(5)甘い物語

 それからも無言の時間は長かった。姫神さんは、くたりと窓辺に肩を預け、物想いに耽っていた。話を振れば相槌も打ってくれる。でも、どこか上の空だった。

 時間は、各駅で停まりながら確実に過ぎていく。それは寂しいことだった。

 だから一番自然に思える質問をした。

「お昼、何食べるの?」

 彼女は、しばらく黙っていたけれど、やがて億劫そうに息を吐いた。

「まだ何も。帰って準備をしていれば遅くなるし。外で食べるか、買って帰るか」

 それなら、と僕は声を弾ませた。

 午後はこのまま美術室へ向かう。昼は街で食べるつもりだったけど特にプランがあったわけじゃない。予定がないなら一緒にどうだろう、と。

 推し測るような目が僕を捉える。口を結んで返事を待った。やがて「いいわよ」と端的な答えが返ってきた。僕は、胸を撫で下ろした。

 提案の半分は嘘だった。お昼は外で済ませるつもりだったのは本当。でも美術室に行く予定なんてなかった。

(心を読まれたりはしてないよね)

 若干の不安と嬉しさを胸に、汗ばむ手を握った。

 電車は、僕の地元を通り過ぎ、市の中心部の駅へ向かう。次第に乗客が増え、オフィスビルが目立つ頃には二人でボックス席を占領しているのが後ろめたくなっていた。

 尤もそれも束の間だ。一駅、二駅と過ぎると、すぐに降車駅に辿り着いた。

「風間くんは、何か食べたいものがあるの?」

 日傘を広げながら訊いてきた。僕は通りを眺める。飲食店街を目指してはいるけれど、どこで食べるかは全くの白紙だ。男の僕より姫神さんの好みに合わせたほうが正解という気がする。

「私だって別に。こだわりはないわ」

「そうなの?」

「風間くんが良ければ、前みたいにハンバーガーにしたって構わないけれど」

「ハンバーガー? そんなもので良いの?」

「良いわよ。どうして?」

 僕は「いやさ」と帽子の鍔を掴んだ。

「姫神さん、ジャンクフードとか食べるんだね。ちょっと意外だった」

 そう頬を緩め、一歩、二歩と舗道を踏んでから気付く。隣に誰もいないことに。振り向くと彼女は、日傘の影で立ち尽くしていた。

「……風間くん?」

 信じられないものを、見たくないものを見てしまった。そんな貌。奇妙な反応に僕のほうが戸惑ってしまう。何か失礼なことを言ってしまったのだろうか?

 訳も分からず、焦った。

「ほら、姫神さん、ちょっと不思議な雰囲気があるから。それに、あのお屋敷でしょう? 俗っぽいものを食べてるイメージがなくて」

 言い訳を並べている気分だった。他愛のないことを口にしているだけなのに。

 でも彼女の反応はそうじゃない。話せば話すほど動揺の色が広がっていく。

 何かを間違った。それは分かる。でも何を間違ったのか分からない。

「姫神さん、あの……?」

 手を伸ばした、そのときだった。

「風間、くん……?」

 背後から名前を呼ばれた。聞き覚えのある声に。

 頭を巡らすと、そこには、

「神坂さん」

 私服姿の神坂さんが立っていた。

 どうしてここに? そう尋ねるより早く、図書館に課題をしに来たのだと分かった。昨日は僕がいたせいで何もできなかったから。にしたって、結局何がいけなかったのだろう?

 原因が正されていないことは一目で分かった。彼女は、今にも泣きそうな貌をしている。揺らぐ瞳は、僕の背後に……姫神さんに注がれていた。

 ひび割れるような音が、聞こえた気がした。

「神坂さんっ」

 彼女は身を翻した。恐ろしいものから逃げるみたいに。腕で目元を拭いながら、喫茶のある角へ駆けこんで行く。

「追って!」

 姫神さんが叫んだ。

 躊躇う僕に、さらに声を張り上げる。

「私のことはいいから、はやく! 彼女を!」

 剣幕にたじろぎながらも頷いた。慌てて神坂さんの後を追う。走り、角を曲がろうとした瞬間、向こうからきたひとにぶつかりそうになった。全身を捻り、「ふざけんな」という怒声を置き去りにする。どっと汗が噴き出した。

(どうして)

 追いかけてくるとは思っていなかったのだろう。神坂さんは、少し先でとぼとぼと靴底を引き摺っていた。けれど、すぐに足音に気付くと、また全力で駆け出した。図らず「くそ」と悪態が漏れた。

(どうして、こんなことに)

 神坂恋花と初めて会ったのは中学二年の春だった。別に初めから仲が良かったわけじゃない。あの頃の彼女は教室の騒がしい背景の一部でしかなかった。ひとりの人間として彼女に接したのは、ある夏の放課後。忘れ物を取りに学校へ戻ったときだ。茜色に染まる教室で神坂さんが独り居残っていた。彼女は、鞄の中身……筆記用具とか体操服を並べて、何やらぶつぶつ呟いていた。トラブルだろうとは思ったけれど関わろうとは思わなかった。気軽に声をかけられるほど僕たちの距離は近くなかった。眉間に皺を寄せる彼女を尻目に教室を出ようとした、そのときだ。彼女が「ねえ」と声をかけてきた。縋るような、哀れな調子で。

『あたしのバレッタ知らない?』

 僕が、知らないと答えるより早く、

『死んだ、お祖母ちゃんから貰ったものなの』

 そう言って彼女は泣き出した。ぽろぽろと大粒の涙を零して。

 僕は、神坂さんと一緒に髪留めを探した。教室。部室。更衣室。一度彼女が探した部屋から、絶対に立ち寄らないような校舎の隅まで。彼女が「もういいから」と止めるまで、ずっと。

 失くしてはいけないものだと思ったのだ。絶対に失くしてはいけないものだと。

 故人との大切な想い出。

 それは僕にはないものだから。

 結局、髪留めは見つからなかった。彼女には代わりのものを買って渡した。神坂さんは「貰う理由がない」と困惑していたけれど無理矢理受け取って貰った。きっとそれは、彼女のためではなく、僕自身の無力感と、僕自身の虚しさを埋めたかったからだ。

 人が涙を流すのは、いつだって何かを失ったときだ。

 彼女は、何を失ったのだろう?

(知りたい)

 だから走った。人目を憚らず、シャツをぐしゃぐしゃに濡らしながら、必死に。

 大通りに出て、歩道橋を駆け上がる。四つの車線を横断する橋。丁度その真ん中で神坂さんの手首を掴んだ。彼女は身体を反転させ、そして、

「触らないで!」

 振り払われた。あまりの口調に言葉を失ってしまう。そもそも呼吸を整えるのに精一杯で全然言葉が浮かばなかった。それは神坂さんも同じだ。汗に塗れた顏で、ぜえぜえと喘いでいる。目だけが、刺々しくこちらを睨んでいた。

「ど……」

 胸が、きりりと痛んだ。

「どうしたの? 神坂さん。昨日から……ぼく、何か怒らせるようなことした……?」

 乾涸びた喉で辛うじてそれだけを絞り出せた。何の捻りもない陳腐な問いかけ。その陳腐さが、彼女の傷口を一層抉ったのは明らかだった。

 神坂さんは、口許をひくつかせた。

「……それ、どういうつもりで、言ってるの……?」

 感情がどろりと滲んだ声音。狼狽えるしかなかった。

「どうって……? ごめん。本当に分からないんだ。どうして君が怒っているのか」

「はあ?」

 顏が嘲りで歪む。絵具を滅茶苦茶に塗りたくったみたいな歪み。

 見たくなかった。彼女の、こんな貌は。

 神坂さんは、くふと嗤った。

「何それ? 冗談のつもり? だったら風間くん。君、最っ低えだよ」

「……ごめん、疲れてるのかな。最近色々なことを忘れてて。僕が悪かったのなら謝るよ。だから理由だけでも教えて貰えないかな。旅行のときはあんな楽しそうに」

「ふざけないでよ!」

 瞳から溢れた涙が、濡れた頬をさらに濡らす。

 神坂さんは、ぎゅっと瞼を潰した。

「……言ってよ。あたしが鬱陶しいなら、鬱陶しいって。言ってよ……。どうして、そんな……そんな」

 あとは幼児のように泣きじゃくるだけだった。

 途方に暮れていると、背後でこつりと靴音が響いた。

「ごめんなさい、神坂さん。風間くんを責めないであげて」

 姫神さんだった。走れるような恰好じゃないのに、急いで追いかけてきたのだろう。上気した頬に、白い髪が張り付いていた。肩を大きく揺らした。

「これは私のミスよ」

 神坂さんは、充血した眼で、僕と彼女を順番に睨んだ。

「それが君のお姫さまってわけ?」

 僕の視線は、情けなく姫神さんを窺った。彼女は沈痛な面持ちで息を吐くと、日傘を捨てて一歩踏み出した。そう無造作に距離を詰められるとは思っていなかったのだろう。神坂さんは「ひっ」と怯えた声を上げた。伸ばされた白い手が彼女の肩を掴む。

「なに? 何なの……? やだ……っ」

 神坂さんが身を捩る。けれど抱き締めてくる手が抵抗を許さなかった。

 二人の姿が、淡い光に包まれる。

「やめて……お願い。離して。……離して」

 何が起きようとしているのか。。だから、それは本能的な恐怖だったのかも知れない。捕食されるという恐怖。

 姫神さんは、彼女の耳元で「静かに」と囁いた。

「力を抜いて。何も怖いことなんてないの。神坂さん。次に目が覚めるときには何もかも良くなっているわ。だから安心して」

 柔らかく、身を委ねたくなるような、甘い囁き。

 けれど神坂さんは何の安堵も覚えなかったようだ。怖気をぐっと堪えるように仰け反った。悶え、もう一度「離して」と呻くと、涙を溜めた目で、

「風間くん……」

 泣きながら、縋ってくる。

「たすけて……たすけてよ、風間くん……やだ、こんなのやだよ! 風間くん! 風間くん! 風間くん!」

 黒い髪の上で、何かがきらりと光を放った。

 僕があげた、花柄の髪留めだった。

 その瞬間、悟った。

 

「姫神さん!」

 肩を掴んで引き剥がした。彼女はあっさりと神坂さんを放した。僕は、前のめりに崩れる神坂さんを抱き留め、歯噛みした。

(遅かった)

 神坂さんは、芯が抜けてしまったみたいにぐったりとしている。膝を着いて見返ると、見下ろしてくる頬に一筋の涙が伝っていた。

「貴方には、何の責任もないわ」

 涙を拭う。その瞳の輝きに、僕は神坂さんの姿を見た。お祖母さんの形見を失くしてしまったと泣いていた彼女。美術室にきて「三年間よろしく」と笑っていた彼女。線香花火を眺めながら夏が終わるねと寂しそうに呟いた彼女。、哀しげに告げた。

、風間くんに恋していたの。そして

「…………」

 何を、言っているのだろう。

 それ以外の言葉が浮かばなかった。何も考えが出てこない。全然理解が追い付かない。

 揺らぐ脚の下でクラクションが鳴り響く。彼女は続けた。

「君の記憶はが食べた」

 背骨に刃物を刺し込まれたような、ぞくりとした感覚。

「…………いつ?」

 彼女は、自らの左手を握った。

「昨日の午後。図書館で偶然、君を見かけたの。……違う。貴方は、酷く思い悩んでいるようだった。それはそうよね。だってのことは、ただの友達だとしか思っていなかったんだもの。まさか……旅行の帰り、電車で二人きりになったとき告白されるなんて、思ってもみなかった。本当に」

 顔を顰めた。

「本当に困ったよ。だって神坂さんに好きだなんて言われて、は、なんて答えれば」

「姫神さん……」

 彼女は、はっとして「違う」と頭を振った。

「……貴方は、彼女の想いを拒絶し、を傷付けてしまったことを気に病んでいた。だから彼女は……違う。私は、の記憶を食べたの。風間くんが苦しんでいたから」

 額に手を当て、ごめんなさいと呻く。

「私のミスよ。すぐに神坂さんと会って彼女の記憶も喰べておくべきだった。でも、夏休みだから貴方と会う機会もないだろうって油断していたの」

 姫神さんは、もう一度ごめんなさいと繰り返し、膝を折った。

「貴方の記憶もすぐに喰べるから」

 僕は、愕然とした気持ちで、意識のない神坂さんを見た。

「ちょっと、待って……」

 手を伸ばしてくる彼女を制止した。

 固まっていた脳が、ぎこちなく動き始める。

「おかしいよ、やっぱり。どうして、そんなことをするんだよ……?」

「元通りにするためよ。貴方たちにとっても、それが最善なの」

 奥歯がぎしりと音を立てた。

「勝手に決めないでよッ!」

 気付けば声を荒げていた。その叫びは彼女を驚かせたが、怯ませはしなかった。一瞬引っ込んだ手が、神坂さんの髪に触れる。

「強がらないで。貴方は苦しんでいたでしょう? 神坂さんとの関係が壊れてしまって。神坂さんだって同じ。後悔してた。心が引き裂けそうなほど」

 湿った黒髪を梳いた。優しい手つきだった。その右頬にはまた涙が伝っている。

「神坂さん、私と貴方が恋人同士だって誤解したみたい。違うのにね? 本当に申し訳ないことをしてしまった」

 撫でる手が、髪留めの花に触れた。

 顔が火照ってどうしようもなかった。夏の陽射しのせいじゃない。もっと深く、胸の奥深くで沸々と感情が湧き立っていた。髪留めに触れる手を払い、神坂さんを柵にもたれかけさせた。

「姫神さん、もう余計なことはしないで」

 見据え、きっぱりと言った。

「僕は、僕の苦しみを消して欲しいだなんて思ってない」

 彼女は呆気に取られていた。けれど、すぐに頬を拭うと瞳に激しい感情を灯した。

「嘘よ。どうして、そんな嘘を吐くの? 貴方も、神坂さんも心の底から願ってた。また元の二人に戻りたいって。……確かよ! 記憶を喰べたんだもの! そしてそれは実現するの。貴方たちはやり直せるのよ? だったら、それが一番いいじゃない!?」

「それでも想いは消えるんだろ!? 彼女が僕を想ってくれたことも、記憶も。何もかも! それを消して元に戻ることなんてできないんだよ!」

 じゃあ、どうすれば元に戻るの?

 彼女の目がそう訴えかけていた。心なんて読めなくても、それぐらいは分かった。

 だから告げるのはつらかった。

。僕たちは、泣いて、傷付いて、やり直したいと願っても、それでも生きていくしかないんだ」

 そう言葉を絞り切ったとき彼女の顔面は蒼白になっていた。僕と神坂さんを緩慢に見比べ弱々しく首を振る。震える唇から「嘘よ」と擦れた声が漏れた。揺らぐ視線の先には神坂さんの髪留めがある。どこにでもある安物の髪留めだ。そんなものを、ずっと大切にしてくれていたのだ。

「……神坂さんを傷付けてしまったことは苦しいよ。やり直したいって気持ちも嘘じゃない。でも、その苦しみは。僕たちの人生の一部なんだ」

 それを奪うっていうことは。

 神坂さんの手を握った。

「僕たちを殺すのと同じことだ」

 その瞬間だった。

 絶叫が響いた。

 硝子を無理矢理引き千切るような、金切声。

 姫神さんが、天を仰いで叫んでいた。

 眼球は、零れんばかりに見開かれ、まるで焦点が合っていない。

「姫神さん!?」

 僕は、彼女の右肩を掴んだ。揺すると頭がぐらぐら揺れる。けれど叫び止む気配は全然ない。やがて甲高い悲鳴に言葉が混じり始めた。

「……がう……ちがう……ちがう……ちがう……ちがう、ちがう、ちがう、ちがう……私は……ちがう……してない…………殺してなんかない……殺してなんかない……殺してなんかない……殺してなんかない! ! ッ!!」

 頭を掻き毟り、長い白髪を振り乱した。

「あああぁぁぁ……ちがう、ちがうの。私……悪いのはわたし……殺したのは私っ! ああああああああぁぁァァァ……ちがう。ちがうわ。私が殺した……わたしが、ころした……わたしが殺した……わたしが、悪いのぉ……」

「姫神さん、しっかりして! 姫神さん!」

 声を張り上げても無駄だった。彼女は、呼びかけを払うように首を回すと、ごんと地面に額を打ち付けた。絶句していると、蹲った背中から「い、い」と吃逆のような音が漏れ聞こえてくる。耳を欹てると、それは謝罪の言葉だった。

「……さい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ご、めんな、さ……あ……あ……あ、あ、あああああ」

 ゆるして。

 おかあさん。

 ゆるして。

 ゆるして。

 

 ゆるして。そ、

「そうたくんッ! わたしをゆるしてッ!!」

 頭を振り上げ、白目を剥いた。

 そして仰け反った全身を痙攣させると、ぐらりと身体を傾ける。

 僕は、身動き一つ取れず、彼女が倒れる音を足元に聞いた。

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