(3)鬼の物語

「本当に良いのか? 帰るまで待っていても構わないんだぞ」

 秀玄さんは運転席の窓から姫神さんを見上げた。白い髪が左右に揺れた。

「良いのよ。荷物さえ持って帰って貰えれば。それに兄さんは約束があるのでしょう?」

「予定を変更する分には問題ないさ」

「昔を懐かしみたいの。待たせてしまったのに、ごめんなさい」

 秀玄さんは、それでもなお、何か言いたげに口を開いた。けれど僕の存在を思い出したのだろう。半端に言葉を呑み込んだ。「分かった」とハンドルに向き直る。

気を付けて帰りなさい」

 返事を待たずに窓が閉まり、車が発進する。姫神さんは、小さくなる影を見送ることなく、僕の袖に触れた。

「行きましょう、風間くん」

 促されるまま歩み始めた。目的地があるわけじゃない。歩道もない田舎道を気の向くままに散策するだけだ。暑いし面白いことは何もないと説明したけれど「構わないから」と譲ってくれなかった。一月前、喧嘩別れになってしまったことは特に気にしてないらしい。白い日傘がくるりと回る。揺れるワンピースも同じ色だ。夏らしく麦わら帽子を被ってはいるけれど、白に白を重ねた姿は、どこか浮世離れした印象を受ける。お墓を掃除しているときはスポーツウェアを着ていたのに、不意に姿が見えなくなったと思ったら、この服に着替えていた。お寺のシャワーを借りたそうだ。白い髪や、露わになった肩からは、ふわりとした良い匂いがして、何となく落ち着かなかった。

 地面に落ちる影を踏み、帽子の鍔を掴んだ。頭上を覆っているのは夏の桜だ。路傍から斜めに幹が伸びている。広がる枝葉は緑色で、白い花はどこにもなかった。

 そのとき、ふと、春に彼女が言っていたことを思い出した。

 桜なんて咲かなければ――

「風間くん?」

 はっとして目を瞬かせる。姫神さんが、不思議そうにこちらを覗いていた。「いや」と俯き、言葉を探す。道端でお地蔵さまが陽を浴びていた。

「姫神さんが、この集落の出身だったなんてね」

 平静を装えているのか自分でも分からなかった。彼女はさらりと応じた。

「小学生の頃までね。三年生のときに……独りになって、姫神家に引き取られたの。他に親族がいるわけでもないから戻ってくるのはお墓参りのときだけよ」

 へえ、と気の抜けた声が漏れる。汗ばむ手をズボンに擦り付けた。

「一緒に遊んだこともあったのかな?」

 沈黙が落ちる。でも僅かな時間だ。記憶を探る程度の僅かな時間。

 隣で、苦笑する気配がした。

「どうかしら? 小さな地区ではあるけれど住民全員が知り合いというほどでもないし……それに私は病弱であまり外に出なかったから。少なくとも私自身には男の子と仲が良かったという記憶はないわね」

「……そっか」

 今度は僕が苦笑する。……自嘲だろうか。でも身構えていたほどの落胆はなかった。曖昧な疑問に答えが出て、返ってすっきりしたほどだ。自然と持ち上がった視界に穏山が在った。心なしか、さっきよりも野暮ったく見えた。

「でも、忘れないものね」

 そう溢す口許に笑みが浮かぶ。

「私ね、子どもの頃ひとりであの山に登ろうとしたことがあるの。六歳とか、七歳とか……そんな頃かな。知ってる? 穏山に棲む鬼の伝説」

 すっと白い指先が伸びる。

「穏山には人喰い鬼が棲んでいる。鬼はとても寂しがり屋で、山から人里を眺めては誰かと一緒にいたいと嘆いた。でも自分は人喰い鬼だから誰とも一緒にいられない。だからひとり泣きながら唄うの。もう生きてはいけません。私は誰も愛せません。どうかこのまま死なせてください、って。その歌声があまりに美しいものだから旅人はついついつられて山に入ってしまう。鬼は大喜びで旅人を迎え入れ、お酒をふるまい、すっかり夜になったところで喰べてしまう。つらいつらいと涙を流しながら、骨までみんな喰べてしまうの。鬼は鬼だから。人喰い鬼だから」

「やがて鬼の流した涙は、川になって痩せた土地に豊かな田畑をもたらした……だっけ」

 麦わら帽子が、こくりと頷いた。

「穏山を流れる名亡川の由緒よ」

「山のほうは景勝地になってるね。中学のとき悠さんたちと一緒に鬼が泣いたっていう岩を観に行ったことがあるよ。渓谷のすごく高いところにあって、滝が綺麗だった」

「そう。私は辿り着けなかった。山を目指していたはずなのに、いつの間にか道に迷ってしまたの。神社の石段で泣いていたところを知らないおじさまに拾われて帰ったのを覚えてる」

 姫神さんは「死ぬ前に一度は見ておきたいわね」と呟いた。その大袈裟な表現が少し可笑しかった。何も海外の秘境に行くわけじゃない。タクシーを使えば今からだって余裕だ。でも折角なら紅葉の季節が良いだろう。

 秋の情景を思い浮かべていると、隣で彼女がぼそぼそと口を動かした。

「……私ね。教えてあげなくちゃって思ったの。きっと鬼は他に美味しいものを知らないんだ。だから人を喰べるんだって。お菓子や果物の味を知って、みんなでそれを分かち合えば、独りで寂しい想いをしなくて済むはずだって。私と……あの子がそうだったみたいに」

「あの子?」

 訊き返す言葉は、姫神さんにも届いていたはずだ。けれど彼女は答えなかった。唇を微かに開いたまま、ぼうっと遠くを見つめている。怪訝に感じていると、彼女は「あっ」と表情を明るくした。小走りで駆け寄った先には石橋がある。欄干から下を覗いた。

「この川、覚えてるわ」

 田んぼの脇に、ささやかな水の流れがあった。幅も、深さもなく、子ども足を浸せる程度の用水路。

 あの写真の場所だった。

 幼い頃の僕と、女の子が映った、あの。

「姫神さん、この場所を知ってるの?」

 彼女は「ええ」と屈託なく笑った。

「家の近くだもの。何度も遊びに来たことがあるわ」

 家の近く? 何度も? でも、さっきは……。

 こちらの戸惑いを余所に、彼女は目を細めている。

「うん、覚えてる。あの日私たちは蜻蛉を捕まえようとしていたの。だって、ここには緑色の綺麗なのがいるんですもの。私が先に見つけて、あの子がそれを追いかけて、勢いよく網を振った拍子にバランスを崩してしまって」

 嬉しそうに口許を隠した。

「慌ててあの子の服を掴んだけれど、結局二人とも川に落ちてしまって……。ふふっ、おむすびみたいに綺麗な転がり方だったわ。でも、私たちはずぶ濡れになったのが可笑しくって、可笑しくって。そのまま水のなかではしゃぎ回っていたの」

「そう、なんだ。全然病弱って感じがしないね。それで、その……」

 無邪気な横顔に尋ねる。

「さっきから言ってる、あの子って?」

 彼女は、嬉々として振り向いた。

「隣に住んでた女の子よ。とても元気な子で、私たちは姉弟みたいに、いつも一緒に……」

 いつも、一緒に。

 声が不意に窄んだ。瞳から喜びの色が消えていく。同時に広がる困惑の色。見覚えのある貌だった。知らない誰かを眺めるような、そんな貌。

 萎れるように白髪が垂れた。

「いえ……そうじゃないわね。そうじゃない」

 ブリムから覗く頬に汗が滲んでいる。

「そうじゃないの。ごめんなさい、風間くん」

「……どうして謝るの。具合、悪いの?」

「ごめんなさい」

 日傘を持つ手が震えていた。腕を伸ばして芯を支えると彼女の指が手元から離れた。そのまま両手で顔を覆う。肩と胸が、ゆっくりと上下していた。大丈夫かと訊いても返事はない。代わりに掌の隙間から微かな音が漏れてきた。言葉になり損ねた吐息。不規則なそれはやがて嗚咽に変わった。膝が折れ、その場でうずくまる。まるで小さな女の子がそうするみたいに。

 夏空の下、立ち尽くすことしかできなかった。

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