第6話 ゴキブリPANIC!

■PART1――桜華の場合


「桜華。さっき頼まれた件ですが、もう少しお聞きしたいことが・・・」

 深夜。

 桜華の部屋の明かりがついていることを確認したユリウスは一抱えほどある資料を持って彼女の部屋を訪れた。

 今は深夜1時。元々が夜型で朝の3・4時まで起きているのが普通の彼女は、今頃はまだ普段着のまま本でも読んでいるか何かしているはずだった。

「……桜華!?」

 しかし、今夜は違った。部屋のドアは開いていたので中には入れたものの、入り口で何度呼んでも彼女の声はしない。

 しかし、かと言って、まるっきり気配がしないわけでもない。

 彼女の気配が感じ取れるわけではなかったが、何となく留守ではないような雰囲気は感じ取れた。

「桜華?どこです?桜華?」

 一瞬ためらったものの、ユリウスは部屋に入ることにした。

 ここは神殿の最深部で、さほど危険はないとはいえ、絶対に安全というわけではない。

 もし、彼女の身に何らかの危険が及んでいたとして、そしてもし、何らかの事情で声が立てられないのだとしたら……

 ユリウスは入り口でおおげさにため息をつき、ドアを大きな音を立てて閉めた。

 もちろん、本当に出ていったわけではなく、もしかしたらいるのかもしれない不逞の輩に対しての警戒からだ。

「……」

 そうして、ユリウスはそっと部屋の中を見回り始めた。

 部屋と一口に言っても、この神殿はこの国で最も立派な建物。部屋の一つ一つはまるで超高級ホテルのスイートルームのように豪勢で、各自大理石のキッチンや天蓋付きのキングサイズベッド、10人くらいは余裕で入れる浴場とでも言うべき浴室、果てはジャグジーやプールまで完備されている。

 ユリウスはその一つ一つを慎重に見回りながら、最後に二十畳ほどの居間へやってきた。

 ここにはバーカウンターがしつらえてあり、ユリウスもこれまでに幾度となく、桜華とグラスを傾けてきた。

 そう言えば、彼女、街で珍しいお酒を手に入れたと言っていましたね……もしかして酔いつぶれているのでしょうか……?

 妙に嬉しそうな顔をしながら(それでも一応警戒は怠らず)部屋に入っていくユリウス。

 彼女を介抱するためベッドサイドにいる自分を想像しながら、部屋に入っていった彼の目に真っ先に飛び込んできたのは、期待した酔いつぶれた彼女の姿でもなく、賊に取り押さえられた彼女でもなく、ただ壁際にはりつき、うつろな目をして固まっている桜華の姿だった。

「お、桜華!」

 ユリウスはあわてて彼女のそばに駆け寄る。

「いったいどうしたんです、なにがあったんですか、桜華?」

 そう呼びかけてみるものの、彼女のうつろな瞳には光が戻ってこない。

 ただ、それでもユリウスの言葉は耳に入ったようで、桜華はのろのろと大儀そうに、その腕をある方向に差し上げた。

「……?」

 いったいなにがあるのか、と振り返るユリウス。

 と、そこには一匹の黒々とした虫がカサコソ音を立てて蠢いていた。

 いや、それはそんなにグロテスクな様相はしていなかった。少なくとも、ユリウスにはそう見えた。

 それは茶色い体がつやつやと光っていて、長い触覚がぴくぴくと動くただの昆虫で、別段、牙があるようにも毒があるようにも見えなかった。それどころか、それは光に弱く極端に臆病なようで、ユリウスの気配を察してカサカサッと猛烈なスピードでどこかへ消えてしまった。

「……どうしたのですか、桜華?なにをそんなに怯えているんです?ただの虫ですよ、それもいなくなってしまいました。それが何か……?」

 ユリウスは不思議そうに訪ねる。

 桜華は夢にうなされたように呟いていた。

「ゴ……ゴ……ゴキブ……リ……ゴキ……ブ…リ…」

「ゴキブリ?」

 初めて聞く単語であった。

「何です、それは?さっきの虫のことを言っているのですか?違いますよ桜華。あれはブラウン・ウィングと言って、臆病なだけの無害な虫です。人の住む薄暗いじめじめっとした場所を好みましてね、時々突然出てきては人を驚かすのですが、彼らそのものは極端に臆病で、人の気配を察知しただけで逃げてしまうんですよ。……聞いていますか?桜華?」

「や……いや……ゴキブリ……いや……いやああああっっっ!!」

「お、桜華!?」

 ユリウスは慌てた。桜華と同じ世界に住むならまだしも「ゴキブリ」という単語すら知らない彼には、無害で臆病な虫をここまで怖がる桜華の気持ちがまるで分からない。

 ……そう、わからない。しかしそれでも桜華が怯えて錯乱状態になっているのは確かで、わけがわからないなりにユリウスは彼女を落ち着かせようと腕を伸ばした。

「桜華…桜華、しっかりしてください、落ち着いて……もういません、あの虫はもういませんから……桜華?」

 ぶるぶると、大きく体をふるわせている桜華。

 その瞳は大きく見開かれ、ただどこか遠くを見ている。

 せめて泣いてくれれば、まだよいのですが……

 ユリウスはそう思いながら、ただじっと彼女を腕に抱きしめていた。

「うっ……ふっ……う……」

 やがて、すこし落ち着いたのだろうか。

 体のふるえが少しずつ小さくなり、桜華の瞳から大きな涙があふれ出してくる。

「桜華……桜華、わかりますか?わたしです、桜華……」

「ユ……ユリウス……わ、わた、わたし……」

 どうやら錯乱状態は収まったようだ。

 ユリウスは安堵の息をつき、少しだけ体をはなして桜華の顔を見ようとした。

「やっ……!」

 しかしどうしたわけか、今日の桜華は二度と彼をはなすまい、とでも言うようにしっかりとその服を握りしめている。

「桜華……」

 すこしだけ困った顔をしながら、ユリウスはその髪にそっと口づけた。

「……どうしてかはわかりませんが、あの虫が怖いのですね?桜華…」

 こくん、と彼女の頭が縦に振れる。

「でも、虫はもういなくなってしまいましたよ?さあ顔を上げて。私によく見せてください、桜華……」

 しかしそれでも、桜華は顔を彼の胸に埋めたままだ。

 時折、その体が大きくふるえる。

 おそらく先ほどの恐怖が思い出したように蘇ってくるのだろう。まるで悪夢を見て泣きながら起きたときのように。

「桜華……」

 少しばかりのため息とともに、ユリウスは片手で彼女の肩を抱き、もう片方の手を差し上げた。

 そして、指をパチン、と鳴らす。

 と、どこからかピエロの格好をした小さな人形が空中に現れた。

「……」

 その人形は空中を泳ぐように桜華のところまでくると、とんとんっ、とその肩をたたく。

 そしてその愛らしい口をパクパクとさせながら言った。

「ナクナヨ、オーカ」

「……?」

 その、まるで悪戯ざかりの少年のような声に、桜華はびっくりして顔を上げる。

 と、目の前には無表情に、しかし心配そうに首を傾げて彼女をのぞき込む人形の姿があった。

「あ……え……?」

「ナクナ、オーカ。ダイジョウブ」

 人形は涙で光る彼女の頬をなで、空中でくるん、と一回転してみせる。

「ダイジョウブ……オレ、マモル、オーカ……ダイジョウブ……ナカナイデ」

「あなたは……?」

 あまりのことに毒気を抜かれたのか、人形相手に真剣に語りかける桜華。

 人形は得意そうに胸を反らし、言った。

「オレ、スーリュ。オーカ、ヘイキカ?ナカナイデ……」

「スーリュ……スーリュ?」

「ドウシテ、ナク?オーカ。サビシイ?クルシイ?オーカ、オーカ、ナカナイデ……」

 ふるふるっ、と首を振る桜華。

 人形……スーリュは再び続ける。

「オレ、オーカ、ナク、カナシイ。ダカラ、ナカナイデ、オーカ……ドウシタノ?」

「怖くて……びっくりしたの。ごき……ぶりが……あ、ありがと」

 再び涙を浮かべた桜華の瞳を、人形が優しく拭う。

「それで……びっくりして、私……私、嫌いなの、あれ……どうしても、子供の頃からすごく……嫌いで……怖くて……なのに、一人っきりで……どうしていいかわからなくて、私……」

「ダイジョブ、オレ、マモル、オーカ。モウ、ダイジョブ。オーカ、ダイスキ。オレ、マモル。ダカラ、ナカナイデ。ナカナイデ、オーカ」

「……うん」

 桜華は子供のようにこくん、とうなずいた。

 ……次第に、彼女の瞳に光が戻っていく。

 そして、気がついた。

「ユリウス……」

「落ち着きましたか?桜華」

「あ……ええ……あれ?」

 夢と現実の意識の狭間で、きょとん、とする桜華に、ユリウスは必死に笑いをこらえる。

「あ……私……えと……あれ?」

 と、再び人形が肩をたたいた。

「スーリュ……」

 スーリュ……スウ……リユ?

「あ…え……ユ…リウ…ス?」

「はい」

「あ、これ、貴方が?」

「コレ、ジャナイ。オレ、スーリュ。スーリュ、ニンギョウ。デモ、オーカ、ダイスキ。オレ、マモル。オーカ、ダイスキ。ダカラ、マモル。ナカナイデ……」

 再びスーリュが口を開いた。ちょっと不服げに。ちょっと拗ねたように。

 桜華はスーリュを手に取り、ほほえむ。

「ごめんなさいね、スーリュ。私を慰めてくれるのね?ありがとう、嬉しいわ」

 と、スーリュはすぐに機嫌を直して手足をバタバタさせる。

「ウン。オレ、ナグサメル。オーカ、ウレシイ?オレモ、ウレシイ。ウレシイ、オーカ。オーカ、ダイスキ」

「ふふっ……可愛い……私のナイトね?ずっとそばにいてくれる?」

「ウン!」

 そう言ったスーリュの後ろ襟首を、脇からユリウスがつまみ上げた。

「……おまえの出番は終わりですよ、スーリュ。ほら、おとなしくお部屋へ戻りなさい」

 ネコのようにつまみ上げられたスーリュはジタバタと暴れている。

「ヤダ!ヤダヤダヤダ!オレ、イッショ、オーカ、ヤダ!タスケテ、オーカ!」

 桜華はくすくすと笑い、ユリウスの手からスーリュを助ける。

「だめですよ、桜華。この子はもう部屋へ戻さないと。……それとも、私よりその子の方がいいですか?慰め役は……」

 ほんの少ししょんぼりとした様子で、かなりうらめしげにスーリュを見つめるユリウス。

 桜華はまだくすくすと笑い続けながら言った。

「いいじゃない?たまには……だって、この子、可愛いし。ねえ?スーリュ」

「ウン!」

 桜華がスーリュをぎゅっ、と抱きしめる様子を見ながら、はあ、とため息をつくユリウス。

 本当なら、ここでああやって彼女に抱きしめられるのは自分だったかもしれないのに。

 私はただ、彼女を落ち着かせようとして……はあ。

 二度目のため息をついた時、突然あたたかいぬくもりが彼の頬に触れた。

「えっ……?」

 びっくりして顔を上げると、おかしそうに微笑む桜華がいる。

「お、桜華?スーリュは……」

「あの子には条件付きで帰ってもらったの。……だって、二人っきりのほうがいいでしょう?……」

 するり、と彼の腕の中にすべりこみ、微笑む桜華。

 フッ、と微笑みを返し、同時にその唇にキスの雨を降らせながら、ユリウスはふと尋ねた。

「……条件って?」

「今度三人で外に遊びに行きましょう、って」

「……そうですね、それもいいでしょう。ただし……」

 不思議そうな顔をする桜華をヒョイ、と抱き上げ、ユリウスは桜華の耳元で悪戯っぽく囁く。

「その時も、途中でお帰り願うかもしれませんけどね……」

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■PART2――月夜の場合


「うわわぁぁっ!」

 ウィンは、突然目の前に差し出された「それ」を見て、思いっきり飛びすさった。

「つ、月夜、それ……!」

「え?」

 「それ」を手のひらに乗せたまま月夜は首を傾げる。

「どうしたの?ウィン」

「ど、どうしたのって……オ、オレ、オレ、そいつ苦手なんだよ。蛇とかクモとか毛虫とか、そーゆーのは全然平気なんだけど、その……そのブラウン・ウィングだけは……」

「ブラウン・ウイング?これ、こっちではそういう名前なの?」

「こっちでは、って……君たちの世界にもいるのかい?」

「ええ。もっとも、あっちでは「ゴキブリ」っていうんだけど」

「うっわー、なんてナイスなネーミング……って、そーじゃない!は、早くどっかへ捨ててきてくれよ、月夜!オレ、ほんっとにダメなんだよ!」

「……変なウィン。この子、別になにもしないのに……そう言えばお姉ちゃんもひなちゃんもひぃ君まで嫌いなのよね……変なの……」

(……いや……変なのは君の方だと思うけど……)

「あのね、ウィンがイヤなんだって。ごめんね、ばいばい」

 そう言って、月夜はそっと「それ」を地面に置いた。

 「それ」はしばらくの間、別れを惜しむようにそこにとどまっていたが、やがて草むらの中へ消え去ってしまった。

「これでいい?ウィン。……?どうして逃げるの?」

「あ、いや、その……」

 さすがに、あいつが乗ってた手がイヤで……とは言えない。

 ウィンは内心脂汗を流しながら、無理矢理微笑んだ。

 が、月夜はすぐにわかったようだ。

「あ、そうか。手洗ってくるわ、ちょっと待っててねウィン」

「い、いや、オレは別に……」

 慌てて言い繕おうとするウィン。しかし月夜は別段怒った風でもなく、優しく微笑みながら振り向いた。

「いーの、無理しなくても。お姉ちゃんたちもよくそう言ってたもの。私にはどうしてかわからないけど……でも、私が平気だからって他の人にもそれを強要するほど子供じゃないわ。……待っててね。絶対よ」

「……ああ」

 今度こそ本当に、ウィンは心から微笑みながらうなずいた。

 やっぱり彼女は優しい。見かけだけじゃなく、心の底から。

 ……それがオレだけじゃなく誰にでも、っていうのがちょっと残念だけど……あ、いやいや。そうじゃないよな、それが彼女のいいところなんだから、それがいやだなんて言うのはオレのわがままだし……でも……もっと…そう、もっと、オレだけに……オレだけに笑ってくれたらいいのに……

 そんな風に考えているうちに、月夜が戻ってきたようだ。ぱたぱた、という可愛い足音が聞こえてくる。

「お待たせ。……ごめんね、ウィン、大丈夫?」

「え?」

「汗かいてる…ほら」

 月夜はつっ、とウィンのそばにより、その額に手を当てる。

「!!」

 ドクン、と心臓が飛び跳ねた。

「わ、あ……あ、いや、大丈夫。大丈夫だよ、うん」

 慌てて身を引いたウィンに、月夜はちょっとだけ残念そうな顔をした。しかしすぐに気を取り直して微笑む。

「……でも、おかしい」

「え?なにが?」

「男の人が……それも、ウィンみたいな人が、ゴキブリが怖い、なんて」

「……そーゆー言い方することないだろー。ダメなもんはダメなんだから……」

 ぷっ、とふくれて言い返すウィン。

 慌てて、月夜は彼の腕にしがみついた。

「ご、ごめんなさい、わたし、そういうつもりじゃ……ねえ、怒ってる?ごめんなさい、わたし……お願い、怒らないで……」

 か、可愛い……

 一瞬、ウィンはそんなことを考えた。そして、はっと我に返る。

「あ、いや、いや、怒ってない。怒ってないよ。ただ、ちょっと……うん、ちょっとだけイヤな気持ちがしたかな。でも、月夜が謝ってくれたから、いいよ。だから、もう気にしないで。……もう言わないだろ?」

「うん。言わない。絶対。約束する」

 心底まじめな顔をしてそう頷く月夜に、ウィンはちょっぴり悪戯っ気を起こす。

「うむ……ならば、許してつかわす」

 わざと尊大に、顎をあげるウィン。ほかの人間なら不快に思うかもしれないが、ウィン自身がそう言う口調を一番嫌っていることを知っている月夜は、ただくすくすと笑うだけだ。

「ありがとうございます、ウィンストン・ウィリアム殿下……きゃっ!」

 と、突然ウィンが彼女を抱きしめた。

「それは言わないって約束したろ?オレは確かに王家の人間だけど、今は違う。今は神に仕える一人の戦士で……君だけのナイトだ。殿下なんて呼ばないでくれ。君が遠くに行ってしまった気がするよ……」

「ウィ、ウィン……あの……ご、ごめんなさい……」

 耳まで真っ赤にしながら月夜が呟く。

 心臓が飛び出しそうにばくばくと脈打っている。

 抱きしめられた彼の腕のぬくもり、かすかに香る彼の臭い、確かな鼓動……なんだか体の力が抜けていきそうだ。

 が、ウィンはさっと腕の力を緩め、あっさりと彼女から離れた。

 ほっとしたと同時に、がっかりした自分がいることに気づき、月夜はなおさら顔を赤らめる。

 真っ赤な顔をしてうつむく月夜。

 そんな彼女をもう一度抱きしめたいと言ったら、彼女はどんな顔をするだろう。

 きっと、もっと真っ赤になって、泣きそうな顔になって……それでも、うなずいてくれるだろう。

 ……でも、ダメだ。

 彼女を抱きしめて、キスをして、それから……

 そうしたいけど、でも、彼女は「神」なんだ。それも、ほんの一瞬の気まぐれで此の世界そのものを消滅させてしまえるほど強大な力を持った「創造神」……

 こんな小さな、可憐な少女のどこにそんな力が眠っているのだろう。でも、現にオレたちは、彼女のその力を守るために共に旅をし、そして彼女の力に幾度となく助けられてきた。

 守ってやりたいと思う。どんなに強大な力を持っていても、それでも彼女はやっぱり、小さくて可憐な少女だから……涙を拭い、悲しみから守り、ずっとそばにいてやりたい……

 でも、今オレが抱きしめる以上のことをしちゃいけない。

 だって、彼女は「神」だから。強大な力を持った「神」……でも、不安定で、その力をコントロールしきれない小さな少女……

 彼女をねらう輩がいる。己のものとし、世界を我がものとせんとする不逞の輩が。

 たぶん、それは可能なことだろう。いくらコントロールし切れていなくても、彼女の中には確実に「創造神」としての力が眠っている。だから、奴らは彼女を自分のものにしようとする。彼女を我がものとし、その思いを支配し、意のままに操って――。

 ……オレは、そんな奴らにはなりたくない。

 オレが彼女を好き(ボッ!)なのは、彼女自身に惹かれるからだ。決して、彼女の力を望んでいるわけじゃない……いや……そんな力なんて、なければと思う……でも。

 でも、彼女には力がある。それは現実なんだ。だから、オレはずっとこのままでいようと思う。ずっとこのまま……彼女を守る戦士でいようと。

 ほかの誰になにを言われてもいい。でも、彼女にだけは……彼女にだけは疑われたくないから。

 彼女への思いの理由が、彼女自身への思い以外の何かだなんて。たとえ一瞬だって疑われたら、オレはきっと耐えられない。

 だから、このままでいるんだ。

 彼女の力が安定するまで。彼女が、その力を自分の意志で使えるようになるまで。

 「創造神」としての自分を受け入れ、自分になにができるのか、この世界のこと、何をしたくて、何を望むのか……それを自分自身で自覚するまで。

 ……彼女自身がオレを望んでくれるまで。

「……ン?ウィン?」

「あっ、ああ、何?」

 しまった。少しばかりぼうっとしていたらしい。

 月夜が不思議そうな顔をしてこちらを見ている。

「どうかした?何だか考え込んでたみたい」

「い、いや、何でもないよ」

「本当?」

「ああ」

「そう?ならいいけど……」

 明らかに不服そうに、でも仕方ないか、という顔つきでうなずく月夜。

 月夜……月夜。大好きだよ……

 そんな彼女に、決して告げることのできない一言を心の中で呟き、オレは笑顔を浮かべた。

「ねえ、月夜。明日、二人で街へ行かないか?おもしろい店を見つけたんだ……」

 これから先、オレはきっとつらい夜を過ごすことになるだろう。

 でも、それでもいい。

 それでも、彼女が笑顔でいてくれるなら……


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■PART3――陽南海の場合


「きゃああぁぁぁぁっっっ!!」

 突然、神殿につんざくような悲鳴が響きわたった。

 あれは……

「陽南海!?」

 シオンはイスを蹴倒す勢いで立ち上がった。

「陽南海、どうしたっ!」

 この場にほかのガーディアンたちがいたら、驚いただろう。

 シオンが大声を上げるなど、天変地異の前触れか?と思うほど珍しいことだった。

「陽南海っ!」

 シオンは今日に限って神殿に陽南海と自分しか残っていないことに苛立ちながら走った。

 彼ら二人以外の全員、今日はこの国の王に招かれて星見の会に出席していた。

 人混みが苦手なシオンと、彼が残るなら私も、という陽南海だけが神殿に残っていたのだ。

 この国一番の立派な建物で、外の警備もこの国一厳重、ということもあって今まで陽南海を一人にしておいた自分を、シオンは思いつく限りの言葉で責め立てた。

 やがて陽南海の部屋が見えてくる。

 叫び声は確かに聞こえたのに、なぜか彼女の部屋は明かりが落ちている。

 もしや賊が!?

「陽南海!無事か!」

 彼女の部屋に飛び込んだシオンは叫ぶ。

「……あ?」

 しかし、彼の目に映ったものは賊に襲われている彼女の姿でも、血塗れになって倒れている彼女の姿でもなかった。

「きゃあきゃあきゃあぁぁっ!」

 シオンに背を向け四つん這いになった陽南海は、そう叫びながら何やらスリッパを振り上げ、必死にばんばんと床をたたいていた。 

「ひ……陽南…海?」

 呆気にとられながらシオンが近づく。

 そして絶句した。

「こ……これ…は」

 薄暗い部屋の中でよくわからなかったのだが、陽南海の周囲にはカサコソと蠢く昆虫が溢れていた。

「これは……ブラウン・ウィング…」

「あ!シオン!助けて、お願い!ゴキブリが!」

「ゴ…ゴキ……?」

 この世界には「ゴキブリ」という単語はない。

 加えて言うなら、この虫を怖がるのは「虫」そのものを嫌いな人間か、幼い頃に何かトラウマでも負ったらしいウィンぐらいなものだ。

 陽南海はほかの昆虫は平気なようだったが……

 シオンは首を傾げながら部屋の明かりをつけようとした。

 しかしうまくいかない。

 その上なにかが焦げるような妙なにおいが……

 そう思ってまじまじと燭台を見たシオンは再び絶句した。

 ブラウン・ウィングが蝋燭に無数にへばりついている……

「陽南海……おまえ、いったい何をした……?」

 普段、この虫は臆病な性質である。このように無数に群れて現れ、あまつさえ己の命を奪いかねない炎のそばに寄るなど考えられない。

 シオンが尋ねると、陽南海は必死に腕を振り上げながら叫んだ。

「わかんないよ!ただ、キッドが……」

 その名を口にした瞬間、シオンの表情が一瞬強ばった。

 キッド……また、あいつか……

 軽く眉根を寄せたシオンはため息をつく。

 どうも、彼女とキッドは仲がいいのか悪いのか、寄るとさわるとケンカばかりしている。

 はたから見れば、それは掛け合い漫才のようにしか見えないのだが……

『陽南ちゃんはキッドと仲がいいのねえ』

 自分はウィンのそばにべったりとくっつきながら、月夜が笑っていたのが思い起こされる。

 それを聞いた瞬間、彼の胸にはいい知れない不快な感情がわき起こってきたものだった。

 しかし、これを見た限りではキッドはどうやら陽南海にいい感情を抱いていないようだ。

 ……いくら仲がいいほどケンカするとはいえ……これは悪戯の域を遙かに踏み越えている。

 心のどこかで妙にほっとしながら、シオンは『発光』の呪文を唱えた。

 ボウッとした光が指先から放たれ、部屋を明るく照らす。

 その瞬間、シオンは一瞬めまいを覚えた。

 ……部屋の中は無数のブラウン・ウィングでひしめいていた。

 その中央に座り、陽南海は必死で腕を振り上げている。

 その手に持たれたのはスリッパだ。

 彼女はさっきから、思わず感心するほど見事で的確な狙いでブラウン・ウィングたちを叩きつぶしていた。

 ……まあ、これだけひしめいていたら狙いを外す方が難しいかもしれないが。

「ふっ……ふえ……ぐすっ……」

 そのときになってはじめて、シオンは陽南海の顔が涙でぐしょぐしょなのに気がついた。

 その瞬間、シオンは自覚するまもなくブラウン・ウィングの中に分け入り、ひょいっ、と陽南海を抱き上げる。

「……きゃっ」

 突然抱き上げられた陽南海は慌ててシオンの首にしがみつき、バランスをとった。

「あ……シオン……?」

 驚いている陽南海にはかまわず、彼は再び呪文を唱える。

 と、突然すさまじい突風が巻きおこった。

「きゃあっ!!」

 陽南海が悲鳴を上げて彼の胸に顔を埋める。

 ブラウン・ウィングはすべてその風の中に巻き上げられてしまった。

 シオンがパチン、と指を鳴らす。

 と、部屋の中に渦巻いていた風は、ブラウン・ウィングを巻き込んだまま外へと消えていった。

「……大丈夫か?陽南海」

 そっと彼女をおろしながらシオンが尋ねる。

 陽南海はこわごわ部屋を見渡しながらうなずいた。

「……うん。ありがとう、シオン。……あー、びっくりしたあ」

 いつもながら、彼女の立ち直りは早い。さっきまで泣きじゃくっていたかと思えば、今は顔に満面の笑顔をたたえている。

 ……もっとも、その原因が彼の存在であることなど、彼自身は知るよしもなかったが。

「……聞きそびれていたな。一体なにがあった?」

 陽南海と共にソファへ移動し、勧められるままコーヒーを飲んでいたシオンは、思い出したようにふと尋ねた。

「……それが、あたしにもよくわかんないの」

 陽南海がカップをテーブルに戻し、首を振った。

「さっきキッドがどうとか言っていたな。あいつがどうかしたのか?」

「んー……関係あるのかどうか……あたし、告げ口って好きじゃないし……もしかしたら全然関係ないのかも……」

 竹を割ったような性格で、思ったことは何でも口にしてしまうような陽南海だが、他人の不利になるようなことや、秘密にしておいて欲しいようなことは決して口にしない。

 喜怒哀楽が激しく、時にはキツいことを言ったりもするが、それは相手に対してだけだ。

『面と向かって言われれば反論だって出来るけど、自分の知らないところで悪く言われたんじゃ、どうしようもないじゃない。それを知ってて悪口を言うなんて、卑怯だわ』

 いつだったか、シオンをあまりよく思っていないらしいこの国の侍女達が、ひそひそと陰口を言い合っているところに遭遇したことがある。

 シオンは別段気にも止めなかったが、陽南海は顔を真っ赤にして飛び出していき、彼女たちが反論する気さえなくすほど大声で、彼女たちをそうなじったのだった。

「……心配する必要はない。話を聞くだけだ。確固たる理由もないままあいつを悪者にするほど、オレは馬鹿じゃない」

 ……もっとも、大抵の場合、あいつが無罪だということはないが。

 シオンが心の中でそう呟くと、陽南海は安心したのか、一つ呼吸をおいて話し始めた。

「みんなが星見に行く前にね、キッドがあたしに、ってコレをくれたの……」

「ん?」

 陽南海の差し出す袋を受け取り、中身を見たシオンは絶句する。

「……陽南海」

「ん?」

「これがなんだか……知っているのか?」

「んーん、キッドはコレを庭先に蒔けば花が咲くって……何でも土に触れると急速に成長する特別な花だって……言ってたけど」

「……」

 シオンは微かに頭痛を覚えながらため息をついた。

「……約束は守れそうにない、陽南海」

「え?」

「お前には、確固たる理由もなくあいつを悪者には決めつけないと約束したが……やはり今回のことはあいつが原因だ」

「え!ど、どうして……ねえ、それって何なの?花の種じゃないの?ねえ」

「これは……ブラウン・ウィングの卵だ」

「え……」

 陽南海が絶句する。それはそうだろう。その袋の中には、両手に余るほどの量の種(と陽南海が思っていた卵)が入っていたのだから。

「ブラウン・ウィングは成虫その物は無害で無益な昆虫だが……唯一特殊な性質を持っている。それがこの卵だ。ブラウン・ウィングは一度の繁殖で卵をほんの僅かしか生まない。しかも幼虫の生命力はきわめて弱く、ほんの少しも動くことが出来ないために他の昆虫と同じくらいの時間を成虫になるために費やしていては、決して成虫にはなれない。だから……産み落とされた瞬間から、すさまじい生命エネルギーを発揮する」

「そ……それって……それって、まさか……」

「お前、これを庭に巻かなかったか?それも、大量に」

 こくん、と陽南海が頷いた。

「やはりな……ブラウン・ウィング自体は無益だが、この幼虫の生命エネルギーは人間にも応用できる。その為、繁殖前のブラウン・ウィングを捕まえ、土のないところで卵を生ませ、手術の時の生命維持や病気の治療に使ったりすることがあると聞く……おそらくキッドはどこからかその為の卵を手に入れたのだろう。しかし、まったく……」

「駄目!怒らないでシオン!」

 突然、陽南海が叫んだ。

 シオンは驚いた。

 自分は別に感情を表に現したつもりはなかった。もちろん、心の中には怒りが渦巻いていたが、感情をしまい込むのは慣れている。……いや、それは殆ど本能と化していて、誰にも気づかれない……その筈だった。

「お前……なぜ」

「そんなの、シオンを見てればわかるもん。あたしにはわかるよ、シオンが怒ってるのも、寂しいと思ってるのも、辛いのも、喜んでるのも、笑ってるのだって。シオンはいつも無表情で、クールで冷酷で残酷だ、って、あの人達は言ってたけど」

 例の侍女達のことを未だ気にしているのか。

 まったく、彼女は自分が悪く言われてもすぐに忘れるくせに、こういうことはずっと忘れず、いつまでも胸を痛めている。

 ……いつも明るく、活発で、悩み事など何もないように見える彼女が。

「でも、そんなことないって、あたしは知ってる。シオンは、確かに感情をあんまり表に出さない人だけど、でも、本当は優しいんだよね。いつだって無口で、人に誤解されてばっかりで、でも、いつの間にかそれにも慣れちゃって、それで……でも、でもあたしは知ってるからね。あたしは、わかってるからね。だから、だからあたしにまで心を隠さないで。無表情で良い。なにも言わなくて良い。心の中で思ってくれれば、それだけでわかる。わかって見せるから……だから隠さないで。あたしにまで……感情を隠さないで。あたしは、シオンを傷つけたりしないから……絶対に、傷つけないから……」

 シオンの腕にしがみつき、目を涙でいっぱいにして陽南海は訴える。

 ……オレが、泣かせたのか?彼女を……誰よりも彼女の笑顔に救われてきた、この、オレが?

「陽南海……その……」

 シオンはぎこちない手つきで彼女の髪に触れた。

「すまな……かった。オレはただ……悪戯心からにしろお前を……泣かせたキッドが許せなかっただけだ。だが……お前はきっと、オレが考えていることを知ったら、その……自分のせいだと責めるに違いないと思ったから、それで……」

「え……?」

 陽南海は驚いて顔を上げる。

「どうして……?」

 わかったの?そう言いかけて、陽南海は言葉を飲み込んだ。

 そうだった。彼女は、誰よりもシオンを理解している。彼と共に過ごした時間は短い。ダルスのみんなには遠く及ばないし、きっと彼女の知らないシオンの過去を知っている人間もいるだろう。

 それでも、彼女はシオンを誰より理解していると思っていた。

 そして、忘れていた。

 彼女がシオンを誰より理解しているのと同じように、彼女を誰より理解しているのも彼だ、ということを。

 彼女の明るく活発な性格の隅に、独りになるのが嫌いな、寂しがりでナイーブな少女がいることを、彼は知っている。

 相手かまわずキツいことを言った後で、幾度となく自分を責める少女がいることを彼は知っている。

 だからこそ彼は、自分の心を隠そうとしたのだ。……恐らく、陽南海のために。

 再び、陽南海は泣き出した。

「陽南海……?」

「ふっ……ふえっ……ご、ごめん、ごめんねシオン、あたし……あたし、嫌な子だ……あたしのせいなのに……シオンが隠そうとしたのは、あたしの為なのに、それなのに、あたし……一方的にわがまま言って……勝手なことばっかり言って……シオンを困らせて……ごめんね、ごめんね、シオン……」

「陽南海……」

 ふわっ、とあたたかなぬくもりが彼女の体を包み込んだ。

「泣くことはない。悪いのはオレも同じだ。……お前に隠し事はしない。二度とだ。この世のすべての神に……誓おう」

「シオン……神様なんて……信じてないくせに」

「だが、お前は信じているだろう?お前の姉のように実存する神ではなく、お前のその心の中に住む『良心』という名の神を。……オレは、その神に誓おう。二度とお前を泣かせはしない。そう……二度と。だから敢えて言うが、その……」

「?」

 陽南海は突然黙り込んでしまったシオンに首を傾げる。

 なぜだか、心持ち、うっすらと、微かに……つまりは陽南海にだけわかるくらい僅かに顔を赤らめているようだ。

「あ、いや、その……大したことではないが……その……お前には二度と泣かないで欲しいと思う。いや、泣かずにすむよう、オレがお前を守ろう。オレは今まで自分自身を疎ましく思いこそすれ、何があっても辛いとか悲しいとか、そう思ったことはなかった。何しろ今まで、オレはオレの周りで起こることすべてがどうでもよかったのだから……だが……だが、今は違う。今は……ただ一つ……オレは……お前に泣かれることが、それだけが、辛い」

「っ……シオンの……バカ……全然……大したことだよ……もう泣かないって……シオンが言うから、泣くのは止めようって思ったのに……ズルいよ……そんな……泣かせるようなこと……言うんだもん……」

「ひ、陽南海……」

 しゃくりあげて泣き始めた陽南海に、シオンは慌てる。

 彼はただ純粋に、陽南海に泣いて欲しくなかっただけなのだ。

「す、すまない陽南海、オレは別に泣かせるつもりは……その……だから……ええと、どうすれば泣くのを止めてくれる?どうすればお前は笑ってくれるんだ?」

 シオンが慌てながらそう尋ねると、陽南海はしゃくり上げながら何かを呟いた。

「……っく……ふっく……てって」

「うん?」

「海、に……ふえっ…今度、海に連れ、てっ、て」

「う、海?」

 ちなみにここは山に囲まれた内陸の国である。

「すっ、ぐじゃ……なくて、いい、から。いつ、か……二人で……海、に行こう。……だめ?」

 まだ涙に濡れた瞳を輝かせ、陽南海は顔を上げる。

 シオンはふっと微笑んだ。

「そうしたら泣くのを止めてくれるか?」

「うん」

「わかった。約束しよう、いつか……そうだな、海の見える国に立ち寄れたら……いや、必ず連れていってやる。暖かい、海のそばの国へ……」

「約束、だよ?」

「ああ、約束だ。……現金な奴だな、もう涙が止まったのか。だが……それでいい、お前にはやはり笑顔の方がよく似合う」

「……バカ」

 照れたように顔を赤らめながら、陽南海は再びシオンの胸に顔を埋めた。

 そしてふと、顔を上げる。

「うん?どうした」

「もう一個、あった」

「ん?」

「もう一個。泣かないでいる、条件」

 やれやれ、と言った風にシオンは首を振る。

「……言って見ろ」

「みんなが帰ってくるまで、こうしてて」

「……」

 陽南海の言葉に、シオンは彼女を強く抱き寄せた。

「……望むところだ」

 外は夜。

 今夜は月が蒼く美しく輝いている……。

#eof-続-

#chp

■PART4――聖の場合


「聖ーっ」

「……ん?」

 テラスのベンチに腰掛け、今日街で手に入れた本を読んでいた聖はふと顔を上げた。

 見ると、キッドがあちらの方から駆けてくる。

「どうかした?キッド」

「へへ……いーもん見せてやるよ。ちょっとこっち、来てみ」

「いいもん?なに?」

「いーからいーから、な、ちょっとこっち来いよ」

「?……」

 首を傾げながらも、聖はおとなしく彼のそばに寄っていく。

「なに?」

 聖がそばまで来ると、キッドは軽く握った拳をその目前まで差し上げた。

「?なんだい?」

「へへへ……」

 ぱっ、とキッドがその拳を開く。

 聖の目の前に現れたのは……

「う…うわあぁぁぁっっ!!」

 その瞬間、聖は思いっきり後ろへ飛びすさった。

「な……な……な……」

 そう言ったきり、彼は口をぱくぱくとさせている。

「お…おい、聖?」

 びっくりしたのはキッドの方であった。

 確かに彼は聖をほんの少し脅かしてやろうと思った。

 それは、街へ行ったきり部屋に閉じこもり、まるで自分を相手にしてくれない聖に対しての、ほんのちょっとの報復のつもりだったのだが、まさかこんなちっぽけな虫くらいで、彼がこんなに驚くとは思わなかったのだ。

「な……んだよ、どうしたんだよ聖……」

「わ、わ……よ、寄るな!寄るんじゃない、キッド!あっち行ってくれ!」

「な……」

 その言葉は、少なからずキッドを傷つけた。

「何だよ!わかったよ、行けばいいんだろ!邪魔して悪かったよ!」

 顔を真っ赤にしてそう叫び、彼はぷいっと背を向ける。

 その声の中に傷ついた幼い少年の心を感じ取った聖ははっとした。

「待て!ちょっと待てキッド、違う!違うんだ!それ、その虫が駄目なんだよ、僕!お前が邪魔だって言ったわけじゃない!」

「虫……?これのことか?」

 不思議そうな顔をして、キッドは再びその手を聖に向ける。

 ずざさっ、と再び後ずさりながら聖は必死で頷いた。

「た、頼むよキッド……僕、本当にダメなんだ、それ……あ――やば……」

「な、なんだ?」

「なんか……目の前がぐるんぐるんする……」

「わ!ば、バカ!それを早く言えよ!」

 慌ててキッドは手に乗った虫を放り投げた。

 哀れ、虫は空高く放り投げられ、きらん☆とどこかへ消えてしまう。

「おい、大丈夫か、聖?お前、そんなに昆虫類ダメだったっけ?」

 膝をつき、荒い息をする聖のそばへ駆け寄ると、キッドは心配そうに言う。

「いや……あれだけだよ。あれ、だけは……ダメなんだ、子供の頃……寝てるときに顔面に落ちてきて……もうちょっとで食べるとこだったんだ、それ以来……見るだけで気分が……」

「お、おい……」

 キッドは再びふらっとする聖を支え、木陰まで運ぶ。

「悪ぃ、ごめんな、そんなに嫌いだと思わなくて……ちょっと脅かしてやるだけのつもりだったんだ、オレ……あれを怖がる奴なんて滅多にいないし……」

「そ、そうなのか?そうか、この世界ではそうなんだな、でも……僕たちの世界じゃ、あれを怖がる人間は大勢いるよ。特に……女の子であれが平気だって言うのは月夜姉さんぐらいなもんじゃないかな……」

「えっ」

 キッドはその瞬間、顔をこわばらせた。

「キッド?」

「……オレ……もしかしたら……とんでもねぇこと……しちまったかも……」

「?何のことだい?」

「オレ、オレ知らなかったんだ、お前らがあれを怖がるなんて事。だから、ちょっとした悪戯のつもりで……いくら怖くなくてもいっぱい出てくりゃ驚くだろうと……そんな……そんなに嫌いなモンだなんて……」

「キッド。キッド、おいお前なにしたんだ?誰に何をしたんだよ!」

「あ……あの、陽南海に……」

「ひな姉ぇに?」

「あいつの……ブラウン・ウィングの卵……急速に成長する奴、花の種だって言って……」

「な……」

 聖は再び、頭がグラッとするのを感じた。

「お前……なんて事を……ひな姉ぇだって女の子だぞ……よりにもよって……せめて月夜姉さんならまだしも……」

「オ、オレ、知らなかったんだ、本当だよ!そんなに嫌いなモンなんて……オレ、オレほんのちょっと仕返ししてやろうと……この間、あいつオレが酸っぱいもん嫌いなの知ってるクセして、昼寝してる間に口ん中にレモン放り込みやがって、それで……あ……オレ……」

 見るからにあたふたと慌てているキッド。

 聖はふーっと長いため息をはいた。

「聖?」

「……仕方ないだろ、やっちゃったもんは。しょーがないなあ、ほんとにお前は……いいよ、後から僕がそれとなく謝っておくから。ほんとに……これに懲りたら少しは悪戯、控えろよ。いくら悪気のない悪戯でも、度を超すと迷惑になるんだぞ」

「わ……わかってるよ」

 しゅん、として肩を落とすキッドに、聖は微笑む。

「……まあ何にせよ、良かったよ、お前がひな姉ぇに会う前に、僕たちがゴキブ……いや、ブラウン・ウィングだっけ?それを嫌ってるって事を教えられて。お前のことだからきっと、直接ひな姉ぇに何か言われたら反発して心にもないこと言うに決まってるもんな。……お前さあ、もっと素直になった方がいいぞ。僕にはこうやってキチンと言えるのに、どうして他の人たちの前だと突っ張るんだろうな、お前は」

「い……いーじゃねーかよ、そんなの。オレの勝手だろ」

「そりゃまあ、そうだけど。でも、見てられないよ、キッド。お前、いつだって身構えて、身体中棘だらけのハリネズミみたいになって……何でそんな風に他人を遠ざけるんだよ。あの人達、みんないい人じゃないか。お前のことすごく大事にしてくれて……って、ああ、わかったわかった、わかったからそんなに睨むなよ。そうだよな、こんな事言われなくったって、お前が一番よくわかってることだよな。……悪かったよ、余計なこと言った。ごめん」

 そう言って軽く笑う聖に、キッドは照れたようにそっぽ向き、ぼそっと呟いた。

「……よく……わかんねぇんだよ、オレ……」

「……え?」

「あー、その、なんだ……その、オレっ、そのっ……ひ、人に優しくとか……されたことないし……気がついたときにゃ、周りは大人ばっかりで……オレは力とかガーディアンとか、よくわからないのに、なのに……あいつら、あれはダメ、これはダメって……泣くことすら許してもらえなかった。だから……だから、どうしていいかわかんないんだ。あいつらは、オレをガーディアンにした中央の奴らは、オレに強くあることを求めた。オレは、一人っきりのオレは、それに応じるしかなかった。だから、強くなった。泣くことを捨てた。強くなって……泣きたいことも忘れてそれで……見返してやりたかったんだ。いつだって、誰にだって反発した。強さを求めたのはあいつらだ。だから絶対言うことなんか聞いてやるもんかって思った。いつの間にかそれがオレになって……オレ、オレは人に従うって事がどんなことなのか、忘れちまった……だから……」

「キッド……」

「でっ、でも!でも、オレ、本気であいつを困らせようって思ったわけじゃないんだ!オレ、オレただ脅かしてやろうって、お前のことだって……その……わ、わかってる……んだ。あいつらは……ダルスの奴らは、中央の奴らとは全然違うんだって事。オレのこと、本気で心配してくれてるんだって事。でも、オレ……どうしていいのか……今更、いまさら笑えねーよ。素直なんて単語、中央に引き取られたときに捨てちまったんだ。離れてってもいい。だれもそばにいなくていい、オレは……独りでいた方がいいんだ。オレは……そばにいる奴を、傷つけることしか出来ないから……」

「キッド……」

 うなだれてぽつぽつとそう呟く彼の背中は、本当に小さく見えた。

 いつだって、どんな時だって絶対に弱音を吐こうとしなかった。今までの旅の中、ぶつぶつと文句を言いながら、それでも彼は必死に……自分自身が傷だらけになることも厭わず、月夜や聖達を守ってきた。

 子供っぽいかもしれない。未熟な精神かもしれない。でも、その中に息づく優しさは本物だった。

 そして……聖は今日、彼の背中に、幼い頃から甘えることを許されなかった「少年の寂しい心」を見た。

「キッド……」

 そう言って、聖はキッドの背後から腕を回し、その肩を抱きかかえた。

「大丈夫さ、キッド。ダルスのみんなはきっとわかってくれてる。だから、いつだってお前がどんな悪戯したって、あの人達はほんの少し叱るだけで、それ以上はしないじゃないか。……あの人達は決してお前を見捨てたりしない。そして、お前もあの人達を見捨てたりしない。……そうだろ?」

 こくん、と微かにその頭が振れた。

「……いつか、きっとお前も笑える日がくるさ。お前はお前のままでいればいいんだ。そうやっていつか変わって行くなら……いつか……そう、いつか、きっと大人になれる日が来る。お前も、僕も、いつかきっと今の自分たちを笑える日が来る。だから……だから、そんなに自分を責めるな、キッド。今のお前があるから、明日のお前がいるんだから。今の自分が嫌なら明日変わればいいのさ。そうやって少しずつ、少しずつ……人は大人になっていくんだから」

「聖……」

 すん、と、微かに鼻をすすり上げたように思えたのは、聖の気のせいだろうか。

 キッドは今までの落ち込みが嘘のように元気よく立ち上がった。

「キ……キッド?」

「なあ聖、せっかく外に出てきたんだから、どっか、遊びに行こーぜ。な!」

「せっかくって……お前が無理矢理……」

「何だよ。いやなのか?」

「い、いや別に……」

 聖はふうっ、とため息をつく。

「わかった、わかったよ。じゃ、ちょっと待っててくれ、この本おいてこないと……神殿にはひな姉がいる筈だから、外に出てくることも言っておかないと。じゃ、行って来る」

「……あ!ちょっと待ってくれ聖!」

 駆け出しかけた聖を、キッドが慌てて呼び止める。

「うん?」

 振り向くと、キッドはなにやらごそごそと辺りを探っていた。

「なんだ?キッド」

「あ……あの、これ!」

 そう言って振り向いたキッドは、両手いっぱいの草を差し出した。

「……なに?これ」

「月花草と幻星花。こっちが月花草で、こっちが幻星花、な。どっちも夜になると花が咲いて、淡く光って綺麗なんだ。匂いもいいし……その……これ、ホシクズホタルが好む花だから……夜、明かりを消してコレを窓辺に飾っておけば、その……すごく綺麗だから……あの……それと……ごめんって……」

「ああ、わかった」

 聖はにっこりと笑ってそれを受け取った。

「じゃ、行って来る」

 そう言って今度こそ走り出した聖の背中を見つめ、キッドはポツリと呟いた。

「いつか大人になれる日が来る……そうだな、お前と一緒なら……」

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