(6)苦い物語

「迷惑をかけたね。何度もすまない」

 頭を下げる秀玄さんに、僕は「いえ」と口ごもった。続く言葉が見つからなかった。正座する彼の脇に目を向ける。姫神家にある客間……畳に布かれた布団の上で、屋敷の主は寝かされていた。外はまだ明るく、縁側には陽が差している。枕元に置かれた扇風機が、白い髪を穏やかに揺らしていた。

 あれからすぐに秀玄さんに連絡を取った。午後の予定は切り上げてくれたのだろう。彼は半時間と経たずに駆けつけてくれた。通りすがりの女性の手も借り、神坂さんはクリニックの病室へ、姫神さんは自宅へ運び込まれた。

 姫神さんの部屋に上がるのはこれが二度目になる。前に来たのは春だった。あのときからは室内の様子も微妙に変わっている。書棚。姿見。和箪笥。そんなものに変化はないけれど、僕が持たされた日本人形がなくなっていた。代わりに目を引いたのは、文机の花の図鑑。それと小型のヴァイオリン。

(前とは、違う)

 姫神さんが倒れた理由もそうだった。

「申し訳ありません」

 我ながら弱々しい謝罪が漏れた。

「謝罪する理由が?」

 秀玄さんは苦笑する。僕は目を伏せた。

「白亜さんを責めるようなことを言ってしまいました。それで彼女は混乱して」

 彼は、成る程と息を吐く。

「まあ、それだけが理由ではないよ。一種のオーバーヒートのようなものだろう。記憶の過剰摂取だ。前にも似たようなことはあった」

 秀玄さんは、姫神さんの額に手を当てた。彼女は静かだった。人形、あるいは役目を終えた機械のような……有り体言えば、死んでしまったような……そんなふうに見えた。このまま二度と目を覚まさないのではないか? あり得ない話ではないような気がして不安になる。僕は「あの」と慎重に尋ねた。

「白亜さんは、自我を保つために記憶の摂取が必要だと言っていましたが」

 渇いた喉に、唾を通す。

「本当にそうなんですか?」

 彼の視線が僕を射抜いた。首筋が汗ばむのを自覚する。

「……彼女が記憶を喰べるところは何度も見ました。喰べ終わったあとは、いつも意識が混濁していて、他人と自分が判別できなくなっている節がありました。正気を保つどころか、逆に自我が失われつつあるような……そんなふうにしか見えないんです」

 秀玄さんは答えない。射し込む光が、眼鏡の奥にあるものを隠していた。息苦しい沈黙を挟み、やがて彼はぽつりと言った。

「風間くん、そこの押し入れを開けてみたまえ」

「え?」

「そこにあるだろう。花の描かれた襖だ」

 指し示されたりはしなかった。けれど上座にある襖がそうなのだろうと思った。下半分に紫苑の花が描かれている。

「構わない。開けてみなさい」

 遠慮したわけではない。意味が分からなかった。でも言われた通りにするしかない。立ち上がり「失礼します」と引手に指をかけた。

「これは……」

 物置だった。物が置いてあるから物置としか言いようがない。でも量が尋常じゃない。二段になった押し入れのなかに溢れんばかりに物が敷き詰められている。アコースティックギター。ラグビーボール。仏像。ぬいぐるみ。地球儀。竹刀。一眼レフカメラ。虫取り網。絵画。マリア像。天体望遠鏡。積み上げられた古書。いつか見た日本人形……。表面に見えているものを取り除けば、奧も底もまだあるだろう。雑多で、滅茶苦茶で、まるでゴミ捨て場だった。

「この娘の趣味……というわけでは、勿論ないよ」

 言葉を失う僕に、秀玄さんが告げた。

「それは記憶の残滓だ。この娘が喰べた記憶の持ち主……彼らが好んだもの。思い入れが強かったもの。そういったものを、いつからか集めては手元に置くようになった。使うわけじゃないし飾るわけでもない。カラスみたいに只集めるんだ。捨てろと言っても聞きゃしない。前に、ドライブに行った海岸で、朽ちた動物の骨を持ち帰ろうとしたときは流石に参ったよ。やめさせようとすると彼女は不思議そうに言った。兄さん、私が漂着物を集めているのは知っているでしょう? とね。全くどんな人間の記憶を喰べたんだか」

 ぞっとした。

 無秩序。混沌。支離滅裂。

 それが彼女の頭の中身なのだ。

 背後から、重苦しい溜息が聞こえた。

「君が指摘した通りだ。

 彼は、眼鏡を外し、眉間を押さえていた。

「他者の記憶を取り込み続けるのだ。彼我の境界が失われたところで不思議はあるまい。常人より多少の耐性はあるかも知れんがそれも限界がある。負荷に耐えられなくなった脳はやがて正常な機能を果たさなくなる」

「っ……だったら!」

「違う。。そうだろう? 自らの崩壊を招くものをどうして自ら取り込まなければならない? 必要だからだ。つまりは早いか遅いかの違いでしかない。つまりは……」

 彼は、頭痛を堪えるような貌をした。

「白亜は生物として不完全なんだ。生まれながらに麻薬を摂取し続けなければならないようなものだ。破滅は目に見えている。それでも……日常の些細な記憶だけを喰べるなどしていれば、それなりに正常な意識を保つことができただろう。陰喰の一族は、少なくとも四十までは生きられる。だが、この娘自身は三十まで保つかどうか」

 三十。頭に浮かんだ無機質な数字が、彼女の寝姿に重なった。

 十数年後の自分なんて想像できない。遥か遠い未来に思える。けれど決して生きるのに充分な時間ではないことぐらい、僕にだって分かる。

「そうなると分かっていながら、白亜さんが苦しみの記憶を喰べるのは何故なんです?」

 襖を閉じて、姫神さんの枕元に座った。彼女を挟んで秀玄さんと向き合う形になる。

 今度は正面から彼を見た。

「白亜さんは栄養価が高いからだと言っていました。そして人助けがしたいからだと。でも、それだけが理由とはとても思えない。少なくとも自分を犠牲にしてまでしなければならない理由があるはずだ。それには……」

 姫神白亜。眠る彼女は美しかった。幾度となく想った。妖精のようだと。

 けれど、今の僕は、このひとに違う誰かの影を見ている。

「僕は九歳の頃まで穏山に住んでいました。白亜さんも元々は穏山の住人だったそうですね。小学三年生……僕と同じ九歳の頃まで。そして僕も彼女も、両親を亡くして、別の家族に引き取られている」

 姫神家の座敷は、十六歳の少女がひとりで住むには、広すぎるほどに広い。

「僕は、九歳より前の記憶がありません。医師からは火事で両親を失った現実から逃れるためだと言われてきました。でも穏山に白亜さんがいたとなると、当然、話が違ってきます」

 どこからか風鈴の音が聞こえた。微かな音色が耳の奥へ染み込んでいく。

「……僕には、仲の良い女の子の友達がいたようです。名前も素性も覚えていませんが一枚だけ写真が残っています。その娘にはどこか白亜さんの面影がある。そして今日、白亜さんは僕のことをと呼んだ」

 乱れそうな鼓動を、呼吸で押さえ付ける。

「元を辿れば、全部そこに行き着くんじゃないですか? 彼女が自分を傷付けるのも、僕に記憶がないことも、全部」

 胸の奥が熱を帯びていた。

「白亜さんは、あの写真の女の子なんじゃないですか?」

 秀玄さんは「それは」と言い淀んだ。初めて見せる動揺らしい動揺だった。心に柔く落ちてくるものがあった。やっぱりそうなんだ、と。

 本当のことが知りたい。そう身を乗り出したときだった。

「違うわ」

 不意に声が割って入った。

「姫神さん」

 意識を取り戻していたらしい。薄く開いた瞼の隙間に潤んだ瞳が光っていた。

 彼女は、肘を突いて身体を起こそうとする。

「……兄さん、風間くんと二人だけで話をさせて」

 けれど頭が痛むのだろう。上半身を持ち上げた瞬間、きつく顔を顰めた。

 秀玄さんが、彼女の背に手を添えた。

「白亜、起きなくていい。横になっていなさい」

「そうだよ、安静にしなきゃ……」

 そう膝を立てたときだった。下から伸びてきた手が僕の襟を掴んだ。抗い切れず前方へバランスを崩す。彼女に覆い被さることは避けられたけど、その瞳が間近にあった。

 吐息が、唇にかかる。

「風、間くん。私とあなたは、知り合いじゃない。そして、その子も、私じゃない」

 引き離そうとしたのだろう。秀玄さんが「白亜」と声を張った。姫神さんは、無視し、さらに僕を引き寄せる。顏が触れ合う程。その瞳は、やはり、あの女の子に似ていた。

 彼女は、否定するように瞼を閉ざした。

「その子の名前は黒木上羽。風間くんとは本当の姉弟のように親しかった」

 ひとつの言葉。ひとつの事実。それらが痛みとなって彼女を苛んでいるようだった。彼女は苦痛に満ちた顔で続けた。

「私が殺した、双子の姉よ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る