春・第37話 手遅れだった①君が一緒に生きようと言ってくれたなら

「どこまでが正常で、どこからが異常かを決めるのは難しいんです」


 以前、真心にそう説明してくれたのは、精神科医だった。


「私も、どちらかと言えば理屈っぽいと言われることが多い。これが、度を超せば病気や障害と診断される。精神疾患というのは、別次元のものではなく、誰の隣にもあるものです」


 白い部屋だった。デスクにはパソコンが置いてあって、真心がなにかを話す度、キーボードのかちゃかちゃという音が部屋に響いた。


「度を超す、と判断する指標のひとつは、社会生活に支障があるかどうかです。少なくともあなたは会社で長く仕事をされているようですし、お聞きした話も明瞭です。つまり」


 困ったような地顔で、それなのに毅然とした顔にも見える医師は目を合わせて言った。


「僕はあなたに先天的な障害があるとは思いません」


 精神科を受診してみてくれないか。


 というのは、当時まだ妻だった彼女の願いだ。命の淵から生還し、病院を出た彼女は、むしろ入院中よりも様々なものに苦しめられるようになっていた。


 真心に日々ぶつけられる言葉は八つ当たりに近いものが大半だったが、吐き出すことで彼女の心が少しでも軽くなるなら構わなかった。しかし一向に言葉が尽きる気配はなく、自分のことまで切り裂くような罵倒を、真心は止めることも、ろくに言い返すこともできず、ただ相槌を打つしかなかった。それがかんに障るのだろう、彼女はさらに激しい感情をあらわにした。


 そしてとうとう『あなたは先天的な精神障害なのかもしれない』と言った。

 ひとの気持ちが解らない、こんなに私が苦しんでいるのに助けてくれない。これはもう、なにか元々障害があるのに違いない、と。


『診断を受けてよ。もし障害なら、あなたを許せるかもしれない。なら仕方ないと納得できる』


 真心自身、自分がどういう精神状態にあるのかなど、とっくに解らなくなっていた。心が病んでいると言われればそうかもしれないと思ったし、障害に偏見を持っているつもりもなかったので、彼女の気が済んで、少しでも心が安らかになるなら、それでもよかった。


(ただ……君はそれでも、俺と一緒に生きてくれるだろうか?)


 気になったのは、それだけだった。

 だが診断結果は先のとおりで、それを伝えても彼女は『そんなはずがない』と頑なだった。

 真心はまるで悪鬼に乗り移られでもしたかのような彼女に、どうすれば自分が彼女を大切に思っているかを伝えられるのか、まるで解らなかった。

 やがて彼女は真心がいない間に実家へ帰り、ますます意識のすれ違いは加速した。


『とにかくもう一度話そう。俺たちはいつも、そうやってきたじゃないか。君がなにに苦しんでいるのかを知り、俺になにができるのか、一緒に考えさせてほしい』


 真心がそういう言葉をかけるのは逆効果で、『気持ち悪い』と吐き捨てられた。


「なあ、真心。それでお前は、これからどうするつもりだい?」


 そう言ったのは、まだ地元にいた北地だ。彼女のことも知る北地には、これまでの経緯も、考えも、全てを話していた。


「俺はお前がしたいことを止めない。お前と彼女が、どれほど理想的な夫婦だったかも知ってる。だから俺にも、今の状況は信じ難い。ただな……もし、やめ時が解らないだけなら」


 真心は首を横に振った。


「俺が彼女を見捨てれば、本当に終わってしまう。今までの、楽しかったことや、幸せな思い出、病めるときも一緒に生きようと誓った約束……全て、真っ黒になってしまう」

「……しかし」

「ここで逃げれば、俺はきっともう、二度と誰かを想うことができなくなる」


 だが結局、それから長い時間の後、真心は諦めた。

 もう届かない。無理だ。これ以上頑なに想い続けたところで……彼女はむしろ、不幸だ。


 離婚裁判が始まってからはその考えが、免罪符のようにちらついた。

 解放してやったほうがいい。事実はどうあれ、彼女はつらい記憶を真心と一緒に葬り去って、蓋をしようとしているのだ。いわば彼女と真心は、既に異なる時の中にいる。

 ならば、恨みをぶつける相手役を受け入れ、彼女の人生から姿を消すのが唯一残された、彼女に対してしてやれることではないのか。


 本当はずっと前から、心の片隅に生まれていた。だがそれは、自分が正当に諦めるための詭弁に過ぎないと切り捨てていた。

 それでももう、他の選択肢は思い浮かばなかった。


 本当にひとりになってしばらく経ったある日の夜、真心はふたりで暮らしていたリビングで、テーブルの前に座り、一葉の写真を手に遠い目をしていた。

 ベッドに入っても眠ることができず、起きて、引っ張り出した写真だった。


 それは彼女が元気だったころの写真、ではない。

 病床にあって、既に化学療法の副作用や寝たきりの生活によってぼろぼろになった彼女と、真心と、手のひらに抱えられた、皮膚のない真っ赤な胎児と、三人で写った唯一の写真だ。


 看護師が撮ってくれた絵の中の真心と彼女は、笑っている。

 もちろん、楽しかったからではない。

 だけど心底無理な作り笑いでもない。子を送り出すのに悲愴な顔は相応しくないと、彼女が「笑おう」と言ったのだ。「家族写真は、笑顔じゃないと」と言った彼女の目には、静かな、けれど強い意思があった。真心の愛した、目だった。


 このときまでは確実に、彼女と真心は、同じ時の中にいたのだ。


「……すまねえ」


 真心は呟く。一度声にしたら止まらなくなって、まるで経文のように唱える。


「すまねえ」


 写真の中の、真心自身に。お前が守りたかったものを守れなかった。


「すまねえ」


 彼女に。結局なにもしてやれなかった。


「すまねえ」


 名もなき子に。お前のことを、ずっと彼女とふたりで、語っていきたかった。

 確かにいたんだと。生まれてくることはできなくとも、確かに、生まれてこようとしたんだと。何ヶ月もかけて身体をつくり、何時間もかけて、外に出てきてくれたんだと。

 ずっと、ずっと、その記憶に寄り添いながら、生きていきたかった。


「すまねえ……すまねえ……すまねえ……すまねえ……すまねえ……すまねえ……!」


 壊れたように繰り返しながら、初めて、彼女を恨んだ。


(どうしてひとりを選んじまったんだ)


 涙が溢れてきて、目を開けていられない。


(罵倒されようが八つ当たりされようが構わなかった。

 君が一緒に生きようと言ってくれたなら、俺はどんな苦しみにだって耐えられたのに!)


 声には出さなくとも、それは真心の人生で最も激しく悲痛な、絶叫だった。


(こんな……こんなことなら)


 テーブルに肘を突き、片手で顔を覆う。


(いっそ、想い合ったまま)



 死んでくれたほうが。



 と、その言葉を心の上に載せて光を当てる寸前で、我に返る。


(…………俺は……今…………………………………………………………なにを…………?)


 その瞬間、ついに真心の張り詰めていたものが無残に千切れた。

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