(4)幸せな物語

「いつまでも忘れないって、そんなに大切なことかしら」

 不意にそんな呟きが聞こえた。物憂げな瞳は、車窓の景色に注がれている。

 少し戸惑った。

 姫神さんはずっと無言だった。駅へ戻り、帰りの電車を待つまでの間も「もう大丈夫だから」「すぐに良くなるから」と一言二言発した以外は、元気のない相槌しか返ってこなかった。だから頬杖を突く彼女が僕の答えを待っているのだと気付くまでに電車はそれなりの距離を進んだ。僕は、取り繕うために「そうだね」と返した。膝の間で手を組み、次の言葉を考える。

 浮かんできたのは墓地の光景だ。一生懸命にお墓を拭く彼女。

「想い出を大切にするってことは、その想い出のひとを大切にするってことでしょう。それが大事じゃないなんて、僕には言えないよ」

「それで苦しむことになったとしても?」

 問い詰めるような響きはない。どこまでも自問のようだった。

 ふと想った。絵を描きたいと。

 今この瞬間をキャンバスに収めたいと。

 憂鬱の眼差し。陽を透き通す白い髪。閉ざされた唇。

 車輪の音が速まっている気がして胸を押さえた。冷房が効いているはずなのに頬はどんどん熱くなっていく。前の座席を直視できない。そうして伏せた視界の端に、小さな色が見えた。半端に畳まれた日傘の刺繍。紫苑の花だ。彼女が墓前に供えていたのも、確か。

「姫神さん」

 無人のロングシートを見た。行きと同じく乗客の姿はほとんどない。赤ん坊を膝に抱く母親の姿も、もう上手く思い出せなかった。

 正面に向き直る。

「僕には、九歳までの記憶がない」

 見開かれた瞳から、彼女の動揺が伝わってくる。申し訳なく感じた。

「前に話したよね。火事で両親を亡くしたって。そのときのショックでね、それまで生きてきた記憶を全部なくしてしまったんだ。家族のことも。友達のことも。何もかも全部。喋ることはできたらしいけど、自分の名前も覚えていなかった」

 原因は隣家の失火だったらしい。夕飯時に起きたその火事は、隣の家を燃やし、僕の家を呑み込み、両親を炎で包んだ。僕は、消防士のひとに助けられて無事だった。けれど代償として人生の全てを失った。文字通り、全てだ。

「あの日から僕は何者でもなくなった。一から風間想太を始めなきゃいけなかった。周りの人には本当に大変な苦労をかけたと思う。勉強とか、常識とか、笑ってしまうぐらい何も覚えていなかったから。特に、悠さんには感謝してもし切れない。父さんの古い知り合いというだけで僕を引き取ってくれたんだから。本当の子どもみたいに大事にされて、たくさんの幸福を与えて貰った」

 そう、僕は幸せだった。悠さんも、博貴さんも、本当にいいひとたちだ。赤の他人でしかない僕を、ここまで大きく育ててくれたのだから。

「それでも、僕はこう考えてしまう。

 自分の口許に、苦いものが浮かぶのが分かった。「ほら」と掌を上向ける。

「映画とか小説でたまにテーマになるでしょう? 。家族がいて、友達がいて、何不自由なく暮らせているはずなのに、どこか虚しくて、退屈で……満たされない何かがある。ああいうの、すごくよく分かるんだ。僕も、どこかに本当の幸せがあるんじゃないかって、ずっと、そんなことを考えながら生きてきた」

 無人の車内を見回した。

「僕はそれを失われた記憶の中に求めた。でも両親を想うのとは少し違う。父さんと母さんが死んだことなんてちっとも悲しくない。だって記憶がないんだもの。僕にとっては知らない誰かと変わらない。でも、穏山で暮らした日々の中には、確かに、本当の家族がいて、本当の友達がいて、があったんじゃないかって、そんなふうに考えてしまうんだよ。……ごめん、よく分からないよね」

 分からないはずだ。自分でもよく分かっていないのだから。

 でも姫神さんは頷いたりはしなかった。呆れも、嘲りもしない。ただじっと耳を傾けてくれている。だから僕が笑うしかなかった。

「繰り返すけど、それは現実の両親とは関係ない。二人を悼む気持ちは全然ない。今日のお墓参りだって簡単に済ませて帰ろうとしてたくらいだ。でも今日はそこに君がいた。君は亡くなったご家族のことを真剣に悼んでいた。そんな君の姿を見ているとね、自分が恥ずかしくて仕方がなかった。何を甘えたことを考えていたんだろうって。それに……ごめん。気を悪くしないで欲しいんだけど、とても羨ましかった。家族を想える君のことが」

 空いた座席に触れた。冷気に曝されたシートは冷め切っていた。ここに座っていた誰かの温もりなんて、すっかり忘れてしまったみたいだった。

「人を想う気持ちは、やっぱり忘れちゃいけないんだ。重くても背負っていかなくちゃいけない。君のおかげでそれがはっきりした気がするよ。ありがとう。お墓の掃除、手伝ってくれて」

 本心からの言葉だった。その感謝を、彼女は持て余してしまったのかも知れない。微かに唇を震わせたあと、ぎゅっと結んだ。やがて車窓へ向けられた瞳は、夏の陽光で煌めいていた。

「風間くん、私は……」

 彼女は何かを囁いた。小さくてはっきり聞き取れなかった。車輪が、線路を叩く音ばかりが響く。

 聞き間違いかも知れない。僕にはこう聞こえた。

 ――私は、貴方が羨ましい。

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