(2)楽しい物語
眠気眼で景色を眺めているうちに電車が動き始めた。心地良い揺れと一緒に朝の町並みがゆったりと後方へ流れていく。車内にはほとんど人がいない。多分これからもいないだろう。行く先は市内とは反対の方角だ。
「こら、ケンちゃん。あちこちしないのっ」
シートから離れ、ぺたぺたと歩き出した男の子をお母さんが抱きかかえた。大人しく膝に連行されたその子は、お母さんの腕のなかで、きゃっきゃと声を上げた。頬の緩む光景だった。
向かう先は
昔、僕はそこで暮らしていたらしい。
両親と死別した九歳の頃まで。
家の跡は雑草の繁る空き地になっている。ただ、近くのお寺には二人のお墓が残っていて、毎年命日にお墓参りへ行くようにしていた。
(どうして忘れていたんだろう?)
僕は、この行事が嫌いではなかった。毎年この時期を楽しみにしているほどだ。墓参りを口実に訪れる穏山の景色は、僕に懐かしさを与えてくれる。写真の土地に赴き、写真の場所を歩く。それだけで過去に戻れたような気がするのだ。
それなのに、どうして?
ずっと考え事をしていたからかも知れない。旅行中も、旅行から帰ったあとも。結局、神坂さんには何のメッセージも送ることができなかった。
意味もなくスマホの画面を点けたり消したりしているうちに電車が止まった。快適な車内ともここでお別れだ。帽子を被って駅に降りる。電車はさっさと扉を閉めて、惜しむことなく去っていく。
無人の駅にひとり。穏山の空気を満ちるまで吸った。午前の早い時間だから、身構えていたほどの熱気はない。風があり、涼しさすらある。田んぼが波打って、緑色の布がはためいているようだった。風は集落を流れる
絵に描いたような田舎の夏だ。
蝉の鳴き声に耳を傾けながら田舎道を歩き出した。
お寺に着くまでの道すがら、夏の風景をゆっくりと楽しんだ。水路が奏でる透明な音色。蔦の絡まった木の電柱。分かれ道ではお地蔵さまが微笑んでいて、無人のバス停は時間が停まったみたいだった。錆びついた自販機を眺めているだけで幸せな気持ちになる。そうやって心を和ませているうちにお寺の屋根が見えてくる。石段を昇り、門をくぐった。まだ若いご住職に挨拶をして掃除道具を一式借りる。彼は「熱中症に気を付けてください」と静かに手を合わせてくれた。墓地はお堂の裏手で、広々とした敷地に無数の墓石が並んでいる。両親の墓の位置をぼんやりと思い出し、向かおうとした矢先だった。目を疑うものを見た。
幽霊。幻覚。蜃気楼。
突拍子のない可能性がいくつも浮かび、最も現実的なのが他人の空似だった。でも、それも違う。
「どうして……」
姫神さんだった。姫神さんが、石畳に膝を着き、墓石を丁寧に拭いていた。顏を汗で濡らしながら、大切な人の身体を拭うみたいに、丁寧に。その所作のひとつを見るだけで、彼女の真剣が伝わってくる。とても声をかけられる雰囲気ではなかった。
胸に、暑さとは別の熱が込み上げてきた。できれば、このまま立ち去りたかった。けれど墓石を拭く手が裏側に伸びたとき、彼女の意識がこちらに向いた。ぴたりと動きが止まる。
「風間くん?」
呟く声がはっきりと聞こえた。こんなにも蝉の声が満ちているのに。
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