(8)大切な物語
大人しく、いつもふわふわと笑っている男の子だった。生き物を観察するのが好きで、自然豊かな穏山のことも、一緒に冒険してくれる女の子のことも、とても気に入っていたようだ。
上羽も、想太くんのことが好きだった。それは異性に対する好意ではなく、もっと素朴な、家族に向けられる感情に近かった。あの子は、彼を弟のように想っていた。
私も同じだった。
上羽の記憶を喰べた私は、会ったこともない想太くんのことを、いつしか生き別れの弟のように考えるようになっていた。初めこそ上羽のものだったその感情は、私の心と混ざり合い、やがて私だけの想いに変わった。私だけの『好き』になった。
もっと想太くんのことが知りたい。もっと想太くんの想い出が欲しい。もっと想太くんの記憶が喰べたい。毎日、上羽の帰りが待ち遠しかった。
そんな日々が二年も続くと、段々と外に出して貰えないことが我慢できなくなってきた。記憶を喰べさせて貰えると言っても流石に全部ではないし、記憶はどこまでも記憶なのだ。現在や未来に対する欲求まで抑えてくれるわけではない。私は「お外に出たい」と不満を口にして母の顔を曇らせた。母は最初こそ「すぐにお医者さまが病気を治してくれるから」と辛抱強い態度を取っていたけれど限界が来るのも早かった。私が我儘を口にすると叱責で応じるようになった。時には平手が飛んでくることもあった。それでも私は母の機嫌を窺いながら何度も頭を下げた。少しだけで良いからと。
それがいけなかった。私があんまりしつこいものだから母が不審に感じたのだ。秘密の夜会は立ちどころ母の知るところとなった。
母は、私が上羽の記憶を喰べることを禁じた。当然だ。脳の発達にどんな影響があるかも分からない。実際、上羽は、齢の割に落ち着きがないことを度々先生から指摘されていた。私が記憶を喰べたことが影響していたかは定かでないけれど、母が、全部お前のせいだと頬を打つのも無理はなかった。
私は、母の袖に縋った。「お願いします」「どうかこれだけは許してください」と。床に額を擦り付けて懇願した。上羽も同じようにしてくれた。けれど、いたずらに母の機嫌を損ねるばかりで聞き入れられはしなかった。以後、私たちは記憶のやり取りをすることを固く禁じられた。
勿論、四六時中監視されているわけじゃないから目を盗もうと思えばいくらでも機会はあった。母の記憶を消すことだって難しくない。でも、幼い私たちにとって母の存在は絶対だった。叱られるかも知れないと怖々やっているうちならまだしも、面と向かってやめろと命じられたからには従うしかなかった。母は裏切れないという心理的な枷は何よりも大きかったのだ。
私の部屋は、再び昏く閉ざされた。
絶望に打ちひしがれ、陽が沈むまでひとり茫然としていた。人生の全てを奪われたのだ。上羽がくれた幸せな時間も。想太くんを好きだという気持ちも。何もかも。
思い返せば、何を被害者面していたのだろう?
他人から奪うことしかできない癖に。それしかできない害虫の癖に。自分のものだけは奪われたくないなんて勝手が通るとでも思っていたのだろうか? 醜悪な性根だ。私には、私を憐れむ資格なんてないのに。
話を戻そう。結局、母の方針は良い結果を生まなかった。しかし、それは母のせいではない。悪いのは私。母は犠牲者だ。母は陰喰のことなんて何も知らなかった。私が触れずとも記憶を喰べられることなど知らなかったのだ。だから、上羽から記憶を摂取できなくなった私がこの力を暴走させるなど思いもしなかった。
いや、それも正確ではないだろう。最初から力を制御できていないのだ。制御できない力に暴走も何もない。秀玄兄さんの話だと陰喰としての私の能力は不完全らしい。力を自在に操れるのは対象と接触したときだけで距離が離れると意識してそれを行使できなくなる。言い換えれば無意識に他者の記憶を奪ってしまう。私自身、記憶を奪ったことに気付かないほどだ。ふとした切っ掛けで他者の記憶が欠落していること……私のなかに知らない記憶が混ざっていることに気付く。この力は常に周囲の人間を蝕み続けている。
上羽の記憶を摂取できているうちはまだ良かった。脳が喰べたもので満たされている間は、奪う力も比較的大人しい。けれど定期的に摂取できていたものが断たれると、陰喰の力は他者の記憶を貪り始める。当時、私の周りにいたのは二人だけだ。
母と上羽。
陰喰の力は、二人の記憶を無節操に奪い始めた。
仕事上の重要な予定。プライベートでの大切な約束。料理の手順から。友人の名前まで。ありとあらゆる記憶が二人の頭から抜け落ちていった。母は怒り狂った。「何もしていない」と喚く私の髪を掴み、洗面所まで引きずった。罪を認め、泣いて許しを請うまで私の顔を水に突っ込み続けた。拷問に等しい苦しみだった。それでも母の仕打ちは正しかった。何もしていないなど空々しい。全部私のせいなのだから。
上羽は溺れる私の側で必死に赦しを請うていた。「白亜を許してください」と涙で顔をぐしゃぐしゃに歪めて。母の罰が終わってからも、あの子は私に謝り続けた。ごめん、と。
代わってあげられなくてごめん。
苦しい想いをさせてごめん。
止められなくてごめん。
嘘を吐いてごめん。
楽しいことも、苦しいことも、全部半分こにしようって約束したのに。
白亜だけにつらい想いをさせてごめん。ごめんなさい。
「ごめんなさい。白亜……っ」
ううん、そんなことない。上羽がそう言ってくれるだけで……私のために泣いてくれるだけで、私は死んでも良いと思えた。そう。死ねば良かった。私なんて死ねば良かったんだ。謝罪なんて何の意味もない。私が犯した罪を思えば、私に唯一できたことはあのとき命を絶つことだけだった。
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