第2話 雨あがりの夜空に


 その日の二宮は夜勤明けだったみたい。勤務時間が終わると帰り支度をして、職場から歩いて一分のところにある中華料理店に朝食を摂りに入った。二宮の職場が中華街にあるのは知ってるよね。あたしはその中華街へは行ったことがないんだけど、あたしの地元にもあるから、だいたいの雰囲気は分かるよ。

 で、二宮が入ったその店は早朝から営業していて、中華粥が美味しいらしい。どうやら彼も野菜粥を食べたみたいだね。


 食事を終えた二宮は寮に戻って一眠りし、午後になると付き合って二ヶ月半の彼女・栗原くりはら奈那ななに電話を掛けた。どうやらデートの約束をしてたみたいだね。彼女は地元の大学に通う学生で、二宮の寮のある保土ヶ谷ほどがやからは電車・バスともに二十分ほどの距離にある和田町わだまちのマンションで一人暮らしをしている。去年の夏、アルバイト先であるアキバのメイドカフェに客としてやってきた二宮に一目惚れしたらしく、バレンタインデーに保土ヶ谷駅で待ち伏せして告白したって言うから、なかなか積極的な子だね。この春から大学院に進み、AIエンジニアを目指して知能情報学を専攻してるらしい。同じく情報系学部の修士課程を修めている二宮とは気が合いそうだ。

 すると、彼女は電話に出るなり、慌てた口調でまくしたてた。

《しーくん、聞いて。大変なことになっちゃった。今、どこ?》

 あ、彼女は二宮のことを‟しーくん”って呼んでるみたいだね。瞬くんだからしーくん。あんまりピンと来ないけど、自分だけの呼び方がしたいみたいだよ。

「寮だよ。どうしたの?」

《うちのマンションのね、どこかで配水管が破損したんだって。それでね、ゆうべから断水してるの。いつ直るのかは今んとこ分からないって》

「部屋が水浸しになってるとか?」

《うちの部屋は大丈夫。でもエントランスの天井と壁の隙間から水漏れがしてた。もうちょっとで自動ドアが閉まらなくなるとこだったって、管理会社の人が言ってた》

「……結構大事おおごとだね」

《そうみたい。だから、今日はうちに来てもらうことができなくなっちゃった。ゴメンね》

「それはいいけど――奈那ちゃんはどうしてるの?」

《実家に戻ってる。だって、お風呂もトイレも使えないもん》

「……そうか」

 二宮の声は明らかに落胆していた。彼女の実家は確か調布ちょうふにあって、保土ヶ谷からは――電車で一時間以上はかかる距離だからね。

《あ、でも今は大学にいるよ。もう講義は終わったから、図書館に本を返して――三十分か四十分くらいで保土ヶ谷に行ける》

「それじゃ時間のロスだよ。俺はいつでも出られるから――横浜で落ち合おう。ほら、いつものカフェ。ルミネの」

《……いいの?》

「いいに決まってるよ」

 二宮は嬉しそうに言った。五つ歳下の彼女だからね。可愛くて仕方がないってとこだろう。実際、見た目もなかなか可愛いみたいだよ。メイドカフェで働いてたんだから。

《分かった。急いで行くからね》

「ゆっくりで大丈夫だよ」

 電話を切ると、二宮は深くため息をついた。なるほど、彼女のマンションで過ごす予定だったのが、外で会うことになったんで、ちょっとがっかりってとこだね。しかも実家に避難してるとなると、お泊まりもできない。人目を気にせずに好きなだけイチャイチャすることをおそらく楽しみにしながら長い夜の仕事を勤め上げただろうから、ため息の一つも漏れるってわけさ。

 まぁでも、断水なんだから仕方がない。気を取り直すしかないよ。実際二宮は大きなため息こそ漏らしたものの、すぐにTシャツを脱いで洗濯用のカゴに放り込み、入念に顔を洗ってスキンケアとヘアセットに時間をかけたあと、部屋に作り付けのクロゼットを開いた。

 独身寮の狭いクロゼットの中は洋服でいっぱい。二宮は結構お洒落さんのようだよ。しかもデートのときは彼女が必ず褒めてくれるから、とりわけ服装選びにも気合いが入るってものさ。細いストライプのVネックTシャツにシアサッカー素材の紺のジャケット、同系色のパンツを合わせ、眼鏡からコンタクトに替えると、スマホとワイヤレスイヤホンを手に部屋を出ていった。


「――やべ、雨になるのかな」

 寮を出て駅に向かうとき、二宮は呟いた。関東も梅雨入り間近のようだね。あたしの住んでいる地域は少し前に梅雨入りしたけど。



 そのあと彼女と落ち合って、二人は八景島はっけいじまの水族館デートを満喫した。そして夜の九時になると、二宮は彼女を実家のある調布まで送って行くことにした。

 最初は一人で帰れると言っていた彼女だったけど、夕食を摂った桜木町さくらぎちょうの店を出たあたりから雨がポツポツと降り出して、傘を持っていなかった二人が駅に着く頃には結構な本降りになった。で、傘を買うためにコンビニに入ったんだけど、残念ながら一本しか残ってなかったんだ。突然の大雨で、彼らと同じような人がたくさんいたんだろうね。それで二宮は彼女を実家まで送っていくことにしたってわけさ。期待してたお泊りデートが叶わなくなったから名残惜しかった、っていうのもあるだろうね。



 駅を出て北西の方向へ五分ほど歩くと、彼女の実家である和菓子店が通りの左側に見えてきた。間口の広い、タイル張りの三階建てで、一階が店舗と工場、二階と三階は住居になってるみたい。その頃にはようやく雨もおさまってきていて、それでも相合傘の二人は身体をぴったりとくっつけて、この状況を嚙みしめるようにゆっくりと歩いて店の前までやってきた。


 傘から出て店の軒先に入った彼女は、傘に残った二宮に振り返って言った。

「――ありがとう。遠くまで送ってくれて」

「結構濡れたから、ちゃんとお風呂に入らなきゃね」

「しーくんもよ。シャワー熱めにね」

「うん、分かった」

「そうだ、LINE見てね。今日撮った写真、送っとく」

「うん。楽しみにしてるよ」


 ンなんだっこの他愛なさすぎる会話! 離れ難いのは分かるけど、聞いてらんないね!

 そのあともしばらく雨垂れの中、別れを惜しむ二人がイチャコラモジモジやってると、突然店のシャッターがガラガラと上がり、二人ともわっと声を上げた。


「――奈那」

 屋号の書かれたガラス戸が開いていて、中から現れたのは五十過ぎくらいの男性だった。どうやら彼女の親父さんだね。そう言えば以前にも彼女のマンションで二人がキスしてるところに鉢合わせしてるみたいだから、この親父さん、ほとほとタイミングが悪いね。わざとじゃないんだろうけど。

「お父さん――」

「こ、こんばんわ」

 二宮はカチンコチンになって言った。

「ああ」

 親父さんはそれだけ言って、娘に振り返った。「早く入りなさい。濡れるから」

「うん、でも――」

 そう言って彼女は二宮を見上げる。すると親父さんが二宮に言った。

「雨の中、遠いところを送ってくれてありがとう。うちへ上がって一休みしていただきたいところだけど、もう遅いので、今夜はここで失礼するよ」

 二宮ははい、と頭を下げた。「こちらこそ、遅くなって申し訳ありませんでした」

「気を付けて帰ってくださいね」

 そう言うと親父さんは彼女に中に入るように促し、自分もその後に続くとシャッターを下ろした。続いてガラス戸が閉まり、カーテンを引く音がした。

「お父さんたら、素っ気ないよ……」

 そう彼女が父親に文句を言う声を聞いたあと、二宮は諦めたようにため息を一つつき、来た道をトボトボと戻って行った。途中、雨が止んでいるのに気付いて傘を閉じ、二宮は空を見上げた。雲の割れ目からぼんやりと月明かりがこぼれて見えてたよ。

 

 駅へと戻る道すがら、二宮が何を考えていたかは明確には分からない。

 ただ、彼にとってはいろいろと予想外だった今日のデートが彼を翌日の行動へといざなったのは間違いないと思う。



 翌日、非番だったにもかかわらず(つまり、もしも彼女のマンションの断水がなければ彼女の部屋で一緒に朝を迎えていたはずなのに)、二宮は彼女とは会わなかった。

 代わりに彼は朝から寮の部屋でパソコンに向かい、横浜市の中央部――保土ヶ谷区、西にし区、神奈川かながわ区を中心に単身者向けの賃貸物件を調べて一日を過ごした。


 ――そう。この夜のことがきっかけで、どうやら二宮は約四年間過ごした警察官の独身寮を出て、部屋を借りる決意を固めたらしいね。


 というわけで次のエピソードからは、その物件探しにまつわる二宮の悲喜こもごもについてだよ。


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