第3話 幼少の思い出

 あれは数年前のことだ。


   * * *


 当時から幽体離脱する術を会得していた零矢だったが、ある日、その世界で自分と同じように幽体で空を飛ぶ女の子を見かけたことがあった。


 肩より長い銀色の髪をパタパタと風に揺らして、その細身をドレスに包み、水槽の中を可憐に泳ぐグッピーのように空を飛んでいた。


 それは、人の姿が不鮮明になるこの世界で初めて見た明瞭な人の姿だった。遠目ではあったが、可愛く綺麗な、そしてどこか妖しい雰囲気を持つ女の子。


 彼女は一体、何者なのだろう。

 自分のように幽体離脱を楽しんでいる仲間だろうか。


 零矢は近づいて声をかけてみようと思ったが、少しだけ躊躇っているうちに、それは叶わなくなってしまった。彼女がバッとこちらを向いた瞬間のことだ。


 どういうわけか、それに合わせるように零矢は唐突にその世界から追い出され、布団の中で目を覚ますことになった。


 おそらくは、幽体離脱のいつもの終幕の時間。


 ただそれがあまりに名残惜しいタイミングで、零矢は珍しく布団を抱きしめてバタバタともがき苦しんだことを覚えている。


 あとちょっとでよかったのに。


 彼女のどこか妖しくどこか切迫しているかのようなその凛とした双眸は、確実にこちらの存在を認識して見据えていた。とても綺麗な顔をしていた……


 また幽体離脱をしていれば、彼女と出会うことができるだろうか。


 しかし、零矢は当時まだ小学生。


 そして現在の中学三年生になるまでの間、幾度となく幽体離脱を繰り返したが、それから一度も彼女の姿を――それどころか自分以外の明瞭な人間の姿を見かけることはなかった。


 ましてや、なにかの怪物に喰われそうになることなども……


   * * *


 なぜこんな時に彼女のことを思い出しているのだろう。あれから数年と十数分――意識が現行へ戻ってくる。


 高校入試試験前夜の緊張を紛らわすべく肉体から飛び出した半透明状態の身体で空を飛んでいたら、突然、背後から何かに襲われた。


 そして太い両腕で身体を押さえつけられ、よだれを垂らすその巨大な口が零矢へと迫っていた。


 野生の動物?

 いや、それは明らかに違う。


 これは普通の生物ではない――バケモノだ。そのバケモノの四肢や胴体、頭部は、昆虫のような頑丈そうな甲殻で覆われている。


 力はあまりに強く抜け出せない。


 どう足掻いても絶体絶命の状況――けれど零矢は、まだほんの少しだけ心に余裕を持つことができていた。


 異形のバケモノに喰われようとしている。

 映画などでたまにある悲惨な死に方の一場面でありそうな状況。たしかに恐ろしい状況だ。


 でも、一つだけ忘れてはいけないことがある。


 今のおれは幽体離脱中。

 おれの本体はおれの部屋にあるふかふかベッドの中で寝息を立てている。


 つまり、単純明快な話だった。

 おれの本体が目を覚ましてさえしまえば、この脅威からは簡単に逃れることができるというわけだ。


 さっさと目を覚まして、この幽体離脱の状態を解除してしまえばいい。だから、こんなバケモノ、おれはそれほど怖くはない……!


 ……とはいえ、だ。

 段々と零矢から、そんな余裕がなくなりはじめていた。というのも、起きられるものならもう起きているはずだった。


 けれど、どんなに〝起きろ……起きろおれ……〟と念じても、零矢の意識は一向に現世側に戻らない。


 まずい状況になりはじめていた。

 そう簡単におれは起きてくれないらしい。


 では、もし甘んじてこのバケモノに喰われてしまったとしたら、おれはどうなるのだろう。


 死ぬのだろうか。

 でも今のおれは幽体だ。

 実体に精神が戻らず廃人になる?


 ……わからない。

 色々な可能性がありすぎる。


 ――が、少なくとも良いことはないだろう。

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