第2話 幻界幽覧飛行

 その日、零矢は空を飛んでいた。

 自宅の屋根が見え、街灯がその輪郭を縁取る、静まり返った住宅街。


 青黒い暗闇に描かれているのは大地に張り付く光たちの群れ。そこから少し離れた街の中心部は、さながらその光たちが属する銀河の中枢のようだ。


 溢れるような眩しさで煌めくその密集地は、空にある本物の星々に比べあまりに力強く輝いている。


 空は落ち着いた暗闇に、薄っすらとした月。

 そしてボォと浮かび上がる筋雲。


 今日は空が高い日だ。


 こんな日の夜は、すっきりと解放されたような気分になることができる。


 零矢は身体を加速させた。

 ヒュンヒュンと風の音が強く強調される。

 身体一つの、遊覧飛行――


 耳を澄ますと夜の世界に取り残された車の走行音が響き、どこかの最終電車が喘息でも患っているかのようにゴホゴホと咳き込んでいる。


 別の場所では深夜の大掛かりな工事がはじまって、無機質な音と振動が繰り返される。


 それらを含めた街中のあらゆる音が混ざり合って分解され、崩壊した音の分子は上空へと舞い上がり、やがて別の音の群れ合流して、静寂の夜空で渦を描きはじめる。


 空高い高度では、地球の唸り声のような音がオオオオ……と連続していた。


 零矢は、そんな音の発信地である地上の銀河の中心街上空を通過する。そこは自分が暮らす地域の中で一番発展している都市で、付近の中高校生が遊びに出かけるといえば主にそこという、とてもなじみ深い街だった。


 けれど、上空から眺めるその遥か下界はどこか異国の街のようで、いつもとはガラッと雰囲気が違い、目に見えるすべてが新鮮で、美しく見えた。


 グッと高度を下げて、街の大通りへと侵入する。

 人影はまばらだが、全く無人というわけでもない。ただ、行き交うのはあくまで人々の〝人影〟であって、それ以上のはっきりとした見分けはつかなかった。


 というのも、幽体離脱をしていると、そこにいる人物の大雑把なフォルムは掴むことができるものの、どういうわけかその細かいディテールを認識することができない。


 この状態で零矢が眺める人の顔や姿は、まるで抽象的な油絵のようだった。なんとなくそこに顔があり、服がある、不鮮明で半透明のモヤモヤ。それが街の中を亡霊のように彷徨い、行き交っている。


 一方で、非生物的な物の姿は明瞭だ。

 背の高いマンションや、傘をかぶった小さな家々。その隙間の狭い路地に立つ街灯の白い光が、街路樹本来の綺麗な緑色をのっぺりと奪い去り、照らしている。


 無数の葉が風に揺れ、それが落とす厚い影がアスファルトにくっきりと刻まれている。


 影はまた揺れ、その中をタクシーが通り過ぎていく。赤いテールランプが長く尾を引き、やがて、ぼやけたネオンの光で満ちた繁華街へと消えていく。


 その手前で色を変える信号機。

 裏路地にて佇む一方通行の標識。

 交差点の矢印や止まれの地上絵図。


 空を移動する零矢は姿勢を整えて、道路に沿って身体を加速させた。上空への道を遮る密集した電線をサッと抜けて空に出ると、やがて上空に浮かぶ雲の筋が存在感を増してくる。


 このまま軽やかな身のこなしで、どこまでも飛んでいけそうな気がする。


 零矢は、こんな風に空を浮遊しながら高高度の空気を浴びることがたまらなく好きだった。


 たとえ実体ではないとしても、全身の五感が浴びる感覚は本物だ。いつまでも、いつまでも、この幻想的な世界の中で漂っていたい。


 しかし、幽体離脱には時間制限があった。

 気付けば夢から目を覚ます時と同じように世界はいつの間にか終幕し、零矢の意識は、骨が軋み筋肉が硬い、重たい肉体へと戻っているのだ。


 布団に包まれる安息も悪くはないとはいえ、零矢としてはそれ以上に、いつまでも、そしてどこまでも、この空を駆け抜けていたいと思っていた。


 そしてなによりこの美しい世界に零矢が入れ込むのには、もう一つ理由があった。

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