春・第35話 たすけて①さすがに迷惑なんだ

 それから一週間経っても、ゆしかの熱は平熱まで下がらなかった。


 クリニックの内科では風邪と診断された。風邪は病名ではないから、原因は「なんらかの細菌かウイルスが感染したんでしょうね」という程度しか説明もない。念のため血液検査を実施したが、その結果も特に重大な問題はない、という見解だった。医者に、ゆしかが過去の病歴を話したかどうか、病院には付き添ったが診察室に入っていない真心には解らない。


「だから、大丈夫だって言ったじゃん」


 とゆしかは言うが、体調は悪いままだ。真っ直ぐ歩いてトイレに行くことも難しい。壁に手をついて部屋の中を移動しようとするゆしかを支えながら、真心は大丈夫だと思えなかった。


 会社には「身内が深刻な体調不良なんです」と説明して、有休申請をしていた。途中、一度だけ会社へ行ってパソコンを持ち帰り、ゆしかの家で看病しながら仕事をする毎日を続けた。


 そして幸か不幸か、その状態のままゴールデンウィークに入った。もちろんどこにも出掛けることなどできない。ゆしかの熱は微熱まで下がることはあったが、薬が切れるとまた三十八度を超す。徐々に衰弱していくのを目の前で見ていた真心は、その最終日に言った。


「ゆしか。お前……家族に連絡はしてるのか」


 それは暗黙の了解とも言える雰囲気から、一度も触れたことのない話題だった。


「やだな。大丈夫だって」

「いいから教えろ!」真心は声を荒げ、厳しい目を向けた。「……さすがに長引きすぎだ。教えてくれ。『前のとき』はどこに入院してた? 家族はどこにいる? 今、なにをしてる?」

「……言いたくない、って言ったら?」


 少し頬が痩けたゆしかは、寝そべったまま目を伏せた。

 真心は下唇を噛み、毒を吐き出すような目で言った。


「さすがに迷惑なんだ。このままお前の面倒をひとりでずっと見ているわけにはいかねえ。そんくらい解ってくれよ。な、俺を楽にしてくれ」

「……ごめん」


 ゆしかがショックを受けたように瞼を目一杯開いた。寝たまま真心の顔に震える手を伸ばし、ひと差し指を、目の下に添える。


「そんな心にもないことを、言わせてしまって」


 真心の目尻から涙が零れる。指の腹で受け止めながら、ゆしかは目を閉じる。


「親は、もういない。保護者……わたしが成人したから元保護者か。は、都心の郊外にいるよ」


 たどたどしい口調で、うわごとのように、ゆしかは説明した。


 小さいころ、両親ともに交通事故で亡くなったこと。

 都心近郊の叔父夫婦が、親戚中から押しつけられるような形でゆしかの保護者になったこと。

 そして中学の半ばに、例の病気にかかったこと。叔父夫婦には随分面倒をかけ、そのせいもあって子どもを含めた叔父夫婦の家族の間に亀裂が入ったこと。


 病気が寛解し、中学を卒業する時点で、ゆしかは両親と暮らしていた県に戻りたいという理由で、ひとり暮らしをしたいと伝えたこと。叔父夫婦はどこかほっとした顔をしていたこと。

 高校卒業まで、生活費は親の保険金と遺産から出ており、今も一部それに頼っていること。


 できればもう叔父夫婦に、連絡をしたくはないこと。もしゆしかが入院すれば、成人しているとはいえ、彼らは面倒を見ざるを得ない立場にあり、それは互いに望んでいないということ。


「それにね……つまり、そうなればわたしは、都心に行かなきゃいけなくなる」


 それがなにを意味するか、ゆしかが今『なにを言いたかったか』、確認しなければ解らないほど真心は察しが悪くはない。

 しかしそれでも真心は、言った。

 ゆしかの手を取り、自分の額に付け、まるで祈るように。


「頼む。その保護者に……連絡してくれ」


 ゆしかは諦めたように唇を笑みの形にして、じっと見ていなければ解らないくらいの量だけ、頷く。そして数日後、真心の目の前から姿を消した。




 まるで止まっていた時間が流れ出したようだった。

 ゆしかをその、後見人である叔父夫婦が迎えにきた日、真心はゆしかの希望もあって立ち会わず、会社に行っていた。

 それからSNSで数日おきに、ゆしかから断片的に連絡を受け取った。


鹿「前入院した大病院で精密検査を受けました。確定じゃないけど、やっぱり、再発みたいです。とりあえず結果が出るまで入院になりました」


鹿「診断確定です」


鹿「短くても数週間は入院することになるから、もし、そのうち、暇だったら、面会に来てください。この病気は身体の免疫が極端に低くなるから、無菌状態を保たなきゃいけなくて、あんまり長い時間会えないんだけど。だから本当に、気が向いたらでいいから」


鹿「前と同じパターンです。やっぱり、化学療法しかないみたい。二ヶ月くらい」


 真心は週末、車で六時間以上かけてその病院まで行った。面会時間は午後からと決められており、一番早い時刻に受付をした。個室に入る前にマスクをして、手をアルコールで消毒した。


 ゆしかは幾つかの管を腕や鼻に繋がれ、ニット帽とマスクをしていた。家でも着ていた部屋着だったし、顔色は真心が看病していたときよりは大分ましだったが、身体はかなり痩せこけていた。薬のせいか、なんとなくぼんやりとしているようだった。


 無菌室の面会時間はひとり一時間までと決められていて、真心はゆしかとぽつりぽつりと言葉を交わした。なにを話したのかは全く覚えていない。他愛もないことだったのだろう。ゆしかは何度か微笑んだと思う。

 時間が来て部屋を出るときになって、他の人間が部屋のドアを開けた。


「あ……」まともに目が合って、真心は会釈をする。


 やや小太りの中年女性で、酷く疲れた顔をしていた。化粧気はほとんどなく、四十代後半から五十代前半に見える。『叔父』の奥さんだろう、と解った。


「……あなたは?」


 女性は不審者を見る目を不躾に向けてくる。マスクで顔が隠れているし、ゆしかと同年代には見えない異性だから無理もない、と真心は思い、椅子から立ち上がって会釈をした。


「私は、岩重と言います。ゆしかさんの」とっさに言葉が出ず、妙な間ができた。「友人です」

「家の近くに住んでて……凄く仲良くしてくれてたから。わざわざ来てくれたの」


 ゆしかのフォローも入り、一応女性は納得したようだった。


「真心。このひと、わたしの叔父さんの奥さんで、如月季さん」

「ああ、うん」真心は季子がなにかを言う前に、一歩前に出て言う。「あの……もしよろしければ、少し外でお話しできませんか?」


 どう振る舞うべきか思案するような表情で、季子は「ええ、はい」と答えた。

 季子と病室を出た真心は、入院患者共用の広間でテーブルを挟んで座った。設置してある大型テレビからはニュースが流れているが、他にひとはいない。


「それで……なんですか?」


 神経質な様子を隠そうともせず、季子は目をきょろきょろさせながら言った。


「……あの。ゆしかさんの容態は、どうなんでしょう?」

「どうって……あの子はなんて?」

「……過去のことは大まかには聞いています。それが今回、再発したのだとも」

「大分詳しく聞いているようですね。なら、それが全てですよ」

「……大丈夫なんでしょうか」

「それは、私に訊かれても困ります。医者ではありませんので」

「心配ではないんですか?」

「そりゃあ……早く良くなってほしいです。だけど、難しい病気みたいですから。私も、正直、毎日ここへ来るのは大変なんです。家族の面倒も見なければいけませんし、誰かが食事の用意を替わってくれもしない。しかも今年、娘が大学受験で。よりによってこんなときに……」


 最後の言葉は、ついうっかり出てしまった、という感じで、さすがに「しまった」という顔になって口元を押さえた。真心は我慢しなければテーブルを拳で叩いてしまいそうな衝動に襲われ、歯を食いしばる。数秒待ってから、口を開いた。


「……ご苦労を、お察し致します」


 悪人というわけではないだろう。このひとにはこのひとの生活があり、今回のことは突然横から入り込んできた面倒ごとなのだ。話を深掘りすれば、夫は仕事で忙しいから手伝ってくれることはないし、子どもたちは(何人いるか知らないが)「どうして余所の子の面倒をお母さんが見るの?」と言っている、というようなことをこぼすかもしれない。

 だが真心は今、そんなことを聞きたくはなかった。聞いている余裕はなかった。


「あの……ご負担が大きいのなら、私に、彼女のことを手伝わせていただけませんか?」


 絞り出すように言った。本当はもっと、言い方があると思っていた。流れを組み立てなければいけない類の話だったし、普段の真心ならそうしただろう。

 しかしゆしかの顔が脳裏にちらつき、叫び出しそうなのを抑えながらそうすることはできそうになかった。案の定季子は訝しげな顔になり、「あなたが? どうして?」と睨むような目をした。「仕事はしてないんですか?」


「や……それは」

「住んでるのもこのあたりじゃないんですよね? 申し出はありがたいんですけど、ただのご友人に甘えるわけにはいきません。私たちが……私の夫が、あの子の血の繋がった親族なんです。外への面子だってありますから」


 もういいですか? と言わんばかりの早口だった。安い感傷、同情に付き合ってる暇なんてない。すぐに用事を済ませて家に戻らなきゃいけない。やることは、嫌になるくらいあるんだ……そういう意思が目から透けて見える。真心は喉が詰まり、なにも言えなくなった。


「また……面会に来ます」


 数秒の間の後、ようやくそれだけ吐き出して、真心は立ち上がって会釈をした。

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