第3話 焼肉でも食べながら


 それから一週間ほどかけて、二宮はいくつかの候補物件を内見して回った。

 ちなみに彼の希望する部屋の条件は、最寄り駅から徒歩十五分圏内、今の職場まで最長四十分できれば三十分以内、間取りは1DKか1LDK、ベランダ付き、家賃はできれば十万円以下でMAX十二万円と、まあそんなところ。

 そして一軒、その条件にほぼ合致した物件を仮押さえした。とは言えもちろん他の誰かに先に正式な契約申し込みをされたら当然そっちが優先されるから、そんなにのんびりはしてられない。早急に決断して、寮の退出から引っ越しまでのいろんな段取りを組んで進めなくちゃと、どうやら二宮は勝手に焦って、精神的に余裕が無くなってたみたい。あんまり器用じゃないようだね。


 それで、仕事でちょっとしたミスをしてしまったんだ。これはちょっとマズいね。

 そりゃ誰しもミスはする。人間だもの(誰かのマネじゃないよ)。だけど彼の仕事の場合は、そう許されるものじゃない。それがちょっとしたミスでも、誰かの人生を大きく狂わせることだってあるし、場合によっては命の危険に晒してしまうこともあるからね。

 ということで、上司から注意を受けた。そう、第一章の彼女だよ。上司であり、今は彼とバディを組む、あの警部さん。デスクの前で黙って座ってても順調に出世していくキャリアのくせに、現場にこだわって周りの迷惑をよそにまっすぐに自分の信じる道を突き進んで行く、正直、なかなかの困ったさんだ。


「――何か悩みでもあるの?」

 警部さんは二宮に訊いた。彼を職場の小さな会議室に呼び出して長机の前に座らせ、自分は立ったまま腕組みして文字通り上から目線の質問――いや尋問だった。

「……いえ、特に何も。申し訳ありませんでした」

 二宮は淡々と言って小さく頭を下げた。

「嘘は良くないわね」

 警部さんはふんと鼻を鳴らした。「新チームを発足したばかりなのよ。予定ではもうそろそろ軌道に乗せてなきゃいけないのだけど、刑事課うち生安課むこうも、発足直前まで大きいのを抱えちゃってたからね。そっちのカタが付くまであなたたちを外すわけにはいかなかった。だからやっとチームに専従できるようになった今、イージーなことでつまずいてる余裕はないし、ましてやあなたのしょうもなさそうな拗らせメンタルにヨシヨシしてあげる暇も、コンマ一秒すら持ち合わせてないのよ、誰一人」

 ――ひゃあ、厳しいね。ミスをして気落ちしている部下にここまではっきり言う人、今のご時世じゃあんまりいないんじゃないかな。小柄で可愛い顔してるから、その分怖さは差し引かれてるけどね。

「……分かってます。すいません」

 二宮は調子を変えずに言った。どうやらこの上司の性格をよく把握して、対応を自分なりに決めているみたいだね。それが正解かどうかは分からないけど、警部さんは諦めたようにふっとため息をついて腕組みを解き、「もういいわ」と投げ出すように言ってドアに向かった。二宮は解放された安堵感からかほっと息を吐き、凝りをほぐすように緩々と首を回しながら腰を浮かせた。ん? 何だろこの感じ。ちょっと腹立つなあ。

 すると警部さんはくるりと振り返って、

「そうだ。わたし、実家に戻ることにしたから」

 と言うとまた踵を返して部屋を出て行った。

「はい、え――は? ええ?」

 首を傾げた状態で静止ししていた二宮は目を丸くして言うとすぐに元に戻して、

「え、どういうことですか? 引っ越したばっかりなのに?」

 と慌てたように警部の後を追って行った。


 なんだか、ちょっと意外だったよ。ネットの中であたしの認識する二宮は、いつも冷静で理論的で無感情で、正直得体が知れない。まぁ、お互い素性を知られたくないというスタンスでいるからそれが無難だし、かく言うあたしもそうなんだけどね。

 それにしても実際の彼がこんなに人間的だとは、あたしにとっては新しい発見だったし、何というか――面白いやら気恥ずかしいやら、ちょっと新鮮な感情が湧くのを、昨日から楽しませてもらってるって感じかな。もちろんこんなこと、二宮には聞かせられないけどね。




 この日、仕事が終わると二宮は警部さんと夕食を摂った。新チームに加わる前からバディを組む二人は、勤務中も含めてよく一緒に食事をしているようだね。この日は勤務する署の最寄り駅であるJR石川町いしかわちょう駅から数分の小さな焼肉屋で、一番奥のテーブル席に着き、二宮と警部さんはそれぞれの住宅事情について話した。


「――つまりそれって、彼女のためということ?」

 ロースター一面に広げられたさまざまな部位の肉を熱心に味わいながら、警部さんは二宮に訊いた。確かアマチュアのフードファイターなんだっけ。なるほど、食べっぷりがいいわけだ。

「彼女の部屋にばかり行くのは、気が引けるというわけね」

「……ええ、まあ、そうですね」

「あっごめんなさい、立ち入ったことだったわね」警部さんはひょいと肩をすくめた。「セクハラだ」

「今さらですよ」

 二宮は苦笑しながら手早く肉をひっくり返してトングを置くと、ビールジョッキを持った。「そろそろ寮を出てもいいかなって、少し前から考えてもいたし」

 ふうん、と警部さんは頷いた。「契約はしたの?」

「仮押さえの段階です」二宮は分厚い肉を頬張った。「早く決めないと、とは思ってます」

「何か問題でも?」

「いえ、特に問題と言うほどのことは」二宮は首を捻った。「……まだ彼女に言ってないんで」

 そうなんだ、と警部さんは小刻みに頷いてレモンサワーをごくごくと飲んだ。

「ちゃんと彼女の承認を得てから、ってことね」

「いえ、そこまでは」と二宮は手を振った。「でも一応、報告はしておこうと思って」

「喜ぶんじゃない、彼女」

 二宮は遠慮がちに笑って首を傾げた。「……そうだといいんですけど」

「ふふ、ごちそうさま――さぁ、もっとお肉焼いて」

 警部さんに促されて、二宮は焼けた肉をせっせと警部さんの小皿に移し、ロースターに新たな肉を追加した。そして言った。

「警部の方はどうなんですか」

「何が?」警部さんはお手拭きで口元を押さえながら言った。

「実家に戻るの、ご主人は納得してるんですか」

「ご主人って――」

 警部さんははにかんだ。新婚ホヤホヤだってね。

「だってそうでしょう?――あ、時代錯誤な表現でしたか」

「そんなんじゃないわ」と警部さんは笑った。「わざわざそんな言い方しなくても、今まで通りの呼び方でいいから」

芹沢せりざわさんって?」二宮は片眉を上げた。「だったら警部も‟芹沢さん”でしょ」

「あ、そうか」

「自覚ないなぁ。大丈夫ですか、そんな調子で実家に戻って。感覚も独身に戻っちゃいませんか」

「大丈夫よ。それより経費は抑えないと。お金がかかるのよ別居婚って」

 そう言えば、この警部さんの結婚相手は大阪府警の警察官なんだってね。しかも所轄の刑事でノンキャリアだそうだから、いわゆる格差婚ってやつ。そんな相手と、わざわざ苦労の多そうな別居婚を選択するって、警部さんはよっぽどのモノ好きなのか、それともその亭主が相当いい男なのか――どっちにしたってあたしには考えられない話だね。

 二宮がせっせと焼き上げた肉をあっという間に平らげて、警部さんはロースターに出来た空間に生肉を並べながら言った。さすがにペースが速いな。

「場所はどこなの?」

「え?」

「仮抑えしてある部屋よ」

戸部とべです」

「ということは――」警部さんはトングをゆらゆらとさせて目線を上げた。「まで二十分くらい?」

「そのくらいですね」

「彼女のところまでは?」

「……二、三十分。今とあんまり変わらないです」

「もっと近い方がいいんじゃない?」

「いや、そこは別に。適度な距離って言うか――あった方が。お互い忙しいし、近いとかえって無理して会おうとしそうで」

「まあね。学生と刑事じゃ、近くにいたからって生活リズムは違うものね」

 警部さんは頷くともやしのナムルを箸でつまんだ。「間取り図ある?」

 二宮はスマホを手に取って操作し、警部さんに差し出した。「これです」

 警部さんはスマホを受け取ってじっと見つめた。「1LDKね」

「収納がちょっと少なくて」

 確かに、と警部さんは頷いた。「あなたオシャレさんだものね。衣装持ちにはちょっと辛いかも」

 そんなことないです、と二宮は首を振ってビールを飲んだ。

「謙遜は要らないから。今日のそのスーツも似合ってるわよ。中のシャツとネクタイも」

「……ありがとうございます」

 二宮は照れくさそうに俯いた。濃紺のスーツにグラフチェックのシャツ、深緑の細めのネクタイはよく見ると雲のような地模様が入ってる。確かに、まだ新米の部類に入る刑事には過ぎた着こなしと言っていいかもね。

 警部さんはふふ、と微笑むとスマホの画面をスクロールした。

「……いいんじゃない。綺麗だし。築年数は?」

「三年――四年目です」

「何階?」

「三階です。四階建ての。ベランダは南向き」

「家賃は――」警部さんは画面を見た。「九万七千円? 優良物件じゃない。早く決めないと他に取られちゃうわよ」

「そう思いますか、警部も」

「思うわよ。契約したら?」

「そうですね――」

 二宮はまんざらでもない表情を浮かべて、警部から返されたスマホを自分でも覗き、うーんと頷いた。「もう一回だけ、見せてもらえるかな――」

「いいんじゃない? 明日、不動産屋に連絡しなさい。すぐに見せてもらえそうなら、わたしも一緒に行ってあげる」

「え、でも――」

「任せて。少し前に部屋探しをした経験者として、アドバイスできると思うから」

 警部さんは自信ありげにウィンクすると、焼けた肉を自分の小皿に移した。「納得したら、正式契約ね」

「えっとあの、仕事の方は大丈夫ですか」

「と言うと?」

「だから」二宮は肩をすくめた。「しょうもなさそうな拗らせメンタルにヨシヨシしてあげる暇は、コンマ一秒すら持ち合わせてないんでしょ、誰一人」

「そっちはあなた次第ね。ミスした分のマイナスを取り返そうって気概があるのなら、大丈夫なんじゃない?」

「……分かりました」

 二宮は首を折るとスマホをテーブルに置き、トングを取ってロースターの肉を返した。


 ――ん? あれ、大丈夫なのかなぁ? この調子だとどうも明日契約だよね。二宮は彼女に話してから、って思ってたんじゃないの? そりゃ、別に彼女の承諾が必要ってわけじゃないけど、なんだか最初の思惑と、ちょっと違ってきてるように思うけど。

 ま、あたしにはどっちだっていいことだけどさ。



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