第5話 月の輝く夜に

「どうしました?桜華」

 ユリウスは柱の影から出てきた桜華に声をかける。

「ちょっと眠れなくて――それ、お酒?」

 情けなさそうに微笑むと、桜華はユリウスの持っているグラスを指さして言った。

「え、ああ……ええ」

 彼女の言葉に、ユリウスは頷く。

 桜華はユリウスの座るテーブルの反対側に腰掛け、言った。

「くれる?わたしにも」

「かまいませんが……強いですよ?」

 ユリウスが心配そうに言いながらグラスを差し出す。

 受け取って一口なめたあと、桜華はそれを一気に飲み干した。

「お、桜華!」

 ユリウスが慌てたような声を上げる。

 桜華はグラスを下げると微笑んだ。

「……平気。おいしいわね、これ」

 平然と笑う桜華に、ユリウスは半ばあきれ顔でため息をつく。

「強いんですね」

「嫌い?お酒の強い女は」

 猫のように小首をかしげ、上目遣いに見上げる彼女に、ユリウスは静かに微笑む。

「……いいえ」

「そう。よかった、わたしのこと嫌いな人と一緒に飲んでも、おいしくないもの」

 そう言って、桜華はふう、とため息をついた。

 ユリウスも黙ってグラスに口を付ける。

 そのまま、会話らしい会話をかわすこともなく、二人はただ静かにグラスを傾けていた。

「――静かね」

 やがて、桜華が口を開く。

「なんだか……黙っていたら、耳がおかしくなってしまいそう」

「そうですか?」

 そう言って、ユリウスは周りに顎をしゃくる。

「ここにだって、音はありますよ。風が木の葉を揺らす音や、夜露が落ちる音、夜行動物の息づかいも――」

「あなたは知らないから」

 ユリウスの言葉を遮り、桜華はさびしげに微笑む。

「……あなたは知らない。わたしたちの世界がどんなものか――わたしたちがどんな世界に住んでいたのか。あそこにはいろんな音があふれていた。なかには騒音だってあったけど……でも、心地よい音もそこら中にあふれてた」

 テーブルの上で組んだ腕に頭を乗せ、桜華は目を閉じる。

「夜だって決して静かなんかじゃなかった。車の音や隣の家から聞こえてくる音楽……そんなの、ここにはないものね――あぁ、誤解しないで。ここが嫌だって言ってるわけじゃないの。ここは素晴らしいところよ。夜は闇が世界を覆い、朝は光が周囲を照らす。本来の自然の姿は、こんな風なんだろうって思う。……でも、わたしたちにとってここは別荘地のようなものだから」

「別荘地?」

 ユリウスの呟きに、桜華は頷く。

「そう……年に何度か来るにはいいところ。でも……毎日の生活を送れるとは思えないところ。――わたしは、生まれてからずっと都会で暮らしてきたから……こんな静かな場所だとね。なんだか……自分が自分でなくなってしまいそうな気がして。不安になるの」

 そう言って、桜華は再びグラスに口を付ける。

「それに、仕事だってあったし……会いたい人だっているしね」

 桜華がそう呟くと、ユリウスは口に持っていきかけた飲みかけのグラスを再びテーブルに戻し、呟く。

「……大切な人……なんですか?」

「えっ?」

「その会いたい人は……あなたにとって、とても大切な人なんでしょうね」

 寂しげなその口調に、桜華はびっくりして顔を上げる。しかし、彼女は笑ってすぐに頷いた。

「――ええ。とても大切な人よ。仕事の上司なの。大学時代からの先輩でね、とっても素晴らしい人よ。明るくて、さわやかで、誰にでも言いたいことがきちんと言えて、でも誰も傷つけなくて。仕事もできるし、料理なんかも上手だったりするの。ほんと、完璧な人だったわ」

 懐かしげに目を細める桜華。そんな彼女を見つめ、ユリウスはふっと目を伏せた。

「愛しているんですか?」

「……えっ?」

「あなたはその人を――いや、愚問でしたね。あなたがそんな風に言うのは、きっとその人を愛しているからなのでしょう」

 ユリウスは微かな笑みを浮かべ、再び顔を上げる。

 桜華は戸惑った表情のままその顔を見つめていたが、やがて何を思ったのか目をいたずらっぽくきらめかせ、言った。

「その人……女の人よ」

「――えっ?」

 驚いた表情のユリウスに、桜華はさらに顔をほころばす。

「女子大だったの、わたし。――その上司って人は、その頃からの先輩で立派なキャリアウーマンなのよ。……私の憧れなの。あんな風になれたら、わたしも少しはいい女、って呼ばれるかな、って」

「あ……女性……そう……だったんですか。あなたがあまりに嬉しそうに話すので、わたしはてっきり――」

 見るからにホッとした表情でユリウスが言う。

 桜華は頬杖をついて彼の顔を見上げた。

「ねえ」

「はい?」

「もしかして……ちょっとは焼き餅やいてくれた――とか?」

「えっ……いえ、わたしは別に――」

 言いかけて、ユリウスはふっと肩を竦める。

「?」

「そう――ですね。ええ、そうかもしれません。わたしには、あなたのような人こそ憧れですから。自分の憧れる人間に他人の自慢話をされるのは、確かにあまり気持ちのいいものではありませんでしたね」

「憧れ……わたしを?やだ、冗談ばっかり」

 照れくさげに笑って、桜華は酒を飲み干す。

 ユリウスは静かに微笑んでそのグラスに酒をつぎ足した。

「本当ですよ。わたしにはあなたのように好きなことや思ったことをはっきりと口にする勇気はありませんから。ずっと、うらやましいと思っていたんです。あなたのように強い人を」

「そんなこと……わたしはいつだって、誰も傷つけないように思いやるあなたのことをうらやましく思っていたのに。他人を思いやる気持ちは大切なものだわ」

「しかし、傷つけあわなければ絆は強くなりません。あなたの周りには……そんな風に強い絆で結ばれた人が大勢いるのでしょう」

 ユリウスがさびしげに微笑む。

 彼の感情の浮き出た表情を初めて見たような気がして、桜華はドギマギしながら笑った。

「……何だか、お互いに『ないものねだり』してるみたいね、わたしたち」

 その言葉にユリウスも微笑む。

「そうですね」

「でも、いいのよ。あなたは今のままのあなたで。わたしは、変わってほしくないわ」

「……ありがとうございます」

 ユリウスは微笑んで、再びグラスを取り上げた。桜華もそれにならう。

 そして、二人はまた、沈黙の中へと身をゆだねた。

「――ねえ」

 再び沈黙を破ったのは、桜華の方だった。

 なんだか、このまま黙っていたら、時間だけが無駄に過ぎていくような気がしたのだ。

「はい?」

 何気なく目を合わせるユリウスに、桜華は一瞬、息をのむ。

 自分が何を言おうとしているのか、初めてわかったのだ。

 普段の彼女なら、咄嗟にごまかしていたかもしれない。が、体に回ったアルコールが、彼女の背中をどん、と押した。

「そっち……行ってもいい?」

 桜華はユリウスの座る、幅広の一人掛けソファを見る。

 彼は一瞬、驚いた表情を見せた。しかし、その表情はすぐに微笑みに取って代わる。

「……かまいませんよ。どうぞ」

 そう言って、彼がスペースを空けると、桜華はおずおずと彼の隣に腰掛けた。

 一人掛けとは言え、女性なら優に二人腰掛けられるその幅広のソファは、しかし男のユリウスが座っているため、隣にはギリギリのスペースしかない。

 直接、触れはしないものの、紛れもなく彼の体温を肌で感じ取れるほど接近した桜華は、いつもらしからぬ緊張した自分に、内心あきれながらため息をついた。

 何やってんだろ、わたし。もうすぐ二十六にもなろうって女が、お子様じゃあるまいし……

「――桜華?」

「!あっ、はい!」

 ビクッ、と体を震わせ、桜華は隣のユリウスを見上げる。

「見て下さい、月が――」

 そう言うユリウスの視線を追った桜華は、はっと息をのんだ。

「綺麗――」

 この幻地球の月は、現実の世界にあるものと少し違う。その輝きは黄金色。そして燃える炎のような金色(こんじき)のゆらめきが、どんなに月が欠けて細くなろうと、ちょうど太陽のようにまん丸く月を縁取っている。

 そして今日は、どんよりと空を覆っていた厚い雲の隙間から、その月が光とともに覗いていた。

 その姿は、まるで月の女神(ルナー)が雲の隙間から降臨してきたような神秘さをたたえている。

 桜華は我知らず、ぎゅっとユリウスの袖をつかんでいた。

 それに気づいたユリウスは、その小さくほっそりとした手を自分の大きな手でそっと包み込む。

 そのぬくもりの心地よさに、桜華は暫くしてやっと気づいた。

「あっ……」

 咄嗟に手をふりほどこうとしたものの、体は言うことを聞かない。

「……」

 ――手から伝わるぬくもりが、桜華の心をゆっくりと溶かしていった。

「……」

 そっと指を動かすと、ユリウスの手が離れる。

 そのまま黙って何も言わず、再びグラスを手に取ったユリウスに、桜華はため息をつきながらそっと寄りかかった。

 彼の方でもそれを予測していたかのように、マントを広げて彼女の肩を抱く。

 桜華の心に、得も言われぬ安堵感が広がった。

「なんだか……眠くなってきちゃったな」

 彼の鎖骨に頭を乗せながら桜華は呟く。

「お酒のせいかな。それとも……心の中を誰かに聞いてもらったからかな。もしかしたらあんな綺麗な月を見られたからかも――」

 憑かれたように話し続ける桜華の唇を、ユリウスの指がそっと塞いだ。そして物問いたげに見上げる彼女の顎を人差し指と中指ではさむように支えたまま、親指で頬をなでる。

「何も言わないで――さあ、目を閉じて。……ゆっくりとお休みなさい。あなたに安らかな眠りの訪れんことを――」

 染みわたるような彼の低い声に、桜華はゆっくりと目を閉じた。

 スッ、と彼の顔が近づき、その唇がゆっくりと押し当てられる。

 ほんの一瞬の軽いキスの感触の後、桜華は静かに眠りの中へ落ちていった――。

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