第11話 聖前夜(イヴ)に降る雪

――雪は神様の贈り物。

すべての地に降る、

「愛」という名の涙のしずく。

辛いときには雪をみつめて。

悲しいときには空を見上げて。

神様の涙を受け止めてごらん?

きっと、心があたたまるから。

……雪降るすべての街角に、

この想いが届きますように――。


――Opening――


「……何とか、夜になる前に着きましたね」

 夕暮れ。

 空が一面ピンク色に染まる雪景色の中、広大な雪原にポツポツとまばらに民家が建つ村の入り口で、ユリウスが安堵のため息を付いた。


――ここは氷河がその領地の30%以上を占める氷河の国ラヴィリスカ。

 幻地球でも高位とされる聖大神の一人、雪と氷河の女神ラヴィーナを主神とする広大な国である。

 聖大神を奉る神殿は、現地採用の地方ガーディアンではなく、中央で特別な訓練を受けた精鋭、中央ガーディアンが護衛の任についている。

 同じく中央で訓練を受けていたダルス隊の面々は、身分を悟られる怖れのある大神殿を避け、都市部からとある村へとやってきたところだった。

 ラヴィーナ神を奉る大神殿から遠く離れた辺境の地。

 目指すその神殿には、ラヴィーナの18番目の子で氷河の凍結を司る雪神リディニークが、ガーディアンも置かず独りで住んでいる筈だった。

「それにしても、本当に何もないところねぇ……」

 桜華が呆れたように言いながら、辺りを見回す。

 入り口と言っても、そこは細い板きれの標識がお義理に立つだけの何もない広大な雪原。

 一体どこからが村でどこからが外なのか、それさえもわからないほど、見渡す限りにあるのは雪・雪・雪。

 辛うじて周囲に立つ森の木々も樹氷で完全に白く化粧されていて雪原と一体化して見えるほどだ。

 一転、村があるという方向へ目を向けてみても、針葉樹の合間に覗く民家らしき影は遠くに霞み、その窓から漏れているのであろうオレンジ色の光が辛うじてその存在を証明している。

 ただ、彼らが来た方角から標識を通ってついているシュプールだけが、ここに人の出入りがあることを教えていた。

「ここは元々、氷河を移動して歩く遊牧民達の補給基地のような村で、住む人間もごくわずかなんです。もっとも、今の時期はちょうど遊牧民達の移動時期ですから、シュプールも都市部からくっきりついていましたし、ラッキーでしたね」

 標識の向こうへ一直線に続くソリの跡。

 『ヨック』と呼ばれるスノーモービル型の物でカヌーのようなソリを引っ張るこの乗り物は、この地方の遊牧民言語で『雪上の船』という意味があるらしい『アス・ラ・クル』と呼ばれるソリで、この地方でよく用いられている。

 このアスラクルはヨックに乗る人間の魔力を動力源とし、その魔力が強ければ強いほど、幾らでもスピードを出せる為、ダルス隊は一般人ならゆうに半日はかかる道のりをわずか6時間弱で走りきっていた。

 と、鈴原夫妻と聖を乗せてアスラクルを引っ張っていたキッドが、イライラしたように言う。

「おい、んなトコでなごんでねぇで、とっとと神殿さがそーぜ。ぼやぼやしてっと、あっと言う間に日が暮れちまう」

 ダルス隊で唯一魔力が無く、月夜、桜華と共にアスラクルに乗っていたウィンが頷いた。

「そうだな、日が落ちると急に冷え込むし、そろそろ寒くなってきたよ。神殿まではまだ少しあるし、急いだ方がいいんじゃないかな」

「そうですね、では、行きましょうか」

 ユリウス達がスッと目を閉じて軽く精神を集中させると、アスラクルはまるで本当に船が水上を滑るように、音もなく雪の上を滑り始める。

 僅かな振動さえなく、ただ過ぎ行く風が頬に当たる中、一行は村の中央にあるという神殿へ向かった。



――雪神リディニーク――


「よお、よく来たな」

 そう言って月夜達を出迎えたのは、21、2才くらいの年若い青年だった。

「話は天界(うえ)の奴らから聞いてるよ。……ま、ご覧の通り、ここは何もない、静かだってのだけが取り柄みたいな辺鄙な村だけどよ、その分、村の奴らみんな家族みてーなモンだからさ、ゆっくりしてってくれよ」

 氷河色の長い髪、銀色の瞳。190㎝を越える長身で、雪の国の住人とは思えないほど健康的に、逞しく引き締まった肉体。

 冷たく輝く瞳と大柄な体は冷徹さを感じるほど威圧感に満ちているのに、その口から出る言葉は気さくで、暖炉に灯る炎のように暖かい。

 容姿と言葉遣いのあまりのギャップに、月夜達が思わず呆然としていると、青年はその沈黙を別の驚きによるものと勘違いしたようで、苦笑しながら肩を竦めた。

「悪ぃなあ、ほんとに何もねぇ神殿でよ。ここは住んでる連中も少ないし、こんな辺鄙な村の神殿まで来ようなんて物好きな参拝者もいなくてよ、オレが無理言って小さくしてもらったんだよ。こんだけ小さけりゃ、ガーディアンの連中が守る必要もなくなるだろうしな」

 確かに、この神殿には中央ガーディアンも地方ガーディアンの姿も見えなかった。

 大体、ガーディアンがいないらしい、という情報を聞いたからこそ、月夜達はこの村へやってきたのだ。

 青年は笑った。

「……ほら、こんな辺鄙な村の神殿にガーディアンを住まわせるってのも、なんか気の毒だろ?ここに他の目的があって住んでる村の連中はまだしも、それ以外の奴らにとっちゃ、ここは何もない退屈なだけの村だしよ。……それに第一、オレも一応れっきとした神様ってヤツだからな」

 その言葉に、月夜がハッと顔を上げた。

 応えるようにユリウスがゆっくりと頷き、一歩前へ出る。

「……この度は宿泊の許可を頂き、誠にありがとうございます。雪と氷河の女神ラヴィーナの子、氷河の凍結を司りし雪神リディニーク様」

 こ、これが?

 月夜は思わず目を疑った。

 この年若い青年が、本当にこの村の神殿の主、氷河の凍結を維持する雪神、リディニーク?

 と、青年が慌てて手を振った。

「お、おいおい、やめろよ、そんなたいそーな挨拶は。オレ、そーゆー堅っ苦しいの苦手なんだよ。だから上の連中にもよく怒られるくらいでさ。……お前らのことも、散々言われてきたんだぜ。この間、天界の連中に呼びつけられてさ、どうやら創造神様がこの村においであそばすらしいから、ご無礼のないように重々注意しろって。……まったく、オレのこの性格でンなこと出来るかっつーの。いくら自分たちが思うように下界に降りれないからって、無理な注文だぜ、ったく。――で?その肝心の創造神様ってのは、一体どのお嬢さんなんだ?この世界の全てを創り賜うた、いわばこの世界の母たる神様なんだから、よっぽど威厳に満ちた高貴なお嬢さんなんだろうな?」

 キョロキョロと辺りを見回す青年――リディニーク。

 もちろん、その視界に月夜は入っていない。

「あ、いえ、それがその……」

 ユリウスの言いにくそうなその台詞に、ダルス隊と鈴原一家の視線すべてが月夜に集中した。

 リディニークもつられてその視線を追う。

 そして。

「え……」

 時が、止まった。

「――勘弁しろよ……」

 リディニークが信じられない、と言う顔をしながら月夜を見つめる。

 月夜は、困ったように曖昧に微笑みながら言った。

「……初めまして、リディニーク。逢えて嬉しいわ」

「……!!」

 その瞬間。

 リディニークからお気楽さが消えた。

 フッと真面目な顔になった彼から、突然すさまじい魔力――凍てつく冷気が吹雪となって迸る。

「な……リディニーク様、何を……!!」

 驚いたユリウスが慌てて近寄ろうとするが、リディニークの体から吹き出す強大な魔力が、そんな彼を一瞬ではじき飛ばしてしまう。

「ユリウス!」

 ドン!と強く押された形で吹き飛ばされたユリウスを咄嗟に背後から抱き止めたウィンが、リディニークを振り返った。

 その凄まじい魔力を迸らせる先には、脅えたように立ちすくむ月夜がいる。

「……月夜!!」

 たとえどんなに気さくな性質を持っていようと、相手は紛れもなく自然現象を操るほど強大な力を持つ『神』。

 目を見開いて事の成り行きを見守るしかないダルス隊と鈴原一家の前で、リディニークは少しずつ月夜に詰め寄っていった。

「あ……」

 恐怖に凍り付く月夜。

 追いつめるようにゆっくりと近づいてくるリディニークは、さっきとは人が変わったような冷たい目つきをして、何の表情も浮かばない顔でじっと月夜を見据えている。

 しかし、その瞳の奥にどこか探るような光が宿っているのを見つけた月夜は、彼が自分を試そうとしていることを知った。

「い、や……!」

 自分が他人からどう見えるかは、よく知っている。

 ぼんやりしていて、危なっかしくて、一人にはしておけない頼りない少女。

 その体のどこかに強大な『神』としての力が眠るなど、到底信じられるものではないだろう事も、よく分かっている。

 でも。それでも、彼女が神の力を持っていることは紛れもない事実。

 しかも月夜は未だに意識を保ったまま力をコントロールすることが出来ないでいた。

「だめ……やめて……!!」

 もし、今この力が発現したら。

 私はまた、意識を失ってしまう。

 私が持つ『神の力』。

 それは、一歩間違えばこの世界その物を消滅させてしまう『滅びの力』。

 月夜は知らず知らずのうちに言葉を紡いでいた。

「――やめて下さい、リディニーク。私は未だ、力を使いこなせてはいません。あなたが私を創造神と認めないなら、それでも良い。認めなくて良いから、お願い、もうやめて……私はあなたも、この神殿も、誰も傷つけたくはないんです……!!」

 今にも泣き崩れんばかりの形相で訴える月夜。

 しかし、その表情の中には既に『恐怖』の影がないことを、彼女は自覚しているだろうか。

 今、彼女の全てを支えるもの。

 それは『誰も傷つけたくない』という強い想い。

 その心が、彼女の顔から恐怖の色を拭い、代わりに何か威厳さえ感じられる風格が彼女全体を包み込んでいた。

「……」

 リディニークの瞳が、ふっと緩んだ。

 と同時にその体から放出されていた強大な魔力が、一瞬にして消え失せる。

 弾かれたようにダルス隊が月夜を取り囲む中、リディニークは穏やかに、すっ――と跪いた。

「リ……?」

 戸惑ったように言う月夜。

 と、リディニークは俯いたまま、言った。

「ご無礼を致しました、我らが母なる存在(もの)よ。このリディニーク、今、確かにあなた様の真なる御力を感じました。――ようこそ、我が神殿へ。どうぞごゆるりとおくつろぎ下さいますよう、我らこの村に住む全ての生命の代表として、心より歓迎いたします」

「リディニーク……」

 月夜が呟いた。

 目の前に跪き、微かに脅えてさえいるように体をこわばらせるその青年の肩に、月夜はそっと触れる。

 ぴくっ、と、リディニークの体が微かに震えた。

 月夜は微笑む。

「……顔を上げて下さい、リディニーク。私も堅苦しい挨拶は苦手。だから、さっきみたいに普通にして下さい。……ね?」

「創造神様……」

 ゆっくりと顔を上げるリディニーク。

 彼の前に膝をつき、同じ目線で微笑みを浮かべると、月夜は彼の唇にそっと指を押し当てた。

「私は月夜。今は、お忍びの旅の途中。だから、創造神様なんて呼ばないでください。月夜でいいです。みんなにも、そう呼んで貰ってるから。ね」

「……わかりました」

 にっこりと笑うリディニーク。

 途端にその冷徹な表情が春の陽射しのように暖かく和らぎ、気さくで陽気な彼の雰囲気に、月夜は一瞬顔を赤らめる。

「……」

 その後ろには、自覚はないのだろうが端から見ると明らかにむすっとした表情を浮かべるウィンがいて、それを見てくすくすと笑う桜華や陽南海の姿がある。

 と、その時、微かに目を伏せてもじもじしていた月夜が、くしゅん、と小さくくしゃみをした。

「お……っと」

 リディニークが気づいたように言う。

「オレとしたことが、こんな寒い中に立ちっぱなしにさせて……さあ、遠慮なさらず中へお入りくださ……っと違う、遠慮しないで中へ入ってくれ、案内しよう。――月夜、こちらへ」

「え、あ、はい、あの……」

 驚く月夜の戸惑いを無視し、リディニークは彼女の手を取って中へ入っていく。

 ウィンの表情が更に悪化したことは、言うまでもなかった……。


――――――


「ねえねえ、お姉ちゃん」

 リディニークに案内されながら神殿を歩いていると、陽南海がつんつんと月夜の背中を突っついた。

「なあに?陽南ちゃん」

 月夜が振り返ると、陽南海はその耳元に口を寄せ、こそこそっと呟く。

「……なんか、神殿って感じしないねぇ、このおうち」

 陽南海の言うとおりだった。

 中央にエントランスを挟み、両側の壁に暖炉の煙突がある煉瓦作りの洋館。

 その内部は廊下には柔らかな絨毯が敷かれ、淡いクリームイエローの照明が照らし出す部屋はオーク調の家具でまとめられてポプリの甘い花の香りが部屋を満たしている。

 今まではずっと、『一人で部屋を出たら絶対に迷子になっちゃうよね』という大神殿ばかりに泊まってきた月夜達一行にとって、この神殿はどちらかと言うと『ちょっと立派なお屋敷だよね』としか思えない造りの建物だった。

 と、その声が聞こえたのか、リディニークが振り返る。

「あぁ、オレ苦手なんだよ、あーゆー仰々しい神殿て。大理石ばっか使ってっから寒々しいし、実際冷えるしさあ。大体、ここは他の神殿と違って実際にオレが住むための神殿だろ?だから、見かけとか威厳とかよりオレ自身の好みを重視させてもらったんだよ。……なかなか、イイ感じだろ?」

 どこか自慢げに言うリディニーク。

 月夜と陽南海は頷いた。

「うん、そうだよね」

「こっちの方が、なんだか落ち着くよね」

「だろ?」

 嬉しそうにそう言って、リディニークはあるドアの前で立ち止まった。

「さて、今までの部屋はたまにくる観光参拝者とかこの村の連中と茶ぁ飲むための部屋だったけど、こっから先、階段上ったら二階は全部プライベートスペースだ。他の兄弟神たちが遊びに来ることもあっから、一応部屋数は6、7は用意してある。二人一部屋なら何とかなるだろ。オレの部屋は廊下の突き当たり、一番奥の部屋だから、それ以外の部屋は自由に使ってくれて良いぜ」

「はい、ありがとうございます、リディニーク様」

 ユリウスが頭を下げると、リディニークはふと気づいたように言った。

「……あ、ところでお前ら、食事はどした?都市部からここまで、ぶっ通しで来たんだろ?もしかして、何も食ってねぇのか?」

「ええ、都市部を出発したのがお昼頃でしたから、その時に昼食は済ませましたが、それから先は何も……ですが未だ深夜というわけでもありませんし、これから外へ食べに行こうかと……」

「おいおい」

 リディニークが呆れたように言った。

「お前ら、大神殿に泊まってたんだろ?いつも、んなビジネスホテルみてーな泊まり方してたのかよ?食事なら用意すっから、一緒に食べようぜ。相手が誰であれ、この神殿に泊まる客を外に食べに行かせるわけにゃいかねーよ。……ちょっと待ってろ。すぐ用意させっから」

「他にだれかいるの?一人で住んでるんでしょう、リディ?」

 月夜の質問に、リディニークは笑う。

「そりゃ下男と家政婦ぐらいはいるさ。通いのだけどな。――そうそう、簡単なティーセットぐらいなら部屋にあるから、準備が出来るまでゆっくり茶でも飲んでてくれ。またあとで呼びに来る」

 そう言って、リディニークは一人階下へと下りていった。

「……それでは、お言葉に甘えて部屋で休ませていただきましょうか」

 ユリウスの言葉に、それぞれ頷いて部屋へと入っていく。

 桜華に続いて部屋に入った月夜は、はふ、とため息をついた。

「……疲れた?」

 桜華が気遣わしげに尋ねる。

 月夜は曖昧に微笑んだ。

「ん、ちょっとだけ……。ねえ、お姉ちゃん」

「なに?」

 決して冷めることのない文字通り『魔法の瓶』から熱い紅茶をカップに注ぎながら桜華が返事をすると、ベッドに腰掛けた月夜は再び小さくため息を漏らす。

「私、なんだか変なの。ここへ来た時はそんなことなかったのに、最近、気がつくとね、いつも元の世界とこの世界を比べてるの。……何だか、疲れちゃった」

「……」

 紅茶の入ったカップを手渡しながら、桜華は微笑んだ。

「そうね。私達、やっと慣れてきたところだものね。今までは、幻地球っていう異世界に慣れるのに必死で見えてなかったもの、気づかなかったものが、この世界に慣れて落ち着いてくるに従ってだんだんと見えてくる。――でも、そのせいでギャップもはっきりしてくるからね。だから疲れるのよ、きっと」

「……うん」

 カップを受け取り一口すすった月夜は、その熱さに顔をしかめて脇へ置くと、膝を抱え込むように顔を埋めた。

「……本当はね」

 俯いたまま、くぐもった声で月夜が呟く。

「本当は、こんなこと言ってちゃいけないんだって、わかってるの。私は旅をしてるだけ。ダルスのみんなは、いつだって周囲に気を配って私達を守りながら旅してて、きっと私なんかより何倍も疲れてるはずだもの。だから、こんなこと言ってちゃいけないっていうのは、よくわかってるの。でも……」

「月夜……」

 そんなことはない。

 桜華は知っていた。

 目の前に座る妹が、いつだって脅えていることを。

 自分の中に眠る『創造神の力』。

 あると聞かされただけならともかく、実際に何度となく発現してきた『滅びの力』。

 それを自覚し、絶えず心の不安につきまとわれているのだろう月夜にとって、この旅は『ただ旅をする』というほど生易しいものではない筈だった。

 ほんの僅かずつ、気が遠くなるほど少しずつ、けれど確実に近づく東の果て。その先にあるもう一枚の『扉』。

 それに比例して次第に大きくなっていく自身の力に、この優しい妹が脅えないわけはないのだ。


――ただ旅をしているのは私達だけよ、月夜。


 見ているだけで、何もしてやることが出来ない。

 この時ほど、それが悔しく思えたことはなかった。

 自分で創りだした世界とはいえ、今の幻地球は月夜の想像の中にあっただけのものとは違う。

 現実に人が暮らし、魔物が暮らし、時が流れる幻地球で『創造神』と呼ばれることのプレッシャーはどれほどのものだろう。

 見知らぬ世界に迷い込み、戸惑い、驚いているのはみんな一緒なのだ。なのに、一人だけそんな重圧に必死になって耐えている妹に、しかし自分たちは何もしてやることが出来ない。

 それが、歯がゆかった。

「ねえ、月夜――」

 桜華が何か言いかけた時だった。

 トントン、と軽いノックの音が響いて、外からリディニークの声が聞こえてきた。

「……ちょっといいか?着替え持ってきたんだけど」

「着替え?」

 服なら、全員しっかりとした防寒服を着込んでいる。

 別に水に濡れたわけでも、泥に汚れたわけでもないのに、何故に着替え?

 桜華が訝しげに首を傾げながらドアを開けると、リディニークが両手にそれぞれ一着ずつ抱えながら立っていた。

「着替えなんて、必要ないですけど」

 開口一番そう言い切った桜華に、リディニークは苦笑する。

「いきなりキツいこと言うなぁ。――そう言わずに、折角持ってきたんだから見るくらい見てくれよ。別に金取ろうとか恩きせようとか思ってるわけじゃないんだからさ」

「……」

 桜華が渋々服を受け取ると、リディニークは月夜にちらっと視線を投げる。

 月夜はベッドに腰掛けたまま、どこか虚ろにじっと俯いていた。

「……」

 リディニークは、一瞬何事か考え込むような表情を見せた。

「まだ、何か?」

 桜華がイライラしたように言う。

 と、リディニークは顔を上げ、にっこり笑った。

「?」

「食事、用意できたぜ。他の連中にも言ってきたから、それに着替えて下りてきてくれ。……じゃ」

 そう言ってリディニークは戻っていく。

 それを見送り、手に持った服を一瞥すると、桜華は振り返った。

「……どうする?月夜、これ」

 桜華の問いかけに、月夜は微笑む。

「いいんじゃない?せっかく、持ってきてくれたんだし。着てみようよ、お姉ちゃん」

「……ま、あんたがそう言うんなら……」

 桜華は手に持った2着の洋服を見比べつつ、渋々と頷くのだった……。




――パーティ・イヴ――


「わあっ、お姉ちゃん可愛いー!サンタガールみたい~!」

 リディニークに渡された洋服を着て月夜が下りてくると、陽南海が歓声を上げた。

 月夜が着ているのは、スカートの裾が柔らかに広がる可愛らしいワンピース。

 鮮やかな赤い色をしたそれは袖口の部分と肩を包むケープの裾の部分、それにスカートの裾に白いふわふわの飾りがついていて、黒いベルトがウエストをきゅっと締め、上半身の前身頃には黒いボタンが何個か縦に並んで付いている。

 履いているのはこの国で調達した革のロングブーツで、その外見は、なるほど陽南海の言うように、デパートの前でケーキを売っていそうなサンタクロースの格好をした女の子、という風情が漂っていた。

「……お、おかしい?」

 食堂の入り口で立ち止まった月夜が、不安そうに尋ねる。

 と、その月夜をエスコートしようと、ウィンが近づいてきた。

「……ウィン」

 心配そうに見上げる月夜。

 ウィンは小さく首を振ってにっこりと微笑んだ。

「よく似合ってるよ、月夜」

「ほんと?」

 ほっ、と安心したように息を吐く月夜。

 と、そこへ四季子と一年が少し遅れて入ってきた。

「あら、みんな、もう集まってたの?遅れちゃいましたね、あなた」

「ああ。待たせて済まなかったね――おや、これはまた随分と可愛らしい服を着ているな月夜」

 一年が、ウィンに付き添われて席に着こうとしていた月夜に目を留めて言う。

 四季子もにっこりと笑った。

「ほんとね。まるでクリスマスパーティみたいよ、つーちゃん」

「――クリスマス?……って何だ、聖?」

 既に席に着いていたキッドが、不思議そうに尋ねる。

 聖はキョトン、とした表情を浮かべた。

「何って……知らないのか?キリスト誕生を祝うお祭りじゃないか」

「キリスト?誰それ」

「誰、って――」

 呆れたように絶句する聖。

 と、月夜が苦笑した。

「ひぃくん、ここは異世界よ。キリストなんているわけないでしょう?」

「あ……」

 ぽん、と納得したように手を打つ聖。

 そう、この幻地球にはキリストも聖母マリアも存在しない。

 だからダルス隊の面々はクリスマスもクリスマスパーティも知らないのだ。

「あのね――」

 不思議そうに首を傾げているキッドやダルスの面々にクリスマスのことをかいつまんで説明する月夜。

 現実世界と違い、神という存在が抽象的なものではなく、実際に力を行使しているこの幻地球で、彼らがどれだけキリストのことを理解できたかはわからなかったが、説明を受けた一同はなるほど、と頷いた。

「ということは、マスターの世界では冬にパーティを開くのが習わしなのですね?」

「そんな大仰なものじゃないけど……そうなるかな」

 ちなみに、幻地球には現実の世界のような「12ヶ月」ときっちり決められた「暦」の概念はない。

 季節がちょうど一巡りする頃に、現実世界で言うところの正月のようなイベントがあるから「年」の概念はあるようだったが、あとの「月」に相当する暦はそれぞれの国によってまちまちだった。

 それでも国同士に混乱が起きないのは、国間の連絡が、現在は中央組織を経由して行われているからだった。当然、中央組織とそれに付随する神殿では、すべてが同じ暦を利用している。

 つまり、国によって違う暦を、中央組織を経由させることによって共通化させているのだ。

「……面白そうな話だな」

 と、そこへリディニークが入ってきた。

「リディ」

「悪い、ワイン選んでたら遅くなった。……で?そのクリスマスってのは、何か特別なことでもするのか?」

「え、ううん。普通のパーティと同じよ。あ、ただね、ツリーを飾るの。クリスマスツリーって言って、モミの木にビロードの赤いリボンだとか、クッキーが入った小さいブーツだとか、ポプリを詰めた魔法のステッキだとか飾ってね、部屋に置いておくの。てっぺんには、お星様のオーナメントを飾るのよ」

「ふうん」

 リディニークは興味深げに聞き入っている。

「……それで?」

 その真剣な表情に引き込まれるように、月夜の説明にも熱がこもっていった。

「うん、それでね、お料理には、普通は七面鳥を使うの。でも、外国はそうなんだけど、うちは普通のチキン料理だったな。それからね、クリスマスケーキもあるの。って言っても、普通のデコレーションケーキなんだけど。でもね、それをパーティの最後にみんなで食べるの。それにね、ほんとは陽南ちゃんとひぃくんはまだいけないんだけどね、クリスマスだけはみんなでシャンパンを飲むのよ」

「へえ……で?それって今頃の時期にやってるもんなのか?」

「ん~、はっきりしたことはわからないけど、冬なのは確かよ。……そう、あのね、クリスマスの日に雪が降るとね、ホワイトクリスマスって言ったの。別に、何がどうなるわけでもなかったんだけど……何か、特別な気がするんだよね」

 月夜が呼びかけると、桜華と陽南海がうんうん、と頷く。

 それを見て、リディニークはよし、と膝を叩いた。

「リディ?」

「それ、やろうぜ、月夜」

「……え?」

「だから、そのクリスマスパーティとやらだよ。今日、今からはちょっと遅いから、明日にさ。明日の朝から大急ぎで準備すりゃ、夜までには間に合うだろ?……どうだ?」

「賛成!」

 即座に、陽南海が立ち上がった。

「やろうやろう!ちょうど雪も降ってるしさ、ホワイトクリスマスでいいじゃん!飾り付けは?ツリーもやるんでしょ?お料理は?音楽とかも欲しいよねっ。CDないし、音楽隊ってわけにはいかないだろうけど、何か賑やかな音楽があるといいな。あと、ケーキ!ケーキは絶対だよ、クリスマスケーキがないクリスマスなんて認めないからね!それから……あ、プレゼントどうしよう。この村、可愛いお店とかある?そしたら、明日早速買いに行かなくちゃ……」

 よほど嬉しかったのか、熱にうなされるようにぺらぺらとしゃべり続ける陽南海の腕を、隣りに座っていた桜華が引っ張る。

「ちょ……落ち着きなさい、陽南海。まだ、やるって決まったわけじゃないんだから」

「お?なんだ、あんたは反対なのか?」

「別に」

 リディニークの問いに、桜華は素っ気なく応じる。

「私はどっちでもいいわ。みんながそうしたいなら、すればいいし。やるっていうなら、ちゃんと手伝うわよ」

 その、とりつく島もないような言い方に、リディニークは一瞬ムッとした表情を浮かべた。

 が、何を思ったのか彼はふっと肩を竦め、そのまま視線をユリウスに向ける。

「……お前の意見は?」

「そう、ですね……」

 ユリウスは、少しの間考え込んだ。

 うつむき、伏せた睫毛の間からそっと鈴原一家の様子をうかがう。

 そして、彼はにっこりと微笑んだ。

「お言葉に甘えさせていただきますリディニーク様」

 ユリウスの言葉に、リディニークは満足そうに頷いた。

「で、お前らは?誰か反対するやつはいるか?いないんだな?……よし、それじゃ決まりだ。――とは言え今日はもう遅いから、準備は明日からにして今日はゆっくり休んでくれ。……じゃ、食べようぜ」

 チリンチリン、とリディニークが呼び鈴を鳴らすと、ワゴンに料理を乗せた侍女達が数人入ってくる。

 その内の一人のメイドに、リディニークは声をかけた。

「悪いな、遅くまで」

「まあ」

 リディニークが言うと、そのメイドはくすくすと笑う。

「どういう風の吹き回しですか?いつもはそんなこと言ったことないのに。……大丈夫、あなたの頼みを断ったなんて言ったら、逆に叱られますもの。――みなさん、ようこそいらっしゃいました。ご覧の通り、この村は何もない辺鄙な村ですけれど、村の人間みんな、皆さんを歓迎してます。どうぞ、ゆっくりなさってってくださいね」

「……ほんとに慕われているのね、リディ」

 部屋を出ていくメイドを見送りながら月夜が声をかけると、リディニークは僅かに顎を上げた。

「当然だろ?こんなに優しくて気さくないい男、滅多にいないぜ?自慢じゃないが、オレは村中の娘達の憧れの的なのさ」

 いかにも自慢げに言うリディニークに、月夜は苦笑する。

「リディったら……私、実際に神様が住んでるんだって聞いて、結構緊張したのよ。でも、あなたみたいな神様で良かった。あなたに逢えて、ほんとに嬉しいわ、リディ」

「これはこれは、我らが母なるものに私ごときがお褒めの言葉を頂くとは、なんともったいない。このリディニーク、光栄の至りにございます」

 リディニークが、おどけた調子で片手を胸にあて、軽くお辞儀をする。

 月夜はおかしそうにくすくすと笑い声を漏らした。

「……」

 そして、そんな二人の光景を見ながら、ウィンはひそかにぐっ、と拳を握り固め、唇を噛みしめていた……。


――――――


 バタン!と大きく扉が開かれた。

 広間で飾り付けやらテーブルセッティングやら、クリスマスパーティの準備をしていた全員が一斉に振り返る。

 と、そこには鉢植えにされた大きな針葉樹を両際から抱える、一年とウィンの姿があった。

「あ、お帰りなさい!」

 シオンと共に部屋の飾り付けをしていた陽南海が、振り返って目を輝かせる。

「わぁっ、おっきなツリー!……こんな大きいの掘ってきたの?」

 ウィンの背丈より30㎝くらい高いその針葉樹は、形も枝ぶりもクリスマスツリーに使うモミの木によく似ていた。

 ここは北の国、針葉樹はそこかしこに掃いて捨てるほどあるが、それでもたった一夜限りのパーティで伐採してしまうのは忍びなくて、一年とウィンは手頃な木を掘り起こし、鉢に植え替えて運んできたところだった。

 玄関で払い落としきれなかった枝に残る雪が、広間の暖炉の火に溶かされ、ぽたぽたと滴を落としている。

 真っ赤な顔をして息を切らす一年とウィンが、ツリーを広間のちょうど中央に据えると、部屋の中は一気にクリスマスらしい雰囲気に満たされた。

「……お疲れさまでした、あなた」

 料理を作るためにキッチンへ行っていた四季子が、物音を聞きつけて戻ってくる。

 四季子の差し出すコーヒーを嬉しそうに受け取ると、一年はどっかりとソファへ身を沈めた。

「大丈夫?父さん」

 桜華が心配そうに尋ねる。

 一年は笑った。

「心配はいらんよ、少し疲れただけだ。……まだまだ若い者には負けられないと思っていたんだが、さすがに年には勝てないな。掘るのも運ぶのも、半分以上ウィン君に助けて貰ったよ」

「あ、いえオレの方こそ、運ぶ方向とか掘り方とか教えて貰えて助かりました。……あとはオレたちでやりますから、少しお休みになっててください」

「ああ、そうさせてもらうよ」

 一年が満足そうに頷きながら言うと、ウィンはふと辺りを見回した。

「そういえば、月夜は?」

「……あそこよ」

 桜華がため息をつきながら指さす。

 と、そこには、床にぺったりと座り込み、何やら飾りをもてあそんでいる月夜の姿があった。

「……何やってんですか?あれ」

「さあ。一応、飾り付けの手伝いを頼んだ筈……なんだけど」

 壁や天井に飾り付ける金銀の飾りを手にした月夜は、それを陽南海やシオンに手渡すわけでもなく、どこからどう見ても遊んでいる。

 ウィンは微かに苦笑しながら近寄っていった。

「……月夜」

「あ、ウィン!お帰りなさい!」

 顔を上げ、ウィンの姿を目にした途端に、月夜の顔がぱっと輝く。

 その事に内心安堵感を覚えつつ、ウィンはツリーを指さした。

「ほら、ツリー持って帰ってきたからさ。月夜はあれを飾り付けると良いよ。ここはシオンと陽南海ちゃんに任せてさ。……オレも手伝うから」

「うん!」

 嬉しそうに頷く月夜の背に手をあてがい、ツリーまで導くと、ウィンは村で買い揃えたオーナメントの入ったボックスを持ってくる。

 月夜がリディニークに説明したのと同じ、ビロードの赤いリボンや良い香りのする魔法のステッキ、それにどこから見つけてきたのか小さなテディベアや天使、ベルのオーナメントまである。

 衣装ケースほどの大きさの箱に山積みになっているオーナメントを脇に置いて、二人は一つずつをツリーに飾り付けていった。

「……ねえ、月夜」

 パッチワークのテディベアやビロードのベルを飾り付けながら、ウィンが思い切ったように言った。

「なあに?」

 ツリーの枝先にリボンを結びつける手を止め、月夜が顔を上げる。

 と、ウィンはごくり、と唾を飲み込んだ。

「あ、あのさ――」

「……?」

 月夜がきょとん、とした瞳で見返す。

 ウィンは心臓がばくばくと強く脈打つのを感じながら、言った。

「リディニーク様の……ことなんだけど」

「え?」

「あの、その、月夜は……あの方のこと、どう思ってるんだい?」

 昨夜の食事の時から、ずっとくすぶっていた不安。

 頼りなくて危なっかしいが確かに力を有する月夜と、気さくで陽気だが紛れもなく神であるリディニーク。

 力も格も違いながら、けれど少なくとも自分とよりは近い立場にいる二人が会話し、笑い合う光景を見るのは、あまり気持ちのいいものではなかった。

 嫉妬。

 それは紛れもなく、嫉妬の感情だった。――本人は、未だ気づいてはいなかったけれど。

「どう、って……?」

「あの、だから――」

「ウィン!」

 その時、部屋の壁に色とりどりのモールを飾り付けていたシオンがウィンを呼んだ。

「なんだ、シオン?」

「すまんが、こっちへ来て手伝ってくれ」

 陽南海と二人で部屋を飾っていたシオンだったが、さすがにこの広さを二人で飾るのは大変らしい。

 ウィンが困ったように振り返ると、月夜はにっこり笑って頷いた。

「月夜――」

「私なら大丈夫よ、ウィン。ここにあるオーナメントを飾るだけだもの。だから、シオンと陽南ちゃんを手伝って上げて」

「……わかった」

 ウィンは渋々頷いた。

 が、立ち去る間際、彼は振り返って念を押す。

「無理しちゃダメだよ、月夜。手の届かないとことか重いものとかは後で手伝うから、いいね」

「うん」

 ウィンの気遣いが嬉しくて、月夜はめいっぱいの笑顔を浮かべて見せた。

 いつだって月夜のことを何より第一に気遣い、それを押しつけることなく、さりげなく包み込んでくれるウィン。

 彼といる時だけは――たとえ彼のその気遣いが『創造神』としての自分に対するものだったとしても――それでも、ウィンのそばにいる時だけは、自分の力のことも不安からも逃れられるような気がした。


「んしょ、んしょ」

 ウィンが去ってしまうと、月夜は再びツリーの飾り付けに取りかかる。

 ビロードのリボンを結び、天使やベルのオーナメントを枝につり下げ、ちょっと離れてバランスをチェックしながら、魔法のステッキやテディベアを飾り付ける。

 大人の男二人が手を広げてやっと一回りできるほどの大きいツリーの飾り付けは、見た目以上に大変な作業だった。

 加えて、このツリーは広間の中央に置かれるから、どの方向から見てもバランスが取れているように飾り付けなくてはならない。

「……よし」

 360度、全ての角度からツリーの具合を確かめた月夜は、満足そうに頷いた。

 そして、ふと首を傾げる。

「……?」

 何か、忘れている気がする。

 リボンは結んだし、テディベアも天使もベルもステッキも全部飾ったし、えぇと……?

「あ!」

 ふと、何気なくツリーの上を見上げた月夜は声を上げた。

「そうだ、お星様!」

 ツリーのてっぺんに飾る、主役とも言うべき大事な飾り……星のオーナメントが、まだ寂しく箱の隅に眠っていた。

「え、と……」

 高い……。

 月夜はツリーを見上げてため息をついた。

 それはウィンの背丈より30㎝ほど高いクリスマスツリー。

 どう頑張ってみても、月夜が手を伸ばしたくらいでは届かない。

「……」

 どうしようかと振り返ってみても、ウィンはシオンを手伝って脚立に乗り、壁にモールを貼り付けるのに一生懸命になっている。

「……あ!」

 と、その時、月夜の目が広間の入り口で止まった。

 そこには、上に小さな鉢植えが乗ったスツールが置かれている。

「あれ使おうっと」

 月夜が何をしようとしているのかを知ったら、その場にいる全員が彼女を止めただろう。

 が、不幸なことに、他の面々はそれぞれの役割に忙しくて、他の人間の行動を気にかける余裕がなかった。

「んしょ、んしょ」

 広間の中央まで椅子を持ってきた月夜は、上に乗っていた鉢植えを脇へ置き、星のオーナメントを持って椅子に乗る。

「あ、あとちょっと……」

 あと、ほんの数センチでツリーのてっぺんまで手が届くのだが、その数センチがどうしても、遠い。

 上に行くに従って当然細くなっていくツリーの枝につかまるわけにもいかず、必死につま先立ちをして手を伸ばしていた月夜の足下が、突然ぐらり、と揺れた。

「……っ!?」

 知らず知らずのうちに前の方へ寄っていた月夜の重みに椅子がバランスを崩し、ツリーの方へ倒れ込んだのだ。

「……!!!」

 あまりの驚きで声も出ない月夜の体は、椅子が倒れ込んだのとは反対方向……真後ろへ頭から倒れ落ちる。

 ……が。

 その直後に彼女を待っていたのは痛みでも衝撃でもなく、自分をしっかりと支え、抱き止める2本の腕だった。

「……?」

 何が起こったのかわからず、呆然と頭を巡らせる月夜。

 そこには、少しだけ呆れたように片眉を上げ、少しだけ不機嫌そうに口を歪める少年の姿があった。

「キッ……ド……?」

「――なぁにやってんだ、おめー」

 倒れ込んだ月夜の体をお姫様スタイルで抱き止めたのは、それまでは一人、何を手伝うわけでもなく、広間のソファに寝っころがって遊んでいたキッドだった。

 キッドは呆れたように言う。

「あんな不安定な椅子に乗って背伸びしてたら、倒れんのは当たり前だろーが。ほんっっっとに、トロいよな、お前」

「……」

 言い返す言葉もなくて、しゅん、と俯く月夜。

 その時、ふっ、と肩を竦める気配がして、キッドが言った。

「……ほら。寄こせよ、それ」

「え……?」

 きょとん、と月夜が聞き返すと、キッドはそっぽを向きつつ、ぶっきらぼうに繰り返す。

「だから、寄こせよ、その星の飾り。オレが付けるからよ」

「え、あ……手伝ってくれるの?」

「……おめー見てっとイライラすんだよ。ほら、いいから寄こせよ。他に付けるのはねーのか?」

「あ、うん、一応……でも、オーナメント余っちゃったから、他の鉢植えとかにも飾ろうかと……」

「か~っ、めんどーくせーなぁ。で?どれくらいあんだ?」

 ちらっとキッドが視線を走らせたボックスの中には、さきほどではないにしろ、未だ山のように積まれたオーナメントがある。

「……」

 キッドは一瞬絶句したものの、がっくりと肩を落として倒れたスツールを起こした。

「……てっぺんにかぶせりゃいーのか?」

「うん」

 心配そうに月夜が見上げる中、キッドはいとも簡単に飾りをツリーにかぶせ、とんっ、と椅子を降りる。

「で?あとはどこだ?」

「あ、えーと、あそこのおっきい鉢植えと、こっちの小さなのと、あっちの暖炉の上」

「しょーがねーな……でかい鉢植えと暖炉の上はやってやる、おめーはその小さいやつやってろ。……ったく、危なっかしくて、おちおち遊んでもいられねー……」

 盛んにブツブツと呟きながらオーナメントの入ったボックスを抱え上げるキッドに、月夜はにっこり微笑んだ。

「う……なんだよ」

 その視線に気づいたのか、キッドが言う。

 月夜は首を振った。

「ううん、何でもない。……ありがとね、キッド」

「なっ……」

 その瞬間、キッドの顔が首筋まで赤く染まった。

「べっ、別に!オ、オレは別に大変そうだから手伝ってやろうとか危なっかしくて心配だとかウィンのヤローは何やってんだとかお前を一人にするなんてどうかしてるぜとか誰か手伝ってやれよまったくとか、そんなこと思ってるわけじゃねーからな!ただ、ちょっとヒマだったからやってるだけなんだからな!」

 ……マンガのオチみたいな告白である。

 月夜は笑いそうになるのを必死にこらえながら頷いた。

「うん、わかってる」

 でも、ありがとね。

 まだ顔を真っ赤にしたまま、不機嫌そうに顔をしかめながら歩いていくキッドの後ろ姿を見つめ、月夜は再びにっこりと微笑んだ。

 何だか少しだけ、聖がキッドと一緒にいたがる気持ちがわかったような気がする月夜であった。




――聖前夜に降る雪――


「よお」

「リディ!」

 玄関の扉を開け、中に入ってきた人物の姿を見て、月夜が声を上げた。

「どこへ行ってたの?ず~っと帰ってこないから、心配したのよ?」

 とてとてっとそばへ駆け寄り、月夜が尋ねる。

 リディニークは驚いたように眉を上げた。

「心配、って……オレをか?そりゃまた光栄の至りだが……遅くなるってちゃんと言ってったろ?」

「それはそうだけど……でも、出かけたのは朝でしょう?準備が出来ても、食事が終わっても帰ってこないんだもの。何かあったのかな、って思うじゃない」

 ちょっと拗ねたように、僅かに頬を膨らませ、上目遣いに睨む月夜。

 リディニークは苦笑しながらその頭をぽんぽん、と叩いた。

「……悪かったな、お姫様。ちょっと用事があってさ。もっと早くに帰るつもりだったんだが――で?食事は終わったって言ってたな。パーティも終わっちまったのか?」

「ううん。今食事が終わったとこなの。これからキッドが笛を吹いてくれるって言うからね、ちょうどいいからみんな着替えてこようって。……みんな、パーティの準備でおなかすいちゃって、着替える前にお食事すませちゃったから」

「みんな?全員か?」

「うん」

 屈託無く頷く月夜に、リディニークは更に眉を上げる。

「じゃあ、なんで君はここにいるんだ?いくら一般人扱いするって言ったって、君を一人にするなんて……」

「あ、違うのリディ。私も着替えに行こうとしてたの。でも、あなたの声が聞こえたから……」

「!オレを迎えに来てくれたのか」

 じ~ん。

 思わず握り拳を固めて感動してしまうリディニーク。

 密かに内心では『これで天界の奴らに自慢が出来るっ!』などと思っていたりする。

 ふと、リディニークは気づいて言った。

「そういや、あいつはどうした?」

「……あいつ?」

「ああ。ほら、いつも君の後ろを付いて回ってる……ウィンって言ったか?あいつだよ」

「リディったら。ウィンは付いて回ってるんじゃないわ、私のこと心配してそばにいてくれてるのよ。……ウィンなら、もう着替えて広間にいるわ。でも、何か変なの。いつもなら絶対一緒に来てくれる筈なのに、神様を迎えに行くんだから、オレは必要ないよね、って言って――」

 はは~ん。

 リディニークはその口調にピンと来た。

 ……が、当の月夜は何も気づいてはいないらしい。

 ウィンが勘違いしてくよくよするのは自業自得としても、それでも思わずウィンに同情してしまうリディニークだった。

「あいつも苦労するな」

「……え?なに?何か言った?」

 無意識に呟いた一言を尋ね返され、リディニークは慌てて首を振る。

「いや、別になんでもない。……ところで月夜。ちょっとユリウスを連れてきてくれないか?」

「ユリウスさん?」

「私に何かご用ですか?」

 とその時、広間の入り口からユリウスがひょいと姿を見せた。

「ああ、ちょうどいいとこ――って、何だよ、随分あらたまった格好してるな、おい」

 ユリウスの方へ目を向けたリディニークは驚きの声を上げた。

 黒の上下、白いドレスシャツ、黒いクロスタイとカマーバンド。

 細部はよく見ると所々違うものの、現実の世界で言うタキシードのような服に身を包んだユリウスは若干照れたように微笑んだ。

「……えぇ、私もここまでするつもりはなかったのですが、その――何分釣り合いが取れなくて」

「釣り合い?……ああ」

 リディニークは苦笑した。

 今頃は、鈴原一家の女性陣は皆パーティドレスに着替えているはずである。

 それはリディニークが見立ててプレゼントしたドレスだった。

「そうか、オレがご婦人方にドレスをプレゼントしたんだったな。すっかり忘れてたよ。……てことはあれか、オレも着替えなきゃならんわけだな」

「いえ、別に強制というわけではありませんから……あ、申し訳ありませんでした、マスター。ここはよろしいですから、お部屋の方へどうぞ」

「あ、うん、じゃあ……あとでね、リディ」

「ああ」

「それで、私に何のご用ですか?」

 ユリウスが尋ねると、リディニークは思い出したようにぽん、と手を打った。

「そうだ、忘れてた。客連れてきたんだ」

「お客様……ですか?」

「ああ。――おい、入れよ」

 リディニークがそう言って脇へ身を避けると、その後ろからぞろぞろと村人達が顔を覗かせる。

「これは……」

「突然申し訳ありません。その――こちらでクリスマスパーティとかいうのが開かれると伺ったので、私達もご一緒させていただけないかと存じまして」

 村人の一人が申し訳なさそうに、しかし目は好奇心でいっぱいにしながら頭を下げる。

 ユリウスが思わず絶句すると、リディニークが笑った。

「驚いたか?パーティなら、人数が多い方が絶対いいと思ったからよ、村中の人間ぜんぶ呼んできたんだ」

 これっぽっちの悪びれた様子も見せず、リディニークは言う。

 ユリウスは僅かに眉をひそめた。

「……ん?何だ、反対なのか?」

「いえ、そういうわけでは……ありませんが……」

 尚も心配そうに考え込むユリウス。

 その考えるところを悟ったリディニークは、ユリウスの肩をポン、と叩いて声を潜めた。

「リディニーク様?」

「大丈夫だよ、あいつらには創造神だのダルスだのってのは一切話してない。元々、この村は人の出入りが少ない分、噂とかも入ってこねぇし、お前らが普通にしてれば絶対バレないよ。――第一」

 そう言って、リディニークはくっくっと笑う。

「第一、あんなぼ~っとしてて危なっかしそうで、しかもその第一印象をまるで裏切らない月夜が、実はこの世界その物を創り賜うた『創造神』だ、なんて、一体誰が想像する?大丈夫だって」

 その言葉に、ユリウスは肩の力を抜いた。

「……わかりました、マスター達には私から説明しておきます。では、後はよろしくお願いいたします」

「オーケー」

 リディニークは嬉しそうに頷くと、背後に立つ村人達に合図を送った。

「今、月夜達は着替えてる最中だそうだ。ガーディアンの中の銀髪のガキが笛を吹くとか言ってるらしいから、楽隊はそっちへ行ってくれ。ケーキとかオードブルとかも広間にテーブルが用意してあるから、そこに置けばいい。じゃ、よろしく頼むな」

 リディニークの言葉に頷き、村人達が次々に神殿に入っていく。

 やがて広間の方が忙しくなると、リディニークは満足そうに頷いた。

「……よし。これでお膳立てはオーケーだな」

 外は夜。

 リディニークの想いに応えるように、空からは真っ白い粉雪が静かにゆっくりと舞い落ちていた……。



――Real Feeling――


 食事が終わり、キッドや村人達の音楽が賑やかに始まった。

 オレンジ色のドレスを着た陽南海が真っ先にフロアへ飛び出し、キッドの奏でる音楽に合わせて踊り始める。

 つられるように村人達がその輪に加わると、フロアはあっと言う間に色とりどりの服を着た人々で埋まった。

「……」

 やがて、月夜がウィンに手を引かれて輪の中に入っていく。

 危なっかしい月夜の足取りを上手くリードするウィンの姿に感心し、頬を紅潮させて嬉しそうに微笑む月夜の姿にくすりと笑って、しかし桜華は小さくため息を付いた。

 元々、こういったパーティーなどを好まない桜華である。

 その場を白けさせるのは嫌だったし、何より陽南海や月夜が楽しみにしているのを邪魔したくなかったから、成り行きに任せてパーティに参加はしたものの、やっぱり喧噪の輪の中に入っていく気にはなれなくて、桜華は一人フロアから離れたテーブルに座り、その賑やかな輪を遠巻きに見つめていた。

 黒い長袖のボレロと、鮮やかなターコイズグリーンのマーメイドドレス。

 耳から下げた大粒のエメラルドのイアリングが黒髪に映え、サテンのドレスが白い肌をシルクのように見せている。

 膝下できゅっと絞られたスカートは彼女の柔らかな曲線を見事に強調し、その深海のようなカラーと相まって、ドレスは正に桜華を人魚のように見せていた。


 ――騒いだり、パーティに出たりするのは別として。やっぱり気分いいわね、ドレスって。


 リディニークにドレスをプレゼントされた時には正気かしらと思ったものだったが、村人達が自分を見る、見紛いようもない賞賛の眼差しを見ると、どうやらリディニークの見る目も確かだったのかも知れないと、そんな風にも思えてくる。

 案外、自分もエレガントなドレスや煌めくジュエリーに憧れる女っぽい一面があるのかも知れないと、桜華は一人でくすくすと笑った。

「さて……後かたづけでもしようかしら」

 30分もすると輪を見つめるのにも飽き、何となく手持ちぶさたになった桜華はそう言って立ち上がる。

 華やかなドレス姿で食器を片づける姿も滑稽だろうと思いながら、桜華はカチャカチャと食器を手早く集めていった。

 その時。

「……お手伝いしましょうか?」

 いつの間にそばに来ていたのか、桜華のすぐ脇で声がした。

「っ!?」

 驚いてぱっと振り向いた瞬間、手に持っていた食器が雪崩れる。

「あっ……」

 しまった、と思った時には既に遅く、床にバラバラッと崩れ落ちかけた食器を、しかしユリウスが素早い反応で見事に受け止めた。

「あ……ありがと」

「いえ、私の方こそ驚かしてしまったようで……申し訳ありません」

 食器をテーブルに戻し、ユリウスが微笑む。

「その、あなたの姿が見えなかったのでどうなさったのかと……パーティは楽しくはありませんか?」

 穏やかな微笑みを浮かべるユリウスの問いに、桜華は肩を竦める。

「別に、そういうわけじゃ……あなたにはどう見えるか知らないけど、私はこれで十分楽しんでるわ。私のことなら心配いらないから、パーティに戻ってちょうだい」

 素っ気ない桜華の返答に、ユリウスは困ったような微笑を浮かべた。

 しかし彼は桜華のそんな反応を最初から予想していたようで、簡単に引き下がるつもりもないらしい。

 黙って横に並び、食器の片づけを手伝い始めたユリウスに、桜華は内心苛つき始めた。

 別に、ユリウスが嫌いなわけではない。

 タキシードを着たその姿は完璧その物だったし、桜華だって美しいものは美しいと思う。

 もし彼が彼でなかったら、惹かれていたかも知れない。

 それぐらい、今のユリウスは人の目を引きつけた。

 ……が。

 桜華は、彼が苦手だった。

 ケンカ腰で言い合った出会いのせいではない。

 そんなもの、元々がさっぱりした性格の桜華はもうすっかり忘れている。

 彼女がユリウスを苦手とする第一の理由は、彼が持つ独特の雰囲気のせいだった。

 いつだって絶えることのない、穏やかな微笑み。

 声を荒げ、苛立たしげに顔をしかめることなど皆無に等しい静かな物腰。

 けれど、だからこそ瞳には何の表情も見えず、心にはベールがかかっているようで……

 何を考えているのかわからない。

 感情を表に出さない人だから、だからこそ何だか心の中を見透かされてる気分になった。

 その穏やかな瞳に見つめられると、落ち着かなくなった。

 ――もしかしたら、内面を悟られそうな気がして本能的に脅えていたのかも知れない。

 今まで誰一人踏み込もうとしなかった心の奥底。

 強がり、勝ち気な振りをすることで築いてきた固く厚いはずの心の壁。

 しかしユリウスはそんな心のガードをいともたやすく破ってしまいそうで、この人には全てを見透かされてしまいそうな気がして、桜華はどこか不気味な雰囲気をユリウスに感じていた。

「……」

「……」

 話らしい会話を交わすこともなく、押し黙っている二人。

 のしかかるような沈黙の中、ちらっと横目で彼の姿をのぞき見るが、その表情からは相変わらず何も伺えない。

 穏やかで……でも、どこかしら鋭さを感じる表情。

 カチャカチャと食器のふれあう音だけが、二人を包んでいた。

「あ……あの」

 とうとう、その沈黙に絶えられなくなった桜華が口を開いた。

 必死で、先に続く言葉を探す。

「き……聞きたいことがあるんだけど」

「何でしょう?」

 にっこりと微笑み、尋ね返すユリウス。

 まるで先生が生意気な生徒に対するような、物わかりの良さそうなその微笑みが、しかし何故か癪に障った。

「どうしてパーティなんか開く気になったの?」

 ――いつの間にか、彼女の頭からはユリウスへの苦手意識は忘れ去られていた。

「……はい?」

「私達、急ぎの旅の途中なのよ。スタルト神殿だって慌ただしく旅立ってきたし、これまでだってずっと、ハードなスケジュールで旅してきた。なのに何で今頃、パーティなんて……そんな悠長なことを言っている暇はないはずだし、第一、村人まで参加させるなんて。いくら月夜の正体が知られてないからって、一体何を考えてるのよ」

 それは、ユリウスがリディニークの提案に頷いた瞬間からくすぶっていた疑問。

 元々はっきりしないことが大っ嫌いな彼女は、疑問をいつまでも疑問のままにしておくことが出来なかった。

 いつか聞こう、はっきりさせようと思っているうち、何だかんだと準備に追われて忘れかけていた疑問が、ユリウスへの苦手意識がきっかけで吹き出したのだ。

「……」

 一気にまくし立て、一息ついた桜華は、ユリウスの驚いたような表情に自分がつい詰問口調になったと気づいた。

 普通なら怒り出されても不思議はない生意気な言い方。

 力を有する月夜ならともかく、一方的に護られ、負担をかけている筈の桜華には、多分そんな言い方をする権利はなかった。

 しかしユリウスはそんなことはまるで気にしていない様子でちょっとだけ考え込み、口を開く。

「そうですね。確かに、私達は神官戦士。この世界の創造神であるマスターをお護りするのが、私達の役目。……けれど、それは単にマスターの身辺を警護する、と言う狭い意味ではないんです」

「……?」

 訝しげに、片眉を上げる桜華。

 ユリウスは続けた。

「初めて森の中でお会いした時、あなた方は混乱しておられましたね。突然こんな世界に放り込まれて、自分の身に降りかかった出来事を把握できず、受け入れられず。……それも当然のことと思いますが」

「……!」

 その瞬間、桜華の脳裏にあの時のことが鮮やかに蘇ってきた。

 目覚めた瞬間に見えたものは、周囲の緑と、半泣きの妹。

 森の中で目覚め、家族全員が何かに巻き込まれたのを知った。

 異様な姿をして襲いかかってきた黒い犬――ヘルハウンド。

 目の当たりにする考えられないような光景。

 妹が『力』を使った、初めての一瞬。

 そして、ダルス隊と出会った。


 ――初めて会った時……私はどう思っただろう?


 桜華はふと考え込む。


 ――確か、そう……その穏やかな瞳に、張りつめていた糸が切れるような気がしたのよ。


 初めて会った人なのに、その瞳はすべてを知っている、そんな気がした。

 まるでこの人なら、すべてを受け止めてくれる、そんな気がして……。


 ――そう、だから抗った。


 何も知らないのに。その顔に浮かぶ表情には感情の一つも見えはしないのに、それなのに彼にすがりついてしまいそうな自分が怖かった。

 無条件で目の前の男を信用しようとしている、その事に心底、脅えた。

 だから、勝ち気に突っかかるように言葉を投げることで、ガードを張った。

 そうすれば、少なくとも遠ざかっていられる口実になると思ったから。


 ――自分のことを何一つ表に出そうとしない人間に頼りかかることなんて出来なかった。


 本当は、怖かったのだ。

 本当の自分はもう強がることに疲れ始めていると、それを認め始めている頃だったから。

 誰でもいい。私を見て。私の本当の心を。

 自分の心がそんな悲鳴を上げていることに、気づき始めていたから。

 だから、頼ってしまいたいと思わせるようなユリウスが怖かったのだ。

「どうかなさいましたか?」

 黙り込んでしまった桜華に、ユリウスが気遣わしげに尋ねる。

 桜華ははっと我に返った。

「何でもないわ。続けて」

「……」

 先を促す桜華の言葉に、ユリウスは少しだけ躊躇うような表情を見せた。

 が、そのまま話の続きを待っている桜華に僅かにため息を付き、ユリウスは続ける。

「スタルト神殿を出発した、あの日。あの日もきっと、皆さんの心はどこか麻痺していたはずです。考えもしなかった異世界に放り込まれ、慌ただしく旅をさせられる。そんな状況を、もし正気のままでいたなら耐えることは出来なかったはずですから。でも……旅が続き、この世界に慣れてくるにつれて混乱は去っていく。そして代わりに沸き起こるのが……絶望と、恐怖」

 そこでちょっとだけ言葉を切り、ユリウスはため息を付く。

「ここが異世界であることを認識するにつれて沸き起こる絶望。エンディオン神殿にある『扉』、その先に待ちかまえる未知のものに対する恐怖。それは旅を続けていることよりもずっと、精神を疲労させてきたはずです。そう……その顔から、微笑みさえ消えてしまうほどに」

 図らずも、それはさっき部屋で月夜に言った桜華自身の言葉とほぼ同意のものだった。

 ここが本当に異世界なのだと思い知らされるたびに、心のどこかが蝕まれていくような気がした。

 ほんの僅かずつにでも目的地が近づくにつれ、先の見えない未来が怖くなった。

 でも……まさか、それをユリウスが見透かしていようとは。

「でも、あなた方はずっと、それに一人で立ち向かってこられた。弱音を吐かず、取り乱しもせず、一人きりで……。本当は取り乱し、弱音を吐いて下さった方がどれだけよかったか……でも、無理ですよね。あなた方は強い。だからこそ、こうして旅を続けていられるのだから」

 寂しそうに、辛そうに微笑むユリウス。

 その、見覚えのある表情に桜華は息を飲んだ。

 それは――それは紛れもなく、さっき桜華自身が月夜に対して浮かべていた表情だったから。

 大切な人。守りたい人、その人が苦しんでいる、悩んでいる。なのに自分は見ているだけで何もできない。

 辛くて――歯がゆい想い。

「一人きりなんかじゃなかったわ」

 我知らず、桜華は呟いていた。

「一人きりなんかじゃなかった。私が、私達がこの状況に耐え、乗り越えられたのは、きっとみんながいてくれたからよ。守りたい人が、いたから……頑張らなくちゃ、そう思える家族がいたから、だから……」

 ほんの少しだけ緩む顔。

 家族のことを思っているのだろうその表情が、いつもの強気な彼女とは似ても似つかないほど柔らかく、優しいと言ったら、彼女はまた反発するだろうか?

 一瞬だけそんなことを考えて、ユリウスは微笑んだ。

 初めて出会った時。

 周りの状況を把握しようと必死になっている彼女を見たとき、ユリウスは桜華のことを酷く儚げな印象を持つ人だと思った。

 それは、月夜が持つふんわりとした危なっかしい儚さではなくて。

 見た目の硬質、それとは正反対の繊細さを持つ薄いガラス細工のような……触れるのさえ怖くて躊躇われてしまうような、もろく儚い印象。

 しかし旅を続けるうち、ユリウスは桜華の強さを知った。

 誰のどんなことより先ず、真実を知り、受け止めようとする心。

 苦境や困難から目を背けず、しっかりと見据えようとする強さ。

 ――己の弱さを認められず、強がることもまた、弱さの一つ。

 けれど、たとえそれが弱さを隠すものだとしても――強がり続けること。それもまた、強さの一つ。

 強さともろさを併せ持った人。

 一人で立ち、しっかりと信念を持っている人。なのに支える手をさしのべたくなる人。

 時折見せる物思いに沈んだ顔。その華奢な肩が小さく震えるのを見るたびに、何度声をかけようとしたか――。


 ――でも、彼女はそれを望んではいなかったから。


 手をさしのべれば、彼女は更に自分から遠ざかってしまう。はっきりと言われたわけではなかったけれど、彼女が自分を避けているのは明らかだった。だから、彼女の苦しみを察しても、何もできなかった。

「月夜が……言ってたわ。最近、この世界と私達の世界とを比べてばかりいるって。……何だか、疲れたって。月夜だけじゃない、聖も、陽南海も、父さんや母さんだって心の中ではきっと……でも、私には何もできなかった」

 自分自身、絶望と恐怖に耐えるだけで精一杯なのに。

 そんな自分がどんな慰めを言ったところで、それが何になるのだろう?

「だから、嬉しかったの。クリスマスパーティをするんだって陽南海がはしゃいだのも、月夜が笑ったのも。やっと、これで少しは楽になるんじゃないか、って――」

 その時。

 桜華は、ユリウスが満足そうな顔をして笑っているのを見た。

「ユリウス、あなたまさか……」

「私は癒しの魔法を得意とするガーディアン。けれど、人の心の痛みまで癒すことは出来ません。だから、今まではマスターやあなた方の苦しみを察することは出来ても、どうすることもできなかった。でも、リディニーク様が今回のパーティを提案された時、マスターも陽南海さんも笑って下さいましたから。……確かに、私達は旅の途中。けれど……あの笑顔をふいにしてしまうのは、余りに残酷で……私には、出来なかった」

「ユリウス……」

「それにいざとなったら、皆さんは私達が護ります。我々はその為にいるガーディアン。皆さんの身辺を、そしてその心をお護りするのが、私達の役目です」

「……!」

 桜華は、やっと理解した。

 ユリウスの本当の優しさを。


 ――心を隠しているわけじゃないんだわ。少なくとも、わざとそうしているわけじゃない。


 人を傷つけたくないから。

 何よりも先ず、他人を気遣ってしまうから。

 だからこそ自分を押し殺し、影になろうとする。

 心を隠しているわけじゃない。ただ、その優しさが彼の心にベールをかけてしまっているだけなのだ。

 人のための自分でいられる人。

 誰かのために自分を押し殺し、それをまるで当然のことのようにやってのける人。


「……ごめんなさい」

 桜華はポツリと呟いた。

 生意気な言動。

 彼が自分を隠しているなどと勝手に思いこんで……自分から知ろうともしなかったくせに。

「私……随分いやな女だったわね」

 まるで自分だけが正しいような言い方をして。

 今思い出すと、そのすべてが子供っぽいわがままのようにさえ思えた。

 彼は一生懸命私達を支え、護ろうとしてくれていたのに。

 それなのに、勝手に強がって、勝手に嫌がって。

「……」

 しかしユリウスはゆっくりと頭を振った。

「あなたが私を避けていたのは知っていました。私を……どう思っているのかも。何を考えているのかわからない。不気味でいやな人間――そう言われることも珍しくありませんでしたし」

「!わ、私は別にいやなやつだなんて思ったわけじゃ……」

「わかっています。でも、避けていたのは確かでしょう?」

「そ、それは……」

 うっ、と言葉に詰まり、俯く桜華。

 ユリウスは笑った。

「かまいませんよ、桜華。私はそういう反応になれていると言いたかっただけです。本来なら、そういう人間には近づかず、一定の距離を保つようにしているのですが……」

 どうしても、放っておくことが出来なかった。

 嫌われてもいい。憎まれてもいい。

 それで少しでも彼女の心に張り合いが出来るのなら。少しでも、今の苦しみを忘れることが出来るのなら。

 そう思った。

「ユリウス……」

 今度こそ、その内心を思うことが出来た。

 心の中に、ゆったりとした波が広がっていく。

 誰かが自分を見て、支えようとしてくれている。

 それがこんなにも穏やかな気持ちを誘うものだったなんて……。

 桜華はくすり、と微笑みを漏らした。

「……桜華?」

「ごめんなさい、ユリウス」

「え?」

「……正直に言うわ。私、あなたが言うように、あなたを避けてた。何を考えてるのか分からないって思ったのも本当よ。だって、あなたは……いつも笑ってるばかりで、あまり、その……自分を表すようなことをしない人に見えたから。でも……でも、これからは違う。私、あなたを避けたりしないし、遠慮もしないわ。思ったこと、何でも言うし、何でも言ってもらう。私の前でもう一度、笑顔で誤魔化すような真似してご覧なさい。地の果てまでだって追いかけて、絶対に本心を聞き出して上げるんだから」

 きらっ、と悪戯っぽく輝く桜華の瞳。

 その口の端がちょっと上がって、からかうような笑みが浮かぶと、ユリウスも微笑みながら頷いた。

「……観念します」

「よろしい」

 腰に手を当てて満足そうに頷く桜華。

 と、ユリウスは言った。

「……桜華?」

「なに?」

「本当に、本心を聞く覚悟はありますか?」

「……え?」

 聞きたいと思っていたことを『聞きたいか』と言われたら、逆に後込みしたくなるのが人間の性と言うものである。

 一体何を言う気なのかと、思わず桜華が身構えた瞬間、ユリウスが言った。

「そのドレス、よくお似合いですよ。息が止まるほどに」

「え……?」

 何を言われたのか、一瞬理解できなかった。

 しかし次の瞬間、桜華は吹き出す。

「や、やだユリウスってば……」

 ――既に、ユリウスへの苦手意識はどこかへ吹き飛んでいた。

「……」

 目の端に涙を浮かべて笑い転げる桜華に、ユリウスはそっと手を差しだす。

「?」

 桜華が不思議そうに顔を上げると、ユリウスは極上の微笑みを浮かべながら言った。

「――私と踊っていただけませんか、プリンセス?」

「あ……」

 ほんの少し前まではあんなに敬遠していたユリウスの微笑み、言動。

 けれどその言葉は、今の桜華には何より強い誘惑に聞こえた。


 ――こんな些細なきっかけで、印象ががらりと変わってしまうなんて。


 桜華は満面の笑みを浮かべて、片手をユリウスに差し出す。

「喜んでお受けいたしますわ、王子様」


 ――この人と一緒にいられるなら、この旅もまんざらではないかもしれない。


 そんな想いに頬を僅かに染める、少女のような桜華の姿を、ユリウスは微笑みながらそっと見守っていた――。





――君のために出来ること――


「……月夜」

 シャンペングラスを片手に、広間の中央で踊る陽南海達の姿を眺めていた月夜は、躊躇いがちにかけられた声に振り返った。

「ウィン」

 黒のタキシード、黒のボウタイ、黒のカマーバンド、白いドレスシャツ。

 どこからどう見ても非の打ち所のないウィンの姿に、月夜は心底嬉しそうな顔をして笑いかけた。

 アルコールのせいかほんのり頬を染め、普段より潤んだ瞳を向ける月夜。

「……楽しんでるかい?」

 言いながら、ウィンは月夜の着ているドレスにさっと目を走らせた。

 すっきりと流れるサテンの生地が華奢な体のラインを引き立たせる、肩紐の細いスリップドレス。

 深いワインレッドのドレスは普段の綿あめのような甘い彼女の印象を一新させ、胸元でシンプルに輝く一粒のダイヤモンドが、彼女を更に大人っぽく見せている。


 そこにいるのは良く見知った頼りなげな少女ではなく、そばにいるだけで心をかき乱されるような大人の――女性。


 彼女の年齢を考えれば、これが年齢相応のイメージと言えないこともなかったが、ウィンは初めて見る彼女の女性らしい姿に戸惑い、何だか妙な嫉妬さえ覚えて、さっと視線を横に流してしまった。

「……ウィン?」

 月夜が、不安げに聞いた。

「あの……もしかして、似合わない?」

 月夜自身、こんな服を着ることは滅多に……いや、まるでなかった。

 元々、月夜はパステルカラーや花柄の洋服、それもロングフレアのジャンパースカートやハイウエストのロングスカートを好んで着た。

 フェミニンで少女のような可愛らしい服。

 フリルがたくさんついた服は流石に着る気にはならなかったが、それと同じくらい、周囲の同年代の女の子達が着ているような、大人っぽくてシックな服を着たいと思うこともなかった。

 ……何となく、自分には不釣り合いな気がして。

 あんな大人っぽい服を着る、そんな中身を持っているとはどうしても思えなくて。

 だから、お化粧したこともなかったし、流行を追うようなこともしなかった。


 ――やっぱり、おかしいのかな。リディが絶対似合う、ウィンも喜ぶって言うから、恥ずかしいの我慢して着たのに……。


 哀しげに、今にも泣き出しそうに歪む顔。

 膝に置いた手をぎゅっと握りしめ、俯いてしまった月夜に、ウィンはハッと我に返った。

「い、いや!そんなことない!そんなことないよ、月夜。とっても、よく似合ってる。その……初めて見た時には、心臓が止まるかと思うくらいびっくりしたよ。あんまり綺麗で、その……い、いつもの月夜とは全然違うイメージだったから」

「……ほんとは、もっと可愛いの着たかったの。陽南ちゃんが着てるみたいな。でもリディが……」

 リディ。

 その言葉に、ウィンがびくっと震える。

 月夜は続けた。

「リディがね、言ったの。君は自分を過小評価してる、って。最初は恥ずかしいかも知れないけど、でも絶対似合うから、自信を持った方がいい、って。これを着たら今までとは違う自分に逢える、きっとそれをウィンも喜ぶはずだから、って。だから、私――」

 月夜がこのドレスを着ているのは、ウィンのため。

 彼に喜んでほしいから。

 綺麗だと、言って貰いたいから。

 だからただ、それだけのために着ているドレス。

 けれど……今のウィンには、その言葉は届いてはいなかった。

 その脳裏にあるのはただ一つ。

 リディニークへの……月夜の違う一面を見いだした、自分以外の男への暗く、どんよりとした嫉妬。


 ――オレは、彼女の何を見ていたんだろう。


 綿あめ色の甘いイメージの月夜しか見たことがなかったから。

 それ以外のイメージなど、彼女に求めたこともなかったから。

 だから、リディニークが贈った、普段の月夜とはほど遠いイメージのドレスが、こんなにも彼女に似合うことに……ほんの短い間にそれを見抜いたリディニークに、ウィンは打ちのめされた。


 ――オレは、彼女の何を見て……


 リディニークがパーティの提案をしたとき。

 月夜が、それに応えるように笑顔を浮かべたとき。

 そのことも、ウィンを更に落ち込ませた。


 ――気づいたのは、少し前だった。


 月夜が笑わない。

 いや、笑顔は浮かべるのだ。笑い声も立てる。……けれど、そんな時でもその目はいつもどこか虚ろで、遠くを見つめるように寂しげに曇っていた。

 それは、いつもそばにいて、いつも見守っているから、だからこそ誰よりも早くに気づいたのだろう、僅かな変化。

 他の誰も気づかないうちにその変化に気づいた、その事がウィンのプライドをひどく満足させた。

 ……でも。

 誰よりも早く気づいたのは、ウィンだった。

 でも、それを癒すことが出来たのは彼ではなく、ほんの数日泊まるだけ、ただそれだけの筈の神殿の主――雪神、リディニーク。

 いたたまれなかった。

 月夜とリディニークが笑い合うたびに、自分の存在意義が失われていく気がした。

 月夜が傷つき、疲れていることを自分は知っていたのに。

 誰よりも早く気づいたのに、それなのに気づいただけで満足し、見ていただけなんて。


 ――報い、か。


 月夜が自分以外の男に目を向け、その優しげな瞳で微笑むのも。

 他の男が贈ったドレスに身を包んだ月夜がこんなにも美しく、こんなにも激しい嫉妬に苛まれることも。

 すべては報い。

 彼女を守ると誓いながら、そばにいるだけで満足していた自分への……。


「……ごめん、月夜」

「え?」

「オレは君を護るって誓ったのに……君が疲れ、傷ついているのを知りながら何もしなかった。リディニーク様はすぐに君を励ますためにパーティを開いて下さったのに……役に立たないガーディアンだよな」

 リディニーク様がガーディアンならよかったのにね。

 最後は独り言のように、ぽつりと呟くウィン。

 その瞬間。

 ガタン!

 月夜が、テーブルの上の物を倒す勢いで立ち上がった。

 手に持っていたシャンペングラスが音を立てて床に落ちる。

 しかし月夜は、そんなことにも気づかない様子で手を胸の前でぎゅっと握りしめ、叫んだ。

「馬鹿なこと言わないで!」

 それは、月夜にとっては一生に一度あるかないかの大声だった。

 幸いにもフロアには音楽が満ちていたから、目の前にいるウィン以外には聞こえなかったけれど、もし聞こえていたら絶対に家族全員が飛んできただろう、ただごとならぬ大声。

「つ、月夜……?」

 ウィンは、目の前の少女のあまりの剣幕に呆然と彼女を見上げた。

 はぁ――っ、はぁ――っと肩で大きく息をつき、月夜は今度は静かな声で言う。

「馬鹿なこと、言わないでウィン。どうしてそんなこと言うの?リディの方がよかったのになんて、どうしてそんなこと……私、何かした?リディとあなたを比べるようなこと、何か言った?もしそうなら謝る。何をしたって、どんなことしたって謝るから、だから……だから、もう二度とそんなこと言わないで。そんな哀しいこと……恐ろしいこと」

「月夜……」

 ウィンは恐る恐る立ち上がり、俯いている月夜に声をかける。

 静かに顔を上げた月夜の瞳からは、大粒の涙がこぼれ落ちていた。

「つ……」

「あなたがどうしてそんなこと思ったのか、私にはわからない。でも、本当にあなたが何もしてない、何の役にも立ってないって思っているのなら……もしそうなら、私は言えるよ。そんなことない。ウィンは、ずっと私を護ってくれてきた。初めて会った時から今までずっと……言葉には出来ないくらいに」

 そう言いながら、月夜はウィンの手を取った。

 そしてその手を、そっと両手で包み込み、頬に押し当てる。

「いつだって、あなたは私に安らぎをくれる。自分の力が怖くてどうしようもない時も、疲れて泣き出して叫びたくなるときも、いつも――。何もしなくて良いの。そばにいるだけでいい。だから……もう二度と、そんなこと言わないで。不安になるようなこと……お願いだから」

 手に涙が伝った。

 その瞬間、まるで魔法にでもかかったかのように、ウィンの心に安らぎが広がっていく。

 何物にも代え難い――一瞬。


 ――彼女の温もりは、こんなにも心地良い物だったんだな……。


 神殿で泣きじゃくる月夜を咄嗟に抱きしめて以来、ウィンは彼女に触れていない。

 そうして無理にでも避け、離れていなければ、自分が抑制できなくなってしまいそうな気がしたから。

 彼女が『創造神』であることを忘れ去ってしまいそうな気がしたから。

 だから怖くて、触れることが出来なかったのだ。

 けれど、久しぶりに感じる彼女の温もりは、逆に彼をなだめるように優しかった。


 ――もう少し甘えても……いいだろうか。


 離れていればいるほど、この想いはどうしようもなく、押さえようもなく高まっていく。

 ならばいっそこの手でしっかりと彼女を支え、その温もりを感じていたい。


 ――もう少しだけ……あと少しだけ……彼女の香りの中に身を置くだけでもいい。せめて一番近い場所で……誰よりも一番彼女に近い場所で、オレは彼女を護ろう。他の誰でもない……彼女が頼る一番の相手が、オレであるように。


「ごめん、月夜」

「ウィン?」

 涙に濡れた瞳で、月夜が不安そうに見上げる。

 ウィンは笑った。

「オレ、忘れてたよ。どうしてオレがここにいるのかってこと――オレは、君を護りたいから、ここにいる。何が出来て、何が出来ないかなんて関係ない。オレは無力で、君を苦しみから護って上げることは出来ないかも知れない。でも……でも、いつだってそばにいるから。だから君は、君のままでいてくれ。今のままの月夜で……オレたちは、オレは、その為にここにいるんだから」

 彼女の笑顔を護るために。

 彼女の恐怖を取り除くために。

 その為に自分は、ここにいる。その為になら、何だって出来る。

 そう、思っていた。

 でも。

 違うのだ。

 本当は護るためではない。

 彼女を護りたいと思うその願いのために、自分はここにいる。

 他の誰でもない自分の……彼女に対する自分の思いのために。

「約束するよ、月夜。君が君のままでいられるために。いつも微笑んでいられるように、オレは君を護る。君が望んでくれるのなら、いつだってそばにいるよ。たとえ誰を敵に回そうと、神を敵に回そうと必ず……約束するよ」


 ――たとえそれが彼女の創造神としての覚醒を贈らせることになろうと、構うものか。


 ただ、幸せを感じてくれればいい。笑ってくれれば、それだけでいいのだから。

「ウィン……」

 どんなに気障な台詞でも、ウィンの口から聞くと何故か素直に心に染み込んでくる。

 月夜は微笑んで、そっと彼に身を寄せた。

 それはもしかしたら、体に回ったアルコールがそうさせたのかも知れない。

 普段の彼女からは考えられない行動に、ウィンは一瞬金縛りにあったように硬直した。

 しかし彼女がウィンを見上げ、ふわん、と微笑むと、その体から緊張が抜けていく。

 ゆっくりと微笑みを返したウィンは、少しだけぎこちなく月夜の肩に手を回す。

 その胸のうちがじ~んと感動の嵐吹きまくりだったのは、言うまでもない。




――雪を見あげて――


「ふぅ。あつ……」

 ひとしきり踊ったあと、陽南海は火照った体を冷やすため、テラスへ出た。

 外は雪。目の前に広がるのは雪原とまばらな林と、その間から見え隠れする遠くに灯る家の明かり。

 背後から聞こえてくる喧噪――けれど、周囲にあるのは静寂。

 音を吸い込むように真っ白い雪が積もるテラスの手すりに頬杖をつき、陽南海は小さくため息をついた。


 ――昔は、この静寂が大嫌いだった。


 一人になると、真っ暗闇の中に放り出されたような気がした。

 自分だけが世界の輪の中からはじき出された気がして……とてつもなく、不安になった。

 だから陽南海はいつだって、友達に囲まれていられるように明るく振る舞い、輪の中にいられるように陽気にはしゃいできた。

 そうやって、彼女はいつも静寂から逃げ続けてきたのだ。


 ――でも。


 あんなにも怖かった静寂なのに、今はそれがこんなにも心地よかった。

 それは、別に落ち込んでいるとか、独りになりたいとか、そんなマイナス的な要素ではなくて。

 ただ、こうして独りになると必ずそばに来てくれる人を見つけたから。

 押し潰されそうな静寂から護り、暖かく包み込んでくれる人が……現れたから。

 だから、陽南海は背後から近づいてくる間違えようもない一つの気配に、微笑みながら目を閉じた。

「……陽南海」

 そう、それは低く呟くように話す彼の人の声。

 この世界の誰よりも……いいえ、きっと天使の歌声よりも、悪魔のささやきよりもずっと素敵で暖かな声。

「なあに?シオン」

 そう言いながら陽南海が振り返ると、シオンがショールとレモネードを持って立っていた。

 着ているタキシードは全員同じ、違うのはタイの形だけなのに、どうしてこうも一人一人の雰囲気が違って見えるのだろう?


 ――でもやっぱり、シオンが一番かっこいいけど。


 そんなことを真剣に考えていたりする陽南海に、シオンは僅かに眉を上げた。

「……外は冷える。汗をかいたまま、そんな薄着でいたら風邪を引くぞ」

 ホールターネックの上半身に、ウエストから幾重にも重なり広がる、薔薇の花弁のような膝丈のスカート。

 色は、陽南海が好んで着るオレンジ――太陽の色だ。

 履き慣れないヒールの高いストラップシューズを履き、肘の上まである真っ白な絹の手袋をつけた陽南海の姿は、活動的で……どこかフェアリィを思わせる可愛らしさを持っていた。

 だが、背中が大きくくれたそのドレスが実は最初からずっと気に入らなかった――いや、個人的には気に入っているのだが――シオンは、有無を言わせず手に持ったショールで、陽南海の体を包み込んでしまう。

 ダルスの仲間はともかく、村人の視線が彼女に集まるのが、たとえそれが少しばかり敏感になりすぎているシオンの気のせいだったとしても、どうしても我慢ならなかったのだ。

 が、シオンのそんな内心など知る由もない陽南海は素直に感謝の笑みを浮かべ、暖かい湯気の立つレモネードを嬉しそうに受け取る。


「……静か、だね」

 レモネードを一口すすり、ふっと外へ目を向けた陽南海が呟いた。

 その笑顔はいつものように明るかったものの、その声が何となく寂しげな気がして、シオンは戸惑いがちに横に並ぶ。

「……本当のパーティは、もっと賑やかなのか?」

 その口振りから、何となく陽南海が元の世界のパーティを思い出しているような気配を感じた。

 何も言わなくても、考えていることを察してくれる。

 そのことが妙に嬉しくて、気恥ずかしくて、陽南海は照れたように微笑んだ。

「ほんとはね、私、いつも友達とクリスマスパーティしてたの。家族と一緒にいるのはクリスマスの日。イヴの日は、いつも友達何人かと一緒に遊んでた。笑って、歌って、騒いで……クリスマスの本当の意味なんて、キッドに聞かれるまで思い出しもしなかった」

 ただ気の合う仲間達と集まり、遊ぶ口実でしかなかったクリスマス。

「今日の、このパーティだってね。ほんとは、そんなに変わらないんだと思う。楽しいし、騒いだし、歌ったし……キリスト生誕を祝う、なんて、みんなきっと忘れてる。でもね。でも……でも、なんか違う気がするんだ。いつものパーティとは何か違う。みんなで集まって、騒いで……してることは同じなのに、でも違うの」

 その顔には、微笑みしかなかった。

 部屋の光を背にした陽南海の瞳に浮かぶ表情はシオンからは見えなかったし、その声に含まれる穏やかさが何を意味しているのかも分からなかった。

「懐かしいのか?元の世界が」

 シオンは、そっとそう呟いた。

 頷かれるのが怖かった。

 口調に、拳に、僅かな緊張がこもる。

 しかし陽南海は即座に首を振った。

「ううん!そんなことない!……あ、えっと――うん。確かに、懐かしいと思うこともあるよ。ここへ来たときは、正直言って早く帰りたいって、そればっかり考えてた。私がいるべき場所はここじゃない。私の居場所は元の世界にあるんだ、って」

「……」

 その言葉は、彼が思っていた以上に彼の胸をえぐった。

 目の前に陽南海がいるのに。

 それなのに彼女の存在が急に遠くに行ってしまったような気がして、シオンが失望と絶望の波に目を閉じた瞬間。

 陽南海がくすりと笑った。

「……でもね。今は、違うんだ」

 そう言って、陽南海は夜空を見上げた。

 妖精のように軽やかに、ふんわりと舞い落ちる、美しい粉雪。

 雪がこんなに美しいなんて。

 それも、この世界に来て初めて知った、当たり前の、事。

「私ね。今は、こうしてみんなと旅をして、シオンがそばにいてくれて、シオンがそばにいてくれると安心する自分がいて、それに気がつくたびにいつも思うの。私がここにいること――それだって、間違いじゃないんだよね。シオンがそばにいること。シオンのそばにいられること。それがこんなに嬉しくて、こんなに正しいと思えるんだもん。だから私、寂しくなんかない。ここへ来たこと、来てしまったこと、一度だって後悔したことなんか無いんだ」

 陽南海の言葉に、嘘やお世辞は感じられなかった。

 強烈な安堵感が、体を突き抜ける。

 そのことにむしろ、絶望感さえ覚えた。


 ――陽南海を失うようなことがあったら、オレは……。


 考えるだけで、心臓が凍り付くようだった。

 しかし、そんな思いとは裏腹に、口元は勝手に緩み、シオンはふと目を細める。

 彼の微笑みに気づいた陽南海が、更に嬉しそうに微笑んだ。

 シオンが笑ってくれること。シオンを笑わせられること。

 それが、今の陽南海にとっては一番重要で、一番嬉しいことだった。

「……さあ、中へ入ろう。外は冷える」

 シオンがその背にそっと手をあてがい、陽南海を中へ促す。

 が、陽南海はふるふると首を振り、シオンの腕にぴとっと貼り付いた。

「どうした?」

「もう少し、ここにいたいの。もう少しだけで良いから……だめ?」

 子犬のような瞳で、甘えるように訴える陽南海。

 シオンは軽いため息をついた。

「シオン?」

「……そんな目で見られてダメだと言える奴がいるのなら見てみたいものだな。仕方がない、少しだけだぞ」

「うん!」

 嬉しそうに笑う陽南海。

 その腕を、シオンはいきなり引き寄せた。

「きゃっ!?」

「こっちへ来い、陽南海」

 言いながら、シオンは陽南海を背後から抱きすくめる。

「シ、シオン……っ!!」

 両腕ごと抱きすくめられ、上半身の自由を奪われた陽南海は、耳元にシオンの熱い吐息を感じて緊張に体をこわばらせた。

 耳に唇を押しあてるように、シオンが囁く。

「どっちにするか、お前が選べ。外にいたいなら、このままだ。それが嫌なら、無理矢理にでも中へ連れ戻す。――さあ、お前はどちらを望む?」

 シオンの口から零れる吐息が耳をくすぐり、髪を揺らした。

 くすぐったさに身を竦ませながらも、胸の中に沸き上がる不思議な感覚に戸惑い、陽南海は俯く。

 答えを言い渋っているような陽南海に、シンは更に唇を寄せた。

「さあ、どっちだ?」

 有無を言わせない熱い吐息に、意識に反して体から力が抜けていく。

 全身に鳥肌が立つような感覚に、陽南海はゆっくりとその背をシオンの胸に預けた。

「……外にいる」

 すっぽりと自分を包み込むシオンの温もり。ぴったりと寄せる背中を通して伝わってくる心臓の音。

 シオンの腕にすがりつき、その背にもたれながら、陽南海は顔を反らしてシオンを見上げた。

「……」

 シオンは、今までに見た誰のどんな表情より雄弁に語る眼差しで、陽南海を見下ろしていた。

 陽南海は恥ずかしそうに頬を染め、さっと俯いてしまう。

 そんな彼女の仕草が愛しくて、シオンは腕にぎゅっと力を込めた。

 寄り添っていた体が、更に密着する。

 緊張を増す自身の意識とは反比例して、体から力が抜けていく。立っているのさえ、やっとなほどに。

 陽南海は大きな海原を漂っているような、フワフワとした……けれど、とても安心できる感覚が体にゆっくりと広がっていくのを感じながら、そのまま黙って雪を見つめていた。

 陽南海の体から、こわばりが消えていく。

 何もかも委ね、預けてくる陽南海の信頼。

 そのことが嬉しくもあり、しかし微かな恐怖も覚えながら、シオンもまた、黙って雪を見つめていた――。



――You And I――

「お疲れ」

 演奏を終え、ソファで一息ついていたキッドの所へ聖がやってきた。

「はい、これ」

 聖が差し出したジュースを嬉しそうに受け取ると、キッドはタキシードのタイを緩めながらそれを一気に飲み干す。

 つられたように、自分も着慣れないタキシードの襟元を緩めながら、聖が言った。

「さっきはありがとな、キッド」

「……あん?」

 二杯目のジュースに手を伸ばしていたキッドが、不思議そうに振り返る。

「ありがとって……何がだ?」

「姉さんのことだよ。ほら、さっき手伝ってくれてただろ?」

 ソファに座る月夜にちらっと視線を投げながら、聖はため息をついた。

「僕も、気になってはいたんだ。でも、だからってユリウスさん一人に任せて離れるわけに行かなかったし、いくら姉さんでもツリーの飾り付けくらいなら、そう大したドジもしないだろうと思って……」

 ガタンッ、という大きな物音に振り返って派手に倒れている椅子を見た瞬間は、本当に心臓が止まった気がした。

 キッドが受け止めてくれたから良いようなものの、もし誰も見ていなかったら……

「ぞっとしたよ。何しろ受け身なんて取れるような器用な姉さんじゃないからね。そのあともずっと手伝ってくれてたのは、姉さんを心配してくれたからだろ?……ほんとに、ありがとな」

「べ……別に」

 しかし、キッドはぷいっと顔を背けた。

「オ、オレはただ、あいつがあんまりにも鈍くせーから、イライラしただけだよ。あんなやつに任せてたら、いつまでたっても準備が終わらねーからな」

 その口から出るのは、決まって憎まれ口。

 けれど、その顔は首筋まで真っ赤に染まっていた。


 ――やれやれ。


 聖は苦笑した。

 旅を始めて半年。

 何だかんだと文句を言い、反抗的な態度をとり続ける彼の行動の裏側に、実は誰よりも繊細な心が隠れていることを、聖は少しずつ理解し始めていた。

 結局、彼は素直に感情を表現する術を知らないだけなのだ。

 これまでずっと反抗的な態度を貫いてきただけに、今更というのもあるのだろう。

 今日だって。

 退屈そうな振りをしながら、キッドは音楽がほしいと言った陽南海の言葉をちゃんと覚えていて、誰に頼まれたわけでもないのに演奏を始めた。

 その曲は全て、陽南海の喜びそうな陽気なものばかり。

 褒められて嬉しくないはずはないのに、ただ、どうリアクションして良いかわからず、つい憎まれ口を叩いてしまう。

 心の中で今頃自己嫌悪に陥っているだろうキッドに苦笑しながら、聖はふと尋ねた。

「なあ、キッド。お前って最年少ガーディアンなんだろう?友達とか、いないのか?」

「……!!」

 その瞬間。

 聖が本当に何気ない質問を口にした瞬間、キッドはさっと顔をこわばらせた。

「キッド……?」

「友達なんか……」

 それはキッドが聖に初めて見せる寂しげな表情で……胸の奥が、きゅっと痛んだ。

「友達なんか、いるわけねーじゃねぇか。オレは……」

 ガーディアン。

 一般人にとっては、その肩書きだけで憧れの対象となるほど、遙か高い雲の上の存在。

 しかも中央ガーディアン、その中でも精鋭の名をほしいままにするダルスのメンバー、加えて最年少ガーディアンなどというおまけまで付けば、キッドを対等に見る者は――いや、それどころか同じ人間として見てくれる者も皆無に等しかった。


 どこへ行っても、何をしても、投げかけられるのはただ――羨望の眼差し。

 最初はそれでも、注目を浴びることが嬉しかった。

 ずっと一人で、大人達に囲まれて、必死になって生きてきた彼だから。

 だから、自分を認めてくれる、慕ってくれる人間がいる、それだけで最初は嬉しかったのだ。


 ……でも。


「どんなに慕われたって……どんなに注目されたって、結局一人なんだって気づくのに時間はかかんなかった。街へ下りれば、みんなが集まってくる。声をかけてくれる。でも……向こうから誘いにきてくれたことなんか、一度もなかったよ」

 自分と同じくらいの少年達が集まって、騒いでいる。

 それを遠くから見ている自分の、どんなに情けなかったことか。

 寂しくなんかない。辛くなんかない。

 自分は、精鋭の名を冠するガーディアン。天才と言われるほどの力を持った、最年少の戦士。

 だから、寂しくなんかない。

 必死になってそう言い聞かせようとしている自分に気が付き、そのことに更に落ち込んで……。


 ――だから、お前を……。


 キッドは、自分を心配そうに見つめる聖に、救いを求めるように視線を投げた。

 聖の瞳は、相変わらず心配そうに、けれど優しく微笑んでいる。

 そのことにちょっとだけ安心して、キッドは続けた。

「だから、お前に初めて会った時、すごく新鮮な感じがしたんだ。いくら正体を知らなかったって言ったって、あのユリウスに正面から立ち向かって、毅然と言い返すなんてさ。だから……」


 ――こいつなら。こいつなら、オレを……


 そう、思った。

 キッドは更に顔を真っ赤にして、か細い声で呟く。

「だから……だから、いなくなったりするなよな、聖。お前が居なくなったらオレ、また一人になっちまう。せっかく見つけた、たった一人の友達なんだ。だから……」

 初めて見る、弱気なキッド。

 聖は笑って頷いた。

「大丈夫。僕はここにいるよ。どこへも行ったりしない。約束するよ」

「……絶対か?」

 心細げに、不安げに尋ね返すキッド。

 彼が過ごしてきたのだろう、長い長い孤独の日々が聖の胸に染み込んだ。

 聖は力強く頷く。

「ああ。絶対だ」

「……そっか」

 やっと、キッドの顔に笑みが戻った。

 一人っきりで、誰にも甘えられずに生きる日々。

 それはどんなに辛く、重苦しいものだろう?

 聖は、ふと、自分を省みた。

「贅沢――だよな、やっぱり……」

 それは、独り言のような微かな呟き。

 いや、声に出すつもりさえなかった、心の想い。

「あ?」

 不思議そうなキッドの声に、聖は自分が無意識に声を出していたと知った。

「いや、何でもない。考え事だよ」

 慌てて言い繕う聖の言葉に、キッドは少しだけむっとした表情を浮かべる。

 大切な人。

 だからこそ、何だか隠し事をされたみたいで、気に入らなかった。

「何だよ。途中でやめると、気持ち悪ぃじゃねぇかよ。……話せよ」

「いや、ほんとに大したことじゃないんだ」

「んなもん関係ねーよ!大したことでも、そーじゃなくてもいいから、とにかく話せよ、気になんだろっ」

 イライラと催促を続けるキッドに、しかし聖は尚も言い渋った。


 ――本当に、大したことじゃないのに……。


 その時。

 キッドは実力行使に出た。

「わっ!?」

 いきなりキッドに飛びかかられて、声を上げる聖。

 さっと聖の首を背後から抱え込んだキッドは、それを軽く締め上げた。

「!!……く、苦しっ……ちょ、ちょっと待っ……苦しいってば、キッド!」

「お前がいつまでも話そうとしねーからだろっ。話す気になるまで、放してやんねーからな」

「キッド~……」

 諦めたように脱力する聖。

 喉の奥でくっくっと笑いながら、キッドは悪戯っぽく尋ねた。

「どうだ、話す気になったか?」

「わ……わかった。話すよ、話すから……」

「よし」

 笑いながら腕をほどいたキッドを、聖はけほけほとせき込みながら軽く睨む。

 が、キッドはそんなことにはお構いなしで、話をせがむように身を乗り出した。

「ほら、話せよ、約束だぜ」


 ――そういうのは脅迫っていうんだよ……


 まるで、手のかかる弟が増えたような気分である。

 が、それをまんざらでもなく思っている自分に気づいて、聖は微苦笑しながら口を開いた。

「僕……さ。ずっと思ってたんだ。どうして僕は末っ子になんか生まれてきたんだろう、って――」

 ふと翳る、優しさに満ちた顔。

 それは、キッドが初めて聖に弱気な態度を見せたように、聖もまたキッドに初めて見せる暗い表情だった。

「聖……?」

 心配そうなキッドの声。

 聖はふっと笑ってキッドの頭をぽんぽんと叩いた。

「僕さ、4人目にしてやっと生まれた長男で、僕が生まれたときにはもう、桜華姉さんは8才、月夜姉さんは4才だったろ。だから生まれてからずっと、ずっと甘やかされて、ちやほやされながら育ってきたんだ」

 気が付けば必ず誰かがそばにいた。

 周囲にいる全ての人間の愛情、溢れるほどの沢山の想いを一身に受けて育ってきた。

 それは、きっと本当は一番幸せな子供時代。

「でも、僕はずっと不満だった。僕は末っ子だから、何をしても、どんなに頑張っても、どうしても認めて貰えなかった。みんなにとって、僕はいつまで経っても可愛くて頼りない末っ子……そんな立場が、僕はどうしても我慢できなかったんだ」

 どんなわがままを言ったって許されてしまう。

 それは、みんなに愛されているからだけじゃない。

 みんなが、自分を対等に見てくれていないからだ。

「実際はさ。僕なんかより月夜姉さんの方がよっぽど危なっかしかったから、いつだって僕が姉さんの世話を焼いてた。色んな人に、僕の方が兄さんみたいだって言われたよ。でも、いくら兄さんみたいでも、姉さんの世話を焼いても、それでも月夜姉さんが僕を見る目は『姉』の目で……そして、僕はやっぱり『弟』だった。いつまでたっても、僕は『頼りない末っ子』って呪縛から逃れられなかったんだ」

 それは仕方のないことなのかも知れない。

 たとえどんなに頑張ろうと、時間の流れを変えることは出来ない。

 間にある時間の溝を埋めることなんて出来やしない。……でも。

「お前に出会って、初めて思ったんだ。そんなの……僕の一人相撲だったのかも知れないって」

「オレ……?」

 きょとんと自分を指さすキッドに、聖は頷いた。

「お前は、最年少なんて言われながら、ダルス隊で立派に頑張ってるだろ。ダルス隊の全員、お前を対等に扱い、信頼してる。……年の差なんてさ。本当は、何も関係ないのかも知れない。みんなが僕を末っ子としてしか見てくれないのは、もしかして本当に、僕が頼りないせいなのかも知れないって、思うようになったんだ」

 その途端、キッドが思い切りよくソファから立ち上がった。

「そ、そんなことねぇよ!お前、いつだって月夜の後くっついてまわって、あいつの世話してるじゃねぇか!あ……まぁ、今はウィンがそれ、やってっけど……でも、お前が頼りないなんて事、絶対にない!」

 まるで自分のことように顔を真っ赤にして怒るキッドに、聖は微笑む。

「……そうじゃないんだ。みんなが僕を末っ子としてしか見てくれないんじゃない。僕自身が、末っ子って立場に甘んじて、そこから抜けだそうとしていないだけなんじゃないかって、そう思ったんだよ。潜在的に、家族に頼ろう、甘えようって意識があるから……無意識に家族に依存してるから、だからみんな、僕を頼りなく思うのかも知れない。自立させて貰えないんじゃない。僕が本気で自立しようと思ってないせいなんじゃないかって……そう思ったんだ」

 自分の中から外を見るのではなく。

 外から自分を見つめられるようになること。

 『自分』と『他者』を平等に見つめられるようになること。

 それが『子供』から『大人』になる第一歩なのかもしれない。

 聖はやっとその一歩を踏み出そうとしていた。

「……」

 キッドには、聖の言う理屈がよくわからなかった。

 彼が見る聖は、本人が言うように頼りなくは見えなかったし、キッドにとっての聖は十分頼れる存在だったから。

 でも、それでも、キッドも聖の中で何かが変わろうとしているのだけは、何となく分かった。

 そして、それを嬉しく感じている自分もまた何かが変わろうとしているのを、彼は気づいているのだろうか。

 キッドが聖の肩に手を置く。

 目が合うと、何となく笑いがこみ上げてきて、二人はワケもなく笑いあうのだった。




――Parents? No,Lovers――


「……ご苦労様でした、あなた」

 一年がソファに座って疲れたように肩を叩いていると、四季子が緑茶を持ってやって来た。

「おや、これは?」

 驚く一年に、四季子はちょっとだけ自慢げに微笑む。

「ダルスのみんなに説明して、似たようなものを探して貰ってたんです。たまたま、この村に来た遊牧民が置いていっていたらしくて。……さ、冷めないうちにどうぞ」

 四季子の差し出すお茶を嬉しそうに受け取り、一年はちらっと娘達を見やった。

 その視線に気づき、四季子は笑う。

 娘達は、それぞれ幸せそうな顔をして何やら話に花を咲かせていた。

「……どうやら、一斉に春が来たようですね」

 そう言って笑う四季子に、一年は顔をしかめる。

「やっぱり父親としては許せませんか?」

 おもしろそうに尋ねる四季子に、しかし一年は寂しそうに肩を落とした。

「……認めたくはないがね。だが、こんな突拍子もない世界で私が正常でいられるのは、きっと守るべき人、愛する人がいるからだ。あの子たちよりずっと厳しい社会で生きてきた筈の私でさえ、もし一人きりだったらこの環境に耐えられたかどうかと思う。だからもし……もし、あの子達が彼らに想いを寄せることで、少しでも心の平穏を感じることが出来るのなら……それは許すしかないだろうと思っているよ。今は、特別な状況下だから仕方ない、とね」

 もっとも、これが結婚となるとそうはいかんだろうがね。

 そう言って笑う一年に、四季子は悪戯っぽく笑った。

「……?」

「同じ事、したんですよ」

「え?」

「あなただって」

 四季子はくすくすと笑った。

 何年一緒にいても、彼女の笑い声は耳に心地いい。

 年を経るたび、慣れるどころかむしろ募っていく想いに息を飲みながら、一年は聞き返した。

「……私が、一体何をしたと言うんだい?」

「あら、自覚してないんですか?――あなただって。あなただって、彼らと同じように父の娘だった私を、父から連れ去ったんですよ」

 一人娘だった四季子を失い、一気に年老いた父。

 結婚を強固に反対し、子供のように意地を張り続けた彼に閉口したこともあったが、今ならその気持ちが理解できた。

 一年ははぁ、と肩を落とし、ため息を付く。

「……まさに、因果応報というやつなんだな」

 その声があまりに恨めしげで寂しげで、四季子は思わず吹き出した。

「あなたったら。――大丈夫。あなたには、私がいるじゃありませんか。これまでも、これからもずっと。……それでは、不服ですか?」

 横に座り、一年の腿にそっと手を置いて、優しく尋ねる四季子。

 一年もまた優しい笑みを返し、ゆっくりと首を振った。

「……そうだな。たとえあの子達が私から離れていっても。それでも、私のように幸せになれる相手がいるのなら……同じ想いを感じることが出来るのなら……それも、悪くはないかもしれんな」

 すんなり認めてやるつもりはないがね。

 そう言って笑う一年に、四季子は小さく呟いた。

「相当苦労しそうね、あの子達」

 桜華も、月夜も、陽南海も。

 ほんの少し前までは子供だと思っていた娘達。

 それが、この世界に来たことで見違えるほど綺麗になり、大人びてきた。

 一年にはああ言ったものの、彼女自身もまた、その事が少しだけ寂しい気がする四季子だった。




――Ending――


「……ふむ。どうやら上手く行ったようだな」

 一人、シャンペングラスを片手に広間の様子を見ていたリディニークが、満足そうに頷いた。

 ちろちろと軽やかに火がはぜる暖炉の脇に立ち、静かにパーティの喧噪を楽しんでいる月夜達の姿に、リディニークはふっと笑う。

『リディニーク』

 その時、ふと頭の中に柔らかな声が響いた。

「!!……母上様」

 久しぶりに聞く母の声に、リディニークは意識を内なる心へと向ける。

 母神ラヴィーナはゆったりとした気配をまといながら、静かに言った。

『よくやりましたね、リディニーク。あなたのおかげで創造神様もご家族の方々も、すっかりくつろがれているご様子。……母は感心しましたよ』

 18人いる我が子のうちでも一番精霊に近い性質を持つリディニーク。

 お世辞にも神様らしいとは言いかねる気ままな生活を送っている彼の姿に、ラヴィーナも天界の神々も、少なからず不安を抱いていたのだ。

 と、リディニークは苦笑した。

「これは、私の力ではありません」

 そう言って、リディニークはそれぞれ、月夜やその兄弟達のそばにいるダルス隊に目を向ける。

「確かに、創造神様はだいぶお疲れのようでした。いきなり別の世界へ放り込まれ、慌ただしく旅を続けたんだ、それも当然でしょう。だから私はその心の疲れを癒していただくためにパーティを提案し、村人を呼びました。嫌なこと、辛いことがあったときは、みんなで騒いでぱーっと忘れる。それが、私のやり方ですから」

 ……でも。

 そう言ってリディニークは笑う。

「――でも、どうやら私のしたことはいらぬお世話だったようです。創造神様にも、ご家族の方々にも、ちゃんと守ってくれる人間がそばにいる。その笑顔を守り、心を支えようとする者達がいる。――ダルス隊がそばにいる限り、創造神様のことは心配いらないでしょう。……いや、全くあてられっぱなしですよ」

 雪と氷河の女神ラヴィーナも笑った。

『リディ、創造神様に伝えて下さい。この全世界に散らばるあまたの神々、その全てがあなた様の御前に姿を見せることは出来なくても、それでも、私達は旅の無事と願いの成就をお祈り申し上げています、と』

 その凄まじい力のゆえに長い間下界にとどまっていることが出来ないラヴィーナの名残惜しそうな意識が、やがて薄らいでいく。

 こちらも、その持てる力の働きゆえに、長い間下界を離れるわけには行かないリディニークは、ほんの少しだけ寂しげにため息を付いたが、小さく頷いて顔を上げた。

『伝えます、母上様。そう……創造神様は、この頼りなげで可憐な少女こそは、この世界で誰よりも愛されるべき至尊の存在なのだから……』

 その時、村人達がリディのそばへ駆け寄ってきた。

「リディニーク様、一緒に踊りましょう!」

 楽しそうに頬を紅潮させ、腕を取る娘達にリディも笑顔を浮かべる。


 ――オレは一人じゃない。たとえ共に時間を歩むことは出来なくても、オレはずっとこの地にとどまり、こいつらの行く末を見続ける。こいつらが歩み、進む歴史をずっと……。


「……よし、行くか!」


――雪は神様の贈り物。

 すべての地に降る『愛』と言う名の涙のしずく。

 辛いときには雪を見つめて。

 悲しいときには空を見上げて。

 神様の涙を受け止めてごらん。

 きっと、心が温まるから。

 雪降るすべての街角に、この想いが届きますように――

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