3-7 猫の殺人は誰にも検挙できない。

 高層マンションでのびのびと暮らしていた猫は、そこでの生活になんの不満もなかった。


 飼い主……専属下僕との関係も良好。

 たまに異常なまでにまとわりついてくるのが難点ではあったが、そのぐらいのことは融通してやってもいいぐらいには、よく察してよく尽くす下僕であった。


 ……ここからは人間の視点でまとめさせてもらうけれど。


 その飼い主はずいぶんな猫好きであったらしい。


 また、かなり仕事の忙しい人で、だいぶストレスを抱えていたらしい。

 最近では特に酒浸りになって帰ってくる日も多く、そういった日には猫にとって不愉快なアルコール臭を撒き散らしながら、猫に抱きつき、猫を吸い、そのまま猫を枕に眠ってしまうのが常だったらしい。


 なるほど被害者の年齢とそれから住んでいる場所を知っていれば、だいぶ仕事ができる人というのは察せられるし、ストレスの多さもなんとなく想像が及ぶ。


 賃貸であれ分譲であれ、家賃というのはネットで簡単に調べられる。

 よしんば調べて調査対象そのものの値段が出てこなかったとして、似たような規模の住宅や、近隣の家賃から、なんとなくその家の額を割り出すことはさほど難しくない。


 そして家にかけているお金がわかれば、収入もなんとなく見えてくるものだ。


 さらに、ネットニュースなどでは、被害者の性別、年齢の他に職業なども書かれている場合が少なくない。

 職業別の賃金なども、根気をもって調べればおおよその額を割り出すことは可能だ。


 そういった情報から判断して、猫の語る被害者像は、僕の予想ともぴったり合致した。


 さて、仕事のできる、忙しいその人は、酒浸りにならないとままならないほどのストレスを日々抱え、猫にすがりつき、どうにかこうにか生きていた。


 ある日も酔っ払って帰宅し、ひとしきり猫を吸って眠りについたあと、ふと目覚めて、夜風に当たろうとベランダに出た。


 なにか興が乗ったのだろう。ベランダのふちに腰掛けた。

 ……いや、それは、興が乗ったというよりも、最近の被害者の癖だったようだ。


 被害者は飛び降り防止ネットをペンチで切り裂いて、ベランダのふちという、落ちそうで不安定な場所に腰掛け、足をぶらぶらさせてみたり、重心をかたむけてみたりというようなことを、よくやるようになっていたらしい。


 死ぬ気はなかったのだろう。

 でも、万が一で死んだら、それが運命だと受け入れる心情だったのだろう。


 ……そのまともでない行動を『ありえない』と断じてしまえないのは、僕にもそういう心境に覚えがあるからだ。


 いや。

 生きるのが嫌になる時は、きっと、僕でなくとも、誰にでも、ある。


 それは『死にたい』というほど積極的な気持ちではない。

 自分が死んで近親者に負債を残すのなんかはごめんだし、車なんかの前に飛び出してドライバーの人生を終わらせるなんていうことをしたいほど周囲への配慮を忘れることもできない。


 でも、ほんの少し、自分以外の誰かの不注意があれば、うっかり死んでしまうような状況に身を置いてみて、それで死んだら、『しょうがない』と思える、そんな心境。


 別にわざわざ交通量の多い車道を歩いたりなんかはしない。

 でも、足をすべらせたら危なそうな細い場所を歩いてみたり、いかにも危険な雰囲気のする路地裏に踏み込んでみたり……


 そういう冒険に身を躍らせたい時が、きっと、誰にでもあるはずだ。


 まず達成はできないとわかりきっている消極的な自殺。


 死んだらそれこそ宝くじに当たったかのようなラッキーだな、なんて思いながらする冒険。


 ……でも、一方では、『死ぬかもしれない恐怖』に踏み込んでいるという高揚がある行動。


 安全なスリル。

 生存率九十九%ぐらいの大冒険。


 ……どうしようもないストレスにさらされると、そういうのが、案外、スッキリと効くのを、僕は知っていた。


 被害者はそれを日常的にやっていたらしい。


 死ぬつもりのない自殺未遂は繰り返され、だんだんと『このぐらいは大丈夫みたいだな』というラインが推移していく。

 そうして最初のころからはありえないほど危険な、ギリギリのバランスをもとめて、その大冒険に身を躍らせて――


 ある日。

 バランスは、猫が少し押してやれば本当に死んでしまうぐらいのレベルに到達した。


「まあ、なんでね、やってみたらどうなるのかな、と思いまして。そしたら死んだようですね」


 ……依頼者の知りたがっていた、猫の殺人の動機は、そんな程度のものらしかった。


 好奇心が、人を殺したのだ。


「いやあ、知らない人間がドカドカと私の部屋に上がり込んでくるじゃないですか。あまつさえ、私を捕らえて連れ帰ろうとする。この乱暴狼藉に、私はすっかり参ってしまって、こりゃたまらんと逃げ出した、というわけです」


 高層マンションから落下死した被害者はすぐに発見され、警察は被害者の家で、ある程度の捜査をした。


 誰かが侵入した痕跡はなく、飛び降り防止用の金網は人為的に切り取られていて、被害者の体内からはアルコールも検出された。


 現場にいたのは被害者が飼っていた猫のみだ。


 猫が人殺しなんか、するわけがない。


 だから、事件は被害者の自殺ということで片がついた。


 誰がどう見たって納得する、完璧にまともな、解決だった。


「これからどうする?」


 依頼猫は問う。


「街で生きるのも案外悪くないかなあというところですね」


 加害猫は応じた。


「そうか」


 依頼猫がそう答えて、それきり会話は途絶えた。


 途絶えたというか――


 終わった。


 犯人は見付かれどもこれを警察に突き出すこともできず、犯人を犯人だとわかった者はこれを裁く意思もない。


 僕も僕で殺人を犯した猫を私刑に処すつもりもない。


 だから僕がケージを開けて、猫がそこからゆったり出て。


 ドアを開けて、そこから猫が出ていって。


 この事件は、それで終わったのだった。

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