春・第36話 たすけて②誤魔化すなら、ちゃんと誤魔化してよ

 全く現実感がなかった。

 このまま帰る気にはなれず、少し冷静になろうと、車を駐車場に停めたまま歩き出す。


(なにをやってんだ……俺は)


 ただ歩くだけの動作すら、おぼつかない。鼻の奥に痛むような引っかかりを覚えながら、真心は酔っ払いのような足取りで歩く。


 一年以上ゆしかと一緒にいた。

 いつの間にかいるのが当たり前になって、解ったような気になっていた。正面から大切にするようになってからは、家族のような近しさすら感じていた。『棚上げ』を自覚しながらも、互いにとって必要な存在になっていると自惚れていた。


 なにも知らないことを、思い知った。


(俺たちの関係は、あの家の中だけで通用する茶番だった)


 それを見て見ぬ振りをしていた。一歩外に出れば、さっき自ら口にしたとおりだ。


『私は、岩重と言います。ゆしかさんの……………………友人です』


 気付けば真心は病院の駐車場に戻ってきていた。

 せめてひと目でも、もう一度ゆしかの顔が見たい、と思い、病室に戻る。ノックをして戸を開くと、叔母は既に帰ったようで、ベッドにゆしかの姿だけがあった。


「……ゆし、か」


 入ったところで呆然として、息を呑む。

 真心に気付いたゆしかは、慌てたように目元を拭った。


(泣いてた……?)

「帰ってなかったのか、真心。はは……嬉しいな」


 力なく笑う。鵜呑みにするほど真心は楽観的にはなれない。生々しく誤魔化そうとするゆしかに、心が追い詰められ初めているのだと突きつけられた気分になった。その瞬間、


(う)


 不意に吐き気に襲われ、膝から力が抜けて足元がぐらつく。倒れそうになってとっさに踏み止まる。誤魔化しようがないほど呼吸が速くなり、真心は胸を押さえた。


「だ……大丈夫?」


 ベッドの上からゆしかが驚きと気遣いの混じった声を投げかけてくる。我に返った真心は平静を取り繕い、「ああ、すまん。ただの、立ちくらみだ」となるべくゆっくり言った。


「……ごめん」


 ゆしかは誤魔化されない。


「わたしのこの姿……思い出させちゃうよね」

「そんな……ことは」

「いいよ、真心」


 ゆしかは微妙に目が合わない。


「本当のことを言ってくれて」

「なにを……」

「だって」


 ゆしかはつらさを押し殺すように歪んだ笑みを浮かべる。


「真心、怖がってる」


 真心は小刻みに首を横に振る。


「んなことは……ねえ。俺は」

「そんなつらそうな顔で、なに言ってんだよ。誤魔化すなら、ちゃんと誤魔化してよ」


 ゆしかの声に、微かだが棘のような響きが混じった。


「ゆしか……」

「わたしが病気なんだよ。来てくれたのは嬉しいけど、そんな顔するなら来ないでよ」

「そんな……言い方」言葉がひとりでに口をつく。「俺はお前が心配で。なにかできないかと」

「だってわたしは……っ! 真心のなんでもないじゃん!」


 鋭い声が胸を串刺しにした。


「あ…………あぁ……」


 呻くような情けない声が漏れ、遅れて自分が発したものだと気付く。

 解っていた。ゆしかの精神が不安定になるのは無理もなく、言われたことはもっともだと。


(なにを、言わせてるんだ俺は……!)


 己の不甲斐なさに震える。だがゆしかも自分の発した言葉にショックを受け、固まっていた。


「……ごめん、なさい」


 決壊寸前の絞り出すような声で言い、震える目で真心を見ている。


「わたし、おかしい……忘れて。でも」


 涙を堪えるような溜めの後、はっきりとした声で言った。


「もう帰って」


 なにも言い返せず、真心は病室を後にした。なにか言うべきだとは思っていたが、今口を開けば言ってはならないことしか出てこない予感があった。

 真心は夢遊病者のように歩き、自分の車まで辿り着くと、倒れ込むように寄りかかった。


(限界……だ)


 悟っていた。冬の終わりに決めた『棚上げ』では、ここから先へ進むことはできない。それが今の短いやり取りではっきりした。


(だが……だからと言って)


 なにをどうすればいいのか全く浮かばない。ゆしかの指摘どおり、真心の身体は怖がっている。なにを、かも解らないほど、暗闇をわけもなく恐れる子どものように震えている。


 しばらくそうしていると、不意に衝動に襲われ、真心は車に乗り込んだ。

 そして高速道路に乗って北上した。数時間後、車は二本の桜の大木が立つ場所で停まった。

 ゆしかが来たいと言った、樹齢五百年の老木がある山奥だ。


 宵闇が辺りを染め出し、すっかり葉桜になった場所に他の人影はない。

 車から降りた真心は木の下に佇んで、重なり合う葉を見上げた。輪郭が闇に溶け始めていても、その荒々しく太い幹も、空を覆い尽くすように縦横無尽に伸びる枝も、そこに生える生命力そのもののような葉も、数百年の時を思わせるのに十分な姿だった。

 花はさぞ、美しいだろう。

 確信に近い思いを抱いた。ごつごつした幹に手のひらで触れる。


「ゆしか」


 呟いた瞬間、大地が揺らぐような目眩に襲われた。

 真心は膝から崩れ落ち、古木の根元に胃の中のものをぶちまける。胃液だけになっても、止められない。視界が天変地異のように回転し、脳を直接金槌で砕かれているような頭痛がした。


「……助けてくれ」


 助けてくれ。助けてくれ。たすけてくれ……たすけて……。

 声にならず、何度も何度も唇を動かす。


「どうして俺が、ゆしかが、こんな目に遭わなきゃいけない? ただ俺たちは、一緒に何気ない毎日を過ごしたかっただけなのに……!」


 もはや顔を流れる体液が、涙なのか汗なのか吐瀉物なのかすら解らない。

 地面にうずくまりながら、訪れる闇の中、真心は意識を失うまで泣き続けた。

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