3-8 言葉で伝えられることは多くはない。

「あなたは、どこにいたんですか?」


 加害猫の話を聞いていて腑に落ちない点があった。


 いや、腑に落ちない点ばかりだった、と述べるべきだろう。

 とにかくこの事件はなにもスッキリしなかったし、なにも承伏できなかったし、何一つ溜飲が下がらなかった。


 だから僕が投げかけたのは、そんな中で、ほとんど唯一、すっきりできそうな質問だ。


 テーブルの上で丸まっている黒猫は、まるでしゃべることができないかのように無言で、こちらに黄金の瞳を向けている。


 根気強くその目を見返せば、猫は肩でもすくめそうな様子で目を伏せて、


「君ね、質問は明確にしたまえよ。人間はいつもこうだ。己が見ている景色は会話相手も必ず見ていて、己が耳にした音は会話相手も必ず耳にしていると思いこむ。自分の脳内を他者が察しているのを当然かのように伝達をサボタージュするくせに、本当の心の底にあるものを明るみに出されるのは大嫌いときている。まったく度し難いものだね」


「……あなたは、殺人事件があったとき、どこにいたんですか?」


 言い直した。


 すると猫は不機嫌そうにしっぽでテーブルを掃く。


 僕は忖度することなく、続ける。


「加害者の話に、あなたのことは、いっさい出て来ませんでした。けれどあなたは、加害者が殺人をする瞬間を目撃したという」


「それはね、君、人間の言語に頼った低俗なコミュニケーションに合わせてやっているうちに、いくつかの情報がこぼれ落ちただけではないかね? 言語というのは思っていることを十全に伝えるにはあまりにも不便なツールだ。まして人間は耳目を閉ざした生き物と来ている。猫にとって君らとのコミュニケーションは、かなり面倒ゆえに、いくらか端折ってしまうのも仕方なかろうよ」


「あなたは、加害者が殺人を犯し、すぐさま逃げ出したかのように、僕に語り聞かせた」


 それは、いくらか解釈の余地があるものだった。

 そうも聞こえた、ぐらいが正しい。


 けれど僕は断言する。

 猫は黙って、僕を見ていた。


「ところが事実は、違う。猫は被害者を殺し、警察が来るまで家におり、それから、逃げ出した。……そもそも、オートロックのマンションの玄関を猫が開けられるとも思わないし、高層マンションのベランダから降りて、いくら猫とはいえ無事に済むとも思えない」


 つまり、警察が来て、ドアが開けられている隙に、あの猫は逃げ出した、というあたりが正しい。


 ということは、だ。


「警察が来るまでのあいだ、あなたがその気なら、動機の説明を受ける時間ぐらいはあったんじゃないですか? だというのに、あなたは、詰問をしなかった」


「『それをたずねる気が、その当時は起こらなかった』」


「……」


「やはり言語によるコミュニケーションというのは、取りこぼしが多く、意味の曖昧化が避けられない。ゆえに、私はいくらでも、君をはぐらかすことができる。……だが」


「?」


「依頼料の支払いということで、君にある程度の真実を話してあげよう」


 黒猫が真っ直ぐに僕を見上げる。


 僕は、こんな小さな生き物に見上げられて、気圧けおされて、言葉に詰まった。


「私はね、この件に無関係なのだよ」


「……なんですって?」


「関係ないのだ。死んだ人間とも、殺した猫とも、まったく知り合いではない」


「じゃあ、なぜ、捜査の依頼を……? そもそも、なぜ事件のことを知れたんですか?」


「君、そもそも、誰と会話をしているのかわかっているのかね?」


「え? どういう意味です?」


「猫がしゃべるわけがないだろう?」


 それは。

 特大の違和感だった。


 当たり前だ。しゃべる猫自身に『猫はしゃべらない』と言われたのだから。


 だから僕は魔女を探した。

 そういえば猫が姿を消している時にいつも僕の視界から消え失せていた魔女。

 そしてなにより、猫の声は、魔女の声に、とてもよく似ている。


 どこかで腹話術めいたことをして僕を馬鹿にしているのだとしたら……

 そう想像しただけで、僕はひどい虚脱と羞恥と憤怒を感じた。

 見つけ次第一発殴ってもまあ許されるだろう、というぐらいには暴力への抵抗感が薄くなるぐらいに感情が極まりかけている。


 だけれど、


「君がたどり着いた答えは、おそらく間違いだ」


「……あなたは、魔女がどこかで腹話術めいたことをして、しゃべっているように見せかけているわけではない、と?」


「君は相変わらず傲慢だね。何度も何度も、言ったはずだがね? 猫は別にしゃべっていないわけではない。その情報伝達手段が人間より高次にあるというだけだ。人間は耳目を閉ざすのが好きで、そのくせ自分の頭の中身を他者と共有しているかのように話すのが好きで、けれど腹の底を知られるのが嫌いなだけだ。そして言語というものは取りこぼしが多く、意味の曖昧化が避けられないものだ」


「……」


「すでに君は真実にたどり着けるだけの情報を持っている。だが、君はそれを嫌がっている。そういうことだ」


「……つまり、あなたは、猫のネットワークで殺人を知って、気まぐれに探偵に依頼をしただけだ、と? 高次のコミュニケーションで取りこぼしなく情報伝達ができる猫と猫なら、事件現場のことを見てきたかのように知ることもできるでしょうし……」


「それは今回の件の答えとして、百点満点で言えば八十点はあげてもいい。けれど、君がたどり着くべき真実の答えとしては、零点だ」


「なんなんですか、僕がたどり着くべき真実って……」


「それを君に合わせて言葉にしたところで、取りこぼしと意味の曖昧化があまりにも多くなりすぎて、君に伝わるとは思えんな。そもそも、猫はしゃべらないものだ」


「しゃべってるじゃないですか! それに、高次の手段ではしゃべっているものなんじゃないんですか⁉︎」


 猫相手に、苛立ちを隠せなかった。


 この猫の物言いが傲慢でこちらを見下していて心をささくれ立たせるものなのは、今に始まったことではない。


 でも、今回のこれは、違う。


 なにか、僕の心にとてつもない負荷をかける要素が、ある。

 それがなんなのかはわからない。……もしかしたら、『僕がたどり着くべき真実』とやらと関係があるのかもしれない。


 そして。

 どうにも、その『僕がたどり着くべき真実』というのは、僕にとって、いたく不快なもののようだなと、ほとんど確信できた。


 猫は笑う。

 ……猫が口の端を上げて笑うわけがないので、そのように見えただけかもしれないけれど。


「君は、猫の思わせぶりな言葉に、ずいぶんと楽しいリアクションをしてくれるものだね」


「……」


「猫の言葉にそこまで取り乱すというのは、まともではないよ。人間としてはね」


「僕は、魔女にならなきゃいけないんですよ」


「君にとって、魔女とはなんだね?」


「神様に救われない人を、救う存在です」


「つまりそいつは、人間だね」


「…………」


「ここで不満そうな顔をするならば、私から君に言うべきことはないよ。これは君が納得するための儀式だ。最初から最後までね。その君が不満なら、猫は黙って去るだけだ」


 猫は立ち上がる。


 僕は、黙って彼女の方を見る。


 彼女は、


「開けたまえよ。君の器用な前脚は、天候の操作と、猫への奉仕と、扉の開閉のためにあるのだから」


 僕は仕方なく窓へ向かい、


「そちらではないよ」


「……え?」


「五階のベランダから降りるなんて、猫にだってそう簡単ではない。普通の猫を先ほど送り出したように、ドアを開けたまえ」


「いえ、でも、前は……そもそも、あなたが最初に入ってきたのは、窓で……?」


「ドアを、開けたまえ」


 断固とした口調。

 混乱している――ドアを開けろと言われたぐらいで面白いように混乱している僕は、そのまま催眠にでもかけられたかのようにドアを開けに向かった。


 猫がするりと開いたドアの隙間から出ていき、最後には可愛らしい声で「にゃーお」と鳴いた。


 スプリングでドアが閉まる。


 ……なにもかもがおかしい。

 猫の発言一つ一つの、心への刺さり方がなによりおかしい。


 玄関そばにしゃがみこむ。

 顔を覆う。


 わけがわからない。

 猫の煙にまくような言動が理解できないということじゃない。そんなものは理解しなくったっていいとわかっている。


 だって、猫だ。

 猫はしゃべらない。


 でも、猫の言葉が心に刺さる。

 おかしいほどに、心臓を抉る。


「……ああ、なるほど」


 どうにも、僕は、正気じゃないらしい。


 深呼吸を繰り返す。

 体が震えるのを落ち着かせようとつとめてリラックスするよう試みる。


 どれもしばらくは効果を発揮しないだろう。


 でも、一人でなんとかしなければならない。


 なんとかしてくれる姉はもういないし――


 僕は一人で、魔女にならなければならないんだから。

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だから魔女探偵を頼るしかなかった。 稲荷竜 @Ryu_Inari

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