(9)優しい物語

 私たち家族を結んでいた糸は、あるとき不意にぷつりと途切れた。本当に突然だった。切っ掛けはいつもと同じ。私が母の記憶を知らずに喰べてしまっていたこと。違うのは、その記憶が私たち三人にとって多少特別だったこと。

 私は、私たち姉妹の誕生日の記憶を、母から奪い取った。

 あのときの母の貌を鮮明に覚えている。私たちは、玄関で帰宅した母を出迎えた。母に駆け寄り媚びた声音で「おかえりなさい」と挨拶をした。母の態度は素っ気なく、その手に仕事用のバッグしかないことを不思議に思った。私は、母が私たちの好きなチーズケーキを買ってくるを知っていたからだ。でも母は普段通り夕食を作り始めた。私たちは顔を見合わせたが「きっと驚かそうとしているのだ」と互いを納得させた。揚げ物をする母の顏を覗き、期待の目を投げかけた。私たちが浮かれていることを不審に感じたのだろう。母は「今日は何かあるの?」と疲れたふうに訊いてきた。上羽は、その問いを母の冗談と捉えた。待っていましたと言わんばかりに「あのね」と満面の笑みを浮かべた。

「今日は私たちの誕生日なの!」

 糸はそれで切れた。

 母は、煮え滾る鍋に菜箸が落とした。それを拾おうともせず固まっていた。「揚げ物が焦げてしまうのに」 そう変に素直な心配をしたことを覚えている。やがて母の頭がぐらりと傾き、両眼が私を捉えた。

 母の顏には何の感情も浮かんではいなかった。

 私たちの戸惑いを余所に、母は、私に向けて両腕を伸ばしてきた。まるで抱き締めんとするような……慈愛すら感じさせる柔らかさがあった。母は、私の両頬を優しく撫で、その手をするりと首へ滑らせた。お母さんの手が温かい。そんな想いが胸に広がった瞬間、首を包む手に、ぐっと力が込められた。

 潰れた気道から、乾いた空気の音が漏れた。

 私は、魚みたく口をパクつかせ、脚で滅茶苦茶に床を掻いた。母の身体も蹴ったと思う。けれど締める手は一向に緩まない。一層強く、一層深く、私の喉に喰い込もうとしていた。

 ――死ぬ。

 私は、赦しを乞う目を母へ向けた。

 ぞっとした。

 母は笑っていた。娘の首を締めながら。

 笑っていたのだ。安らぎに心を浸すように。

 母は限界だった。子育ての疲れ。不気味な子どもを看なければならない疲れ。その子に翻弄される疲れ。将来に光明を見出せない疲れ。絶えず注がれ続けたそれらの泥が、娘の誕生日すら忘れてしまったという現実を前に、母の器を破壊した。

「おかあさんやめて! おかあさん!」

 上羽の泣き叫ぶ声が、布で隔てたみたいに遠かった。

 私は、暗く落ちていく意識のなかで、母の手首に爪を立てた。手放せば終わる。力を抜けば終わる。爪が肉を破る感覚だけが、途切れそうな意識を繋ぎ止めていた。そして、ある境界を越えたときだ。

 不意に視界が明るくなった。

 眼が眩むばかりの白い光。それが世界を満たしていた。

 やがて光のなかに影が浮かんだ。二人の若い男女だった。男のひとには見覚えはない。一方、女のひとはどこか懐かしさを感じた。二人は夫婦だろう。自然にそれが理解できた。二人は幸せそうな……本当に幸せそうな笑みを浮かべながら、こちらを見下ろしていた。こちらを。

 ――誰を?

 映像が切り替わった。今度はもっとはっきりと覚えがあった。私の家だ。見飽きた座敷。見慣れた縁側。でも内装に少しだけ違和感がある。柱に刻まれた傷もない。不思議に思っているうちに景色が居間へ移動する。先に見た夫婦の姿があった。夕飯時だろうか。男のひとは卓袱台に座ってテレビを眺めていた。女のひとは台所に立っている。その女性の後ろ姿を見て、私は気が付いた。

 ――あのひとは、お祖母さまだ。

 だとしたら、これはお母さんの?

 映像が次々に切り替わる。お花見。ワンピースの女の子。無人の電車。屋上の遊園地。雪だるま。演奏会。遠足。卒園式……。全て母の記憶。母の想い出だった。

 私は、母の記憶を喰べたのだ。

 助かるために。生き延びるために。幼い頃の母の記憶を。

 ――なぜ?

 なぜ幼い頃の記憶なのだろう? 私は、母の記憶を、

 疑問に戸惑う間にも、記憶は止まらず流れ込んでくる。小学校の入学式。仲良しグループ。いなくなった男の子。祖父の死。いじめ。恋慕。羨望。優越感……。幼少期こそ単純な情動しかなかった母の記憶は、成長を経るに連れ、より複雑に、より情報量を増していく。

 と思った。

 奪い取った記憶が、

 それは母の人格を破壊しかねないことを意味し、同時に母の人格にことを意味していた。喩えるならプール一杯の水を無理矢理胃のなかに注ぎ込むようなもの。プールも、私も、使い物にならなくなってしまう。

 それでも記憶の流入は止まらない。

 親友と呼んだひとへの想いは相反する嫉妬を孕み、母のなかで汚泥のような劣等感を育んでいた。十七歳の恋は、母を空へ舞い上がらせるほど高揚させ、この世から消えてしまいたくなるほどの恥辱を与えた。両親に対する敬意と、理由のない嫌悪。肥大する自尊心。未来への漠然とした不安と、一匙の夢。憧れは愛に変わり、欲望と快楽が絡みつく。

 愉快。軽蔑。信頼。疑心。幸福。孤独。矛盾。汚辱。恍惚。矛盾。矛盾。矛盾。矛盾!

 私は、絶叫した。

 母の人生が……母のすべてが私のなかに入ってくる。

 どろどろに沸騰したチョコレートで脳味噌を犯されているみたいだった。甘美な愛が大脳を掻き回し、心地良い憎悪が眼球を膨張させる。頭蓋骨の中身は耳から漏れ出しても肥大が止まらず、痛覚神経は優しく引き千切られていく。

 狂気すら手放したくなるほどの矛盾と激痛。記憶の奔流。

 そんな地獄の果てに、心が、ひとつの感情で満たされた。

 大きく、あたたかなその想いは、二つの小さな命に注がれていた。見守る母の頬には柔らかな笑みが讃えられている。母は、愛おしそうにその片割れに手を伸ばし、そして、

「死んで」

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