいつなんだからな!」

 必死に弁明するキッドが指さす方向には、ぷうぅっと頬を膨らませた陽南海がいる。

「何よぅ!ヒトのせいにしないでよ!あたし、ケンカなんか売ってないもん!」

「売ったじゃねーかよ!」

「売ってない!」

「売った!」

「売ってない!」

「売った!」

「売ってない~~っっ!!」

「売ったって言ってるだろ、この乱ボー女っ!!」

「なぁんですってーーーっっ!!」

 きーっ、てな調子で両拳を振り上げると、陽南海はおもむろに雪をガバッとすくいあげた。

「うわ、またかよ……月夜、離れて!」

 ウィンが慌てて月夜の元に走り寄り、庇うように腕を取る。

「キッド!」

「陽南海!」

 聖とシオンがそれぞれ制止の声を上げるが、陽南海はそのまま、すくいあげた雪を思いっきりキッドに投げつけた。

「ぷっ……ぷはっ」

 両腕を上げて庇ったものの、幾らかの雪が顔に貼り付いたらしい。

 キッドが顔に付いた雪を払っているスキに、陽南海はせっせと足下に雪玉を作り始めた。

「んなろォ~、何す……んだ……?」

 かみつくようにキッドが顔を上げると、そこには既に雪玉を両手に抱えてにやり、と笑う陽南海がいる。

 しかも、手に持ったその雪玉は親の敵、とばかりにぎぅっ!と硬く握り固められていて、どっからどう見ても、当たると半端じゃなく痛そうだ。

「じょ……冗談だよな……?」

 汗をかきながらキッドがにこっと笑う。

 陽南海の方もにっこりと微笑みを浮かべ、言った。

「ん~ん、本気♪」

 その瞬間。

 雪玉がキッドめがけて降り注いだ。

「イテッ……いたたっ、こらヤメ……だ~~~っ!!」

 反撃どころか目を開けて陽南海に向き合うことすら出来ない。

 このままでは圧倒的不利と感じたキッドは、ひとまず逃げ出すことにした。

「誰が逃げるだ、誰が!オレは体勢整えるだけだっ!!」

 ――これは失礼。

 『体勢を整える』為、陽南海に背を向けて林の方へ駆け出すキッド。

 あそこまで行けば、とりあえずは時間を稼ぐこともできる。

 ……しかし。キッドは一つだけ忘れていた。

 陽南海は、あの聖を遙かに越える運動神経の持ち主だということを。

 さっきキッドと互角のスキー技術を披露した聖の運動神経を、陽南海のそれは遙かに上回る。

 まるで月夜の分の運動神経まで吸い取って生まれてきたんじゃないか、というぐらいだ。

 その陽南海が、そう簡単にターゲットに逃げられるようなへまをするわけがなかった。

「待ちなさいよキッドっ!!」

 キッドの意図することを察し、陽南海はすぐさま反応した。

 本当に雪の上か?と思ってしまうほど軽快な足取りで、陽南海もまた駆け出す。

 瞬く間に、二人の姿は林の中へと消えた。

「――一体、何がどうなっているんです?」

 思わず呆然とそれを見送ったユリウスが、はっと我に返った。

 と、そこへ憮然とした表情のシオンが歩いてくる。

「シオン?何か知っているんですか?」

「……すまん」

 シオンはまず一言、そう言って桜華に謝った。

「え……え?」

 桜華がきょとん、とシオンを見返す。

 シオンは本当に気まずそうに言った。

「投げたのはキッドだが、原因を作ったのは……その、陽南海と……恐らく、オレだ」

「あなたが?」

 桜華は思わず聞き返した。

 いつも寡黙で一人みんなと距離を置く……はっきり言ってしまえば影の薄いシオンである。

 その彼が、この騒ぎの原因?

 驚いたのは桜華だけではなかったらしく、ユリウスも戸惑いがちに訊ねた。

「一体……どういうことなんです?」

「そ、それが、その……」

 シオンは、言いにくそうにポツポツと、ほんの数十分前の出来事を話し始めた――。

「シオン!シオン、どこ~っ。シ~オ~ン~っっ!!」

 遠くで陽南海の呼び声が聞こえる。

 シオンはハァハァと弾む息を整え、岩影からそっと様子をうかがった。

「シオン~っっ!!隠れてないで、一緒に遊ぼうよ~っ。ねー、雪合戦しよーっっ!!」

 ――ハァ。

 思わず眉根を寄せて軽くため息をつくシオン。

 ……確かに、陽南海は可愛い。

 その明るく天真爛漫な笑顔は、太陽がゆっくりと氷を溶かしていくように、シオンの凍てついた心を溶かし、暖めていく。

 天使のような笑い声。太陽神の加護を受けているかのような明るさ、純真無垢な心。

 そのすべてがシオンのすべてに染みわたり、心の中には既に陽南海の暖かな姿がすみついている。

 ……しかし。

 しかし、今回ばかりはいただけなかった。

 元々、シオンは騒がしいことをあまり好まず、普段は一人で静かにしていることが多い。

 それを協調性に欠けるとか、気取ってるとかいう輩も少なくはなかったが、シオンは人にまとわりつかれることを極力避けるようにしていた。

 そのシオンを。

 一人静かに雪野原を散策していたシオンを。

 陽南海は事も有ろうに雪合戦に誘ったのだ。

 ――ウィンやキッドじゃあるまいし、何でオレが雪合戦など……。

 というわけで、シオンはさっきから逃げ回っているのだった。

 それが陽南海を「わ~いっ、雪合戦鬼ごっこするのね♪」と喜ばせていようとは、露ほども知らないシオンである。

 ……もっとも、普段なら、そしてこれが陽南海以外の人間であったなら、冷たい視線と態度で突き放しているだろうシオンが、何のかんのいいながら陽南海の好きにさせているのだから、これはこれで彼も心の底では楽しんでいるのかも知れない。


「……」

 やがて、陽南海の声が段々と遠ざかっていく。

 枯れ木の林はそれにつれて次第にひっそりと静まり返り、その静寂がシオンをゆっくりと物思いに引き込んでいった。


 ――初めて会った時は、末っ子だと思った。


 シオンは目の前に広がる枯れ木林に、ふと彼女に初めて会った森の中での光景を思い返していた。

 天真爛漫な性格故に、彼女は決して年齢相応には見えなかった。

 それでなくても、シオンの知っている彼女と同年齢くらいの女達は皆、年齢などわからないくらいに化粧をし、息が詰まるほど香水を振りかけ、いかに自分の魅力をアピールするか、その魅力でどれだけたくさんの男を落とすかに命をかけているような、そんな女達ばかりだったし、陽南海は恋愛感情そのものすら理解していないんじゃないか、と思ってしまうくらい無垢で、他人に対して警戒心を持たず、誰とでもすぐに打ち解ける明るい少女だった。

 だから、そうだからこそ、シオンはペースを狂わされてしまったのだ。

 人と距離を置き、誰にも心を開こうとせず、孤高の道を選んだシオン。

 そんな自分の信念に満足し、それを変えるつもりもなかった彼が、しかし陽南海と出会った瞬間、その何の屈託もない笑顔を見た瞬間、心に一筋の陽光が差し込むのを感じたのだ。


 ――それまでの自分がいかに孤独だったか、思い知らされたような気がした。


 孤高を保ち、それに満足していたはずの自分。その自分が、気が付けば、いつでも彼女の姿を目で追っていた。その視界に彼女がいないと、とてつもなく不安になった。

 そして、その瞬間から既に、彼は陽南海に囚われていたのかも知れない。

 孤高を取り戻そうとするシオン。しかしそんな彼の「理性」は、彼女の微笑みを求める「真実」の前ではあまりにも無力だった。

 やっと探し当てたぬくもり。今まで目をそらし、しかし受け入れてしまった温もりを、今更失うことは出来なかった。


 ――純真で、純粋で、だからこそどこか儚い印象を持った。


 陽南海は決して、見かけ通りの明るいだけの少女ではない。

 そのことにシオンが気づいたのは、もしかすると彼自身、自分を偽って生きてきたからなのかも知れない。

 いつでも陽気で明るく、無邪気な陽南海。しかしその心の奥底には孤独を怖れるさみしがりな少女がいる。

 孤独に脅え、一人でいることの寂しさを紛らわすために、あえて明るさを演じ続ける少女がいる。

 人を疑うことを恐れ、だからこそ人を無理にでも信じようとする陽南海。

 守ってやりたい。いや、守らなければいけない。この少女のために……自分のために。

 何故かはわからないが、とにかく、そう思った。

 ……その時から、シオンは狂おしいほどのジレンマの中に身を置くことになる。


 ――汚れのない少女。だから、自分を抑えた。


 清浄で、一点の曇りもない瞳。

 彼女がそばにいるだけで、十分だった。

 天使のような微笑み。

 だからこそ、自分が独占してしまうことに罪悪を感じた。

 独占してしまえば、いつか自分のその手で、彼女を傷つけ、汚してしまうかも知れない。

 それが、怖かった。

 けれど、だからと言って彼女を諦めることもできなくて……。


 そんな想いを、彼女は知っているのだろうか。

 そばに置いておきたい。けれど、独占することはしない。

 そんな曖昧な状況が、きっと彼女を苦しめているのだろう。時々、陽南海は不安そうな目でシオンを見つめることがあった。

 まるで、今にも捨てられてしまいそうな子犬のような瞳。

 そばにいて、離さないで。

 訴えかけるように潤む瞳。

 けれど、どうしても恐怖は拭えなかった。


 ――卑怯者、だな。


 シオンはため息を付いた。

 一人になると決まって、自己嫌悪の波が押し寄せる。

 頭の中を、胸の中を陽南海を求める想いと、それを阻む恐怖がぐるぐると回り出す。


 ――これでは、ウィンと同じか。


 ウィンが月夜に想いを寄せ、しかし己に何か誓いを立ててそれを抑えていることは、何となく察せられた。

 創造神を守る。

 しかしウィンの月夜を見る眼差しはそれ以上の想いをたたえた熱いものだったし、絶えずそばにいるのも、いつも気にかけているのも、月夜が守るべき神だから、それだけでないことは明らかだった。


 ――いや、あいつは強い。オレなどより、もっと……。


 独占することは出来ない。しかし、離れていることもできない。

 ウィンのように自分を抑制し、想いも告げず、触れもしない、それが出来るほど、シオンは強くはなかった。

 そばにいれば、陽南海に見つめられれば心はうずき、触れずにはいられない。せめて吐息だけでも共に……その想いを封じ込めることは、出来なかった。


 ――やはり、卑怯者だな、オレは。


 触れてしまえば、更にその先を求めるのは自然の理。一体、今まで何度、彼はその欲望に身を任せようとしただろう。

 求めれば、陽南海は拒まない。それがはっきりしていたから余計に、その誘惑はシオンを強く惑わした。

 しかし、そんな時いつも、それを遙かに凌駕する恐怖心が彼を正気に戻すのだ。

 吐息を重ね、その熱を感じる度に彼は自分を取り戻し、再び身を離してしまう。

 そんな時決まって涙ぐみ、辛そうに自分を見つめる陽南海の顔が瞼の裏に焼き付き、一人になるとシオンの胸を焼き焦がした。


 と、その時だった。

「ンなとこで何やってんだ?」

 突然、頭上から年若い少年の声が降ってきた。

「!?」

 驚いて見上げると、岩の真上にしゃがみこみ、自分を不審げに見下ろすキッドがいる。

「キッド」

 シオンがそう言うと、キッドはしなやかな猫のような動作で岩から飛び降りた。

「よっと。……こんなトコで何やってんだ、お前ぇ?さっきから陽南海がさがしてるぜ。――?何ぼっとしてんだよ」

「あ、いや」

 目の前で手をヒラヒラされて、シオンはやっと言葉を発した。

「いきなりで驚いただけだ」

 少年とは言え、ダルスに配属されるということは、それなりの実力を有しているということである。しかもキッドは身の軽さを利用した攻撃主体のガーディアン。気配を悟られずに相手に近づき、偵察や奇襲をかけることは造作もないことだろう。

 しかし、今は戦闘中でも偵察中でもない。

 しかもその様子から見るに、彼は別段、そおっと忍び寄ったわけではないようだ。

 それなのに今の今までキッドの存在に気づかなかったとは……。

 シオンは思わず苦笑した。

「?」

 キッドは予想外のその反応に一瞬硬直する。

 シオンが表情を露わにすることなど、普段なら考えられないくらい珍しいことなのだ。

――コイツ、また陽南海のこと考えてたな。

 シオンが陽南海といる時だけは表情を和ませ、その周囲に張り巡らしたバリアのような物が、僅かながらも緩むことをキッドは知っていた。

――あんな女でもこいつにとっちゃ大事な存在なんだろうな。ま、そーゆーのは悪くないけどさ。

 そう思いながら軽く肩を竦め、キッドは更に問いかける。

「……で?まだ質問に答えてもらってねーんだけどな、オレ。一体ここで何やってんだ?陽南海がさっきからお前を見なかったかってしつけーんだ。さっさと行ってやれよ」

 キッドはその瞬間、ちょっとだけ不機嫌そうな表情を浮かべた。

 おそらく聖と遊んでいたところを邪魔されて面白くないのだろう。

 シオンはつい頷いて立ち上がろうとして、ハッと我に返った。

 ここで陽南海に姿を見せれば、待っているのは雪合戦である。

「……何やってんだ?お前ぇ」

「い、いや、その……」

「あーっ!!シオン見っけーっ!」

 その瞬間、シオンの背後、ちょうど彼と向き合うキッドの真正面の位置に陽南海が現れた。

「っ!!」

 ハッと振り返ったときには既に、陽南海は雪玉を「大きく振りかぶって~」いる。

「てやっ☆」

 無邪気その物の声と共に、その手に持たれた雪玉が投げつけられた。

「っ!」

 つい咄嗟に、サッと身をかわすシオン。

 と、キッドが驚いたように言った。

「……あん?何やってんだ、お前ぇ――」

 キッドからだと、シオンの図体が邪魔をして向こう側はよく見えない。

 だから、声がするから陽南海がいるのはわかるものの、彼女の「てやっ☆」が何を意味するのかまでは分からなかった。

 わかったのは、身を傾げたシオンから正面へ視線を戻した瞬間だった。

「っっ!!」

 目の前に迫る雪玉。

 ゆるく握られてはいるものの、スピードは速い。

 ……気づいたときには、遅かった。

「いてっ!」

 パシャン、という軽い音が響き、雪玉は見事キッドの顔面に炸裂!

 何の前触れもないその攻撃に、キッドは思わず顔を押さえてしゃがみ込んだ。

「い、いて~……」

 いくら柔らかい雪玉とは言え、無防備なところへいきなり当てられたのでは、結構痛い。

 キッドは暫くそのまましゃがみこんでしまった。

「あ……」

 陽南海がしまった~、という顔で立ちつくす。

 キッドから陽南海が見えなかったのと同じように、陽南海からはシオンの影になったキッドが見えていなかったのだ。

 しかも、陽南海の方は声すら聞いてはいないから、キッドがそこにいることすら今初めて知ったぐらいだ。

 陽南海は気まずそうな顔をして、キッドに近寄っていった。

「あ、あの……ご、ごめんねキッド。あたし、あんたがそこにいるの知らなくて、その……痛かった?」

 彼らにとって。

 いや、月夜達全員にとって不幸だったのは、陽南海がぶつけた相手がキッドであり、キッドにぶつけた相手が陽南海だったことだろう。

 今まで、まともな会話を成立させたことさえないこの二人。

 寄ると触るとケンカばかりしているこの二人が雪玉をぶつけ、ぶつけられて。

 それで済むはずは絶対にあり得なかった。

 大体、今のキッドは聖と遊んでいたところを陽南海に邪魔されたおかげですこぶる機嫌が悪い。

 そんなこんなの全てが一度に吹き出して、キッドは思いっきり立ち上がった。

「いっ……てーな、この大馬鹿女!いきなり何しやがんだよっっ!!」

 唐突な彼の怒鳴り声に、陽南海は一瞬呆気に取られた。

 が、その台詞の意味を理解した瞬間、彼女もまたキッドにくってかかる。

「お……大馬鹿とは何よ、大馬鹿とは!あたしだってわざとやったわけじゃないわよっ、第一謝ったじゃない!」

「ったり前だ!わざとだったら、お前ぇみてーな乱ボー女にオレがやられるわけねーだろ!大体、何が痛かった?だよ!いてーに決まってんだろ、この大馬鹿女!」

「大馬鹿、大馬鹿ってうるさいわね!馬鹿って言うヤツの方がよっぽど馬鹿なのよ、知らないのっ!!」

「んなもん知るか!大体、そんなのウソに決まってんじゃねーか、この世でお前以上に馬鹿なヤツなんているわけねーんだからな!」

「なぁんですってーっっ!!」

――まるっきり子供のケンカである。

 あまりにも次元の低い言い争いに思わず呆然としていたシオンだったが、陽南海が再び雪玉を手に取ると我に返った。

「おい、陽南海……」

 制止しようとするが、すっかり頭に血が上った陽南海には馬の耳に念仏、これっぽっちも聞いちゃいない。

「何よーーーーーーっっ!!」

 そう一言叫んで、陽南海はシオン用に作っておいた雪玉をキッドに向かって投げつけた。

 が、そこはそれ、天下の精鋭ガーディアンを自認するキッドである。

「へっ、ンな攻撃が当たるかよっ」

 余裕綽々、といった風に身を傾げ、キッドは鼻で笑う。

 それが更に、陽南海の闘志に火を付けた。

「言ったわねーーーっ!!」

 その瞬間、陽南海はいきなり雪の上にしゃがみ込んだ。

「な……?」

 驚いて見つめるキッドとシオンの目の前に、猛烈なスピードで硬く握りしめられた雪玉が積み上げられていく。

「……」

 それを呆然と見つめながら、しかしシオンは密かに標的が自分からキッドに移ったことを喜んだりしていた。

 キッドの身の軽さは誰もが認めるところだったし、大騒ぎになればユリウスが仲裁にはいるだろう。

 ここは下手に自分が口を出して標的にカムバックしてしまうより、傍観者の立場をとった方が安全ではあった。

 結構冷静なシオンである。

「……もう、あったま来たんだかんね。ぜーーーったい、手加減なんかしてやんないんだから!」

 凄まじいスピードで作り出される雪玉は、既に両腕で抱えても持ちきれないほど堆く積まれている。

 しかしやっと我に返ったキッドがそれを鼻で笑った。

「へん、どんなにたくさん作ろーと、当たるわきゃねーだろ!オレは天下のガーディアン、ダルスのキッドだぜ!」

「何が天下よ、馬鹿馬鹿しい!だったらさっきのくらい避けなさいよねっ」

「ぐっ……」

 ……思いっきり急所であった。

「ち、畜生ォ~。オレもあったま来た。も一回謝ったら許してやろ~と思ってたけど、もーヤメた!絶対、負かす!」

 どっちみち自分が謝ることは考えていない二人であった。

 やがて雪玉をドドン!と積み上げた陽南海とキッドがゆっくりと立ち上がる。

「……覚悟は良いな」

「そっちこそ」

 ヒュオォ~っ。

 まるで西部劇のワンシーンのように、二人の間を北風が吹き抜けた。

「行くぞ!」

「勝負よ!」

 その時点で、二人の頭からすぐそばにいるシオンの存在が綺麗サッパリ忘れ去られていたのは言うまでもない。

「……」

 ハァッと、シオンは深いため息を付いた。

「……と、言うわけだ」

「……」

「……」

 一部始終をシオンから聞かされた桜華とユリウスは、二人して同時にため息を付き、頭を抱えた。

 確かに、恐らくあの二人が何か引き起こしたのだろうとは予測していたが、まさかここまで次元の低い争いが原因だとは……。

 と、それに拍車をかけるようにウィンが言った。

「そうそう、その後だよオレたちが巻き込まれたのは。な?月夜」

「うん」

 月夜も頷く。

「私達、二人で雪だるま作って遊んでたのに、いきなりキッド君と陽南ちゃんが駈けてきてね、私とウィンを間に挟んで雪合戦始めるのよ。……おかげで私もウィンも雪まみれになっちゃった」

 ……もっとも、正確に言えば挟まれても逃げることが出来ない月夜を庇って、ウィンは雪まみれになっただけなのだが。

 それでも二人が巻き込まれたことには違いない。

「……」

 桜華とユリウスは再び、深いため息を付いた。

 と同時に、次第に胸の中に怒りがわき上がってくる。

 ――と、言うことは。と言うことは何、私達はこんな下らない言い争いで、せっかくのいい雰囲気を台無しにされたわけ?

 桜華のその想いは、恐らくユリウスも同じ……いや、ユリウスの方が更に強かったであろう。

 二人は再び同時にゆら~っと顔を上げた。

「ユ、ユリウス?」

「お姉……ちゃん?」

 ハタと気づいたウィンと月夜がそれぞれ冷や汗をかきながら言う。

 傍目からでも、二人の体からオーラが立ち上っているのははっきりと見えた。

「……」

 シオンが諦めの境地、という顔をしてため息を付く。

 そもそも、原因を作ったのは陽南海とキッド、それに自分である。

 それがウィンや月夜をも巻き込む騒ぎに発展したときから、彼は既に覚悟を決めていた。

 しかし、せめて陽南海だけは……

 その一心が、シオンの口を開かせる。

「す、すまんユリウス。オレは何をされても構わないが、陽南海だけは……」

 しかし。

 それを言った瞬間、桜華がえ?という表情を浮かべた。

 そしてすぐに、彼女は笑い出す。

「やだ、何考えてるのよシオン。違う、大丈夫よ。私達別に、陽南海とキッドにお仕置きしよう、なんて思ってないわよ。……ねえ?」

 桜華の言葉に、ユリウスも頷く。

「悪意があってのことならともかく、これは単なるケンカでしょう。巻き込もうと意図して大騒ぎを起こしたわけでもありませんし、お仕置きの必要はありませんよ。……ただ、ね」

 と言って、二人は笑いあう。

「?」

 シオン達が不思議そうな顔をしていると、ユリウスが言った。

「……故意にではないにしろ、否応なく巻き込まれたのは確かです。なのに、このまま黙ってみているテはないでしょう?」

「え……?」

 月夜が聞き返すように桜華を見つめる。

 桜華は笑いながら頷いた。

「そう、私達もついでに参加しちゃいましょうってこと。この年になって雪合戦なんて、そう出来る事じゃないもの。この際だから思いっきり参加しちゃいましょうよ。……ウィン、月夜についててやって。この子一人じゃ何も出来ないから」

「あ、あ……は、はい」

 呆気に取られながら、思わず素直に頷いてしまうウィン。

「シオンは陽南海さんが戻ってきたら彼女に。聖君はキッドについてあげてください。あの二人にはセーブする誰かが必要です」

「あ、ああ」

「うん、わかった」

 とそこへ、相も変わらず雪玉をまき散らしながらキッドと陽南海が戻ってきた。

「このっ……ちょろちょろしないでよっ、当たらないでしょ!」

「馬鹿ヤロー、なんでわざわざ当たってやんなきゃなんねーんだよっ!!」

「……準備はいい?」

 その二人を見つめながら、桜華が言う。

「……」

 4人が一斉に頷いた。

「では行きますよ。……GO!」

 ユリウスの一声で、その場にいた全員がキッド達めがけて走り出した。

「えっ……?」

「な、なんだ?」

 やっと異変に気づいたらしい二人が思わず立ち止まる。

 と、間髪入れずにウィンの雪玉が二人に炸裂した。

「きゃあっ!」

「うわっ!!」

「あっ、キッド!」

「陽南海!」

 聖とシオンがそれぞれ二人の元へ駆け寄る。

 そして庇うように前に立ちはだかり、素早く事情を説明した。

「ぜ、全員参加ぁ?」

 思いもかけぬ展開に、思わず絶句してしまう二人。

 が、元々がお祭り騒ぎ大好き人間の二人である。

 あっと言う間に乗り気になると、二人はそれぞれターゲットを変更した。

「頑張ろうね、シオン!」

「ぼけっとすんじゃねー、危ねーだろ、聖!」

 その瞬間、既に二人の頭からはいざこざなど綺麗サッパリ忘れ去られている。

 シオンの思惑とは違った方法で、だったが、ユリウスは見事にケンカを仲裁したわけである。

 しかも自分たちの仕返しもできる、と言う周到の良さだ。

 さすがダルスのリーダーをしているだけはある。

 思わず妙なところで感心してしまうシオンだった。

「ほらぁ、ぼーっとしてないでよシオンっ!みんなに負けちゃうよお!」

「あ、ああ、すまん」

「ほら、月夜、気を付けて!……こらっ、キッド!オレは構わないけど月夜は狙うなよ!」

「ばぁか!誰がんなとろいヤツ狙うか!お前ぇこそ、もっとちゃんと庇ってやれよ!さっきからコケてばっかじゃねーかよ!」

「陽南海、キッド!油断してると遠慮なくぶつけるわよっ!」

「きゃーっ、お姉ちゃん、痛い痛いーっ」

「ユリウス!何のんびり笑いながら猛烈なスピードで雪玉作ってんだよ!お前ぇーらタッグなんか組みやがって、ずりーぞ!……おい、聖!オレたちも反撃だ!」

「キッド!そんなに慌てたら危ないよ!……あぁもう、言わんこっちゃない。そんなに慌てなくても大丈夫だよ」

「陽南海、もっとちゃんと狙いを定めろ。そんなにのべつまくなし投げても雪玉を無駄にするだけだ。こちらに気づいていないヤツを狙えば良いんだ。……だからと言って大声で叫んでから投げたら一緒だろう、まったく……」

「ウィ、ウィン~、ちょっと待っ……きゃあっ」

「月夜!大丈夫、慌てなくていいからゆっくりついておいで。君がオレがちゃんと守って上げるから。……ね?」

「あ~~~~っ!!陽南海っ、てめ、聖に当てやがったなーーーーっっ!!」

「ふんっだ、ぼーっとしてる聖が悪いのよっ!……きゃあっ」

「陽南海こそ後ろには気を付けなさい!」

「お、お姉ちゃんのイジワル~!」

 ……そりゃもう大騒ぎである。

 その喧噪は幸いにも雪崩は呼ばなかったが、周囲を震わせ、雪山の片隅に隠れている小動物達が驚いて飛び出してきたほどだ。

 しかし、その中には、聞く人間全てを幸せにするような光が輝いていた。

 大勢の仲間と叫びあい、笑いあい、遊びあう。

 もしかしてそれは、とてつもなく簡単で、そして誰もが忘れてしまった、一番大切なことなのかも知れない。

 それほど、今の彼らの顔は幸せそうに輝いていた。


「……」

 ズズ~ッ。

――ところで、ここは神殿の内部、ある一室。

 鈴原夫妻に割り当てられた静かな部屋である。

 暖房が行き届いた暖かいこの部屋でゆったりとくつろぎながら、二人は仲良く窓際に立ち、仲良く湯呑み茶碗を持って仲良く外を見つめていた。

 やがて一年がのんびりと言う。

「……平和、だな」

「そうですね、あなた」


 ――ここはクレセント・ノーブル。

 沈まぬ太陽を持つ白夜の国……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る