冬・第24話 逆鱗に触れる②いつ死ぬか解らない身体

「……ゆし」


 真心が声を出すのを待っていたかのように、また遮ってゆしかが言う。


「その価値観には全面的に同意するよ。想われないから想わない、なんてのは本物じゃない。

 で、なに?

 長々とご高説いただき恐縮ですが、つまり『俺はお前に好かれたくない。迷惑だ』ってこと?」

「そういう、意味じゃ」

「何度言っても解っていただけてないみたいだから何度でも言うけどね」


 ゆしかはテーブルに手をついて立ち上がる。飛び越えそうなほど前屈みで目を見開いた。


「わたしは、真心が好きだよ。

 大好きだよ。

 はっきりと、一番大事だよ。

 弱さも含めて、もっと真心を知りたいよ。真心を苦しめているものがなんなのか、わたしにできることがなにかないのか、知りたい」


 真心の顔が歪む。まるで心臓を握り潰されるかのような悲愴さで歯を食いしばる。「く……」と、喉の奥から嗚咽のような音が漏れた。

 ゆしかは萎えそうになる思いを叩き伏せ、さらに前に出る。


「駄目なら、ちゃんと駄目って言ってよ。誤魔化さないで、本当の理由を教えてよ。嫌いなら嫌いだって言って。わたしを、子ども扱いしないでよ!」


 泣くもんか、とゆしかは決めていた。気を緩めればすぐにでも喉の奥からせり上がってきそうな感情の塊を、顎を引いて押さえる。

 真心は視線を受け止めながら、言葉を探していた。


「……違う。違うんだ」

「なにが違うの?」


 今日は逃がさない。

 という目で睨み付けてくるゆしかから、逃げてはいけない、と思っていた。ここでもし逃げれば、きっとゆしかは俺を許さないだろう、と解っていた。


(なにが違う? 俺はなにを……)


 考えを深掘りしようとした瞬間、頭の奥に絞られたような激痛が走った。

 視界が回る。

 遅れて津波のように荒れ狂う吐き気の予感に襲われる。一瞬、身体と心の接続が断たれたようになり、自分がどこでなにをしていたのか忘れる。ほとんど無意識に目を逸らし、伏せる。


「お前はまだ若いから」


 とっさに口走っていた。


「気も変わるだろうし、歳の差だって。もっと他にいい奴が」


 次の瞬間、真心は椅子から弾け飛んだ。

 本棚に後頭部を強打し、床に倒れる。テーブルから食器が落ちて割れる音がした。

 ゆしかに殴られた。

 口の中に血の味が広がって理解する。

 テーブル上のものを薙ぎ払い、飛び越えて全身の体重を載せた拳を放ったゆしかは、続いて真心の身体を跨ぎ、膝立ちで首根っこを掴んで引き起こす。

 これまで真心が見たことのない顔をしていた。

 絶望と怒りが同時に振り切れたような表情……それでもなお、真っ直ぐだった。


「……お前が言ったんじゃないか」


 震えるゆしかの声に、真心は恐れるように瞼を引き絞り、歯を食いしばる。


「わたしが『本物』しか要らない人間だって。それが嬉しいって!

 そのお前が、わたしに、偽るのか。そんな明らかに本物じゃないって態度で、目も合わせられない不誠実さで……まともに振られるよりもずっとショックだよ!」


 真心の目が光を失う。顔中に皺が寄り、疲労の濃さはまるで老人のようだった。

 その変化に、ゆしかが初めて怯む。


(……なんて顔をするんだ)


 激情を叩き付けながら、頭のどこか一方では酷く冷静だった。


(これでも……これでも、なにも言ってくれないのか。真心。わたしじゃ駄目なのか)


 真心の目はもはや現実を見ていない。身体も脱力し、意識を失ってしまったかのようだ。

 ゆしかの手から力が抜けかける。

 しかし襟から指が離れる寸前、衝動的にもう一度手繰り寄せる。

 諦めることを、自分に許すことはできなかった。



『俺は嬉しいんだ。君みたいな奴が、存在してるってことが。

 まあ、なんつうか……とても真っ直ぐで、『本物』しか要らない、みたいな』



 真心の声が身体中に流れていた。あの言葉に、どれほど、何度、救われてきたか。

 あの日から一緒に過ごした時間、どんなに世界が違って見えたか。

 それをまだ、ほんの少しも、伝えられていない。

 この手を離して諦めるわけにはいかない。

 それなのに、言葉が見つからない。


(なんでもいい。なにか。なにか……真心に、届く言葉を)


 脳内を全検索する思考の速度は意識を越える。頭の中を洪水のように言葉が流れ過ぎてゆき、見境なく手当たり次第に引き寄せる。


(なんでもいいから、とにかくこの場を繋ぐ言葉を……!)


 そして。

 不意に掴んだそれを、ゆしかは吟味することなく舌に載せる。

 口から飛び出したのは、自虐のような音だった。


「わたしに『将来がない』って言ったら?」


 自分の声に驚き、ほんの僅かな間、絶句した。

 それは、これまで長い間意図して封じ、自らに対してすら禁じていた言葉だった。

 心の半分ではまずいと思った。しかし次の瞬間、あとの半分でゆしかの頭は再び動く。

 真心の睫が、微かに揺れたから。

 今、止まるわけにはいかない。どんな内容でも、真心に手を伸ばすことを絶対にやめない。


「歳の差を理由にしたよね? でもじゃあ、わたしが『いつ死ぬか解らない身体』だって言ったら? 今しかないとしたら、今のことだけ考えて、返事をくれる?」


 言い切ってすぐに後悔が足元からせり上がってきた。身体がばらばらになりそうな感情の波が体内を逆流し、指先から血の気が引く。同時に吐き気がせり上がるのに耐えていた。

 一瞬でも気を抜けば、くずおれてしまいそうだ。


 ふと、目の前の空気が変わったのにゆしかは気付いた。

 端から見れば、部屋は極めて静かな状態にある。

 先ほどまで華やかに盛り付けられていた食卓はポテトフライやチキンナゲット、餃子の皿がひっくり返り、ミニツリーも倒れている。床にはシャンパングラスが転がり、ひとつは割れて散っていた。テーブルの端から酒が滴っている。


 だが音はない。


 本棚の前へ仰向けに倒れ込んだ真心と、その脚に跨がって胸ぐらを両手で掴んでいるゆしかは、言葉も交わさず視線も合わせず、動きを止めている。

 白熱球の温かみのある光が陰影を付け、静かな部屋を照らしていた。


 光を失っていた真心の目が、やはり音もなく開く。

 瞼をゆっくりと限界まで開け、首をもたげ、顔を上げる。ゆしかと目が合う。

 そこに浮かんでいた感情に、ゆしかは気圧された。


 空気が痛い。

 そう思うような、初めて見る真心の、本気の怒りだった。



 音が響く。



 ゆしかの身体が斜め後ろに飛んで、落ちていた食べ物を潰す。

 真心の振るった渾身の平手打ちが、ゆしかの頬をまともに打った。

 信じられない、という顔でゆしかは頬を押さえて見上げた。真心は片膝を立てて起き抜けのようにのろのろと立ち上がり、容赦のない目で見下ろした。


「冗談でもそんなことを言うな!!」


 空気が震える一喝に鼓膜が痛み、ゆしかの堪えていたものが崩される。

 心の中に築いていた堤防にヒビが入り、僅かに流れ出した水は、たちまち濁流になった。

 耐えられなくなったのは、叩かれたから、怒鳴られたからではない。


「……う」


 気付いたからだ。

 ここだったんだ、と。

 真心の、触れてはいけないところ。きっと真心を、ずっと、ずっと、苦しめているもの。


「うあ……ぁああああああああっ!」


 滅茶苦茶な涙を溢れっぱなしにしたまま、ゆしかは駆け出す。

 リビングを出て廊下を走り、玄関のドアを開けて裸足のまま飛び出した。

 雪の勢いは益々強くなり、滑って何度も転んだが、この世の終わりみたいに叫びながら、構わず走り続けた。


 遠くなる声を聞きながら一方の真心は、ゆしかの頬を叩いた手のひらを見つめる。

 床に膝からじわりと崩れ落ちて両手で顔を覆う。


「俺は……馬鹿か」


 我に返って呪いのように呟くも、それを聞くべき相手はもはや遠かった。

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