(5)不完全な者たち

「一言で言えば、完璧超人?」

 工作台に肘を置いたその女性は、首を傾けながら笑みを作った。名前を相沢友恵あいざわともえという。三年の先輩で佐々木先輩とは同じクラスだ。剣道部ではないが親しい間柄だという。不思議なもので齢はひとつしか違わないのに僕たちよりずっと大人っぽく見える。けれど友人を『完璧』と評する静かな瞳には、親しみ以外の感情が滲んでいた。

 佐々木先輩は、学校を休んでいるらしい。

「容姿端麗。成績優秀。運動神経抜群。剣道の腕前は知っての通りだろうけど、成績も学年三位内から落ちたことがないわ。これで性格が悪かったら、まあそうだよねって笑えるんだけど。あの娘、性格も良いの」

 神坂さんは「ほえー」と気の抜けた反応をする。

 そんな漫画の生徒会長みたいなひとが存在するなんて。……と露骨に不審がったわけではないけれど僕の意識は自然と彼女の隣にいるひとに伺いを立てていた。腕を組んだそのひとは、しばしの沈黙を挟んだあと億劫そうに瞼を閉ざした。

「そうだな。俺の印象もそう外れているわけじゃない」

 一拍を置いて頭を掻く。

「完璧超人であるかはともかくとして、優秀で人柄の良い人間ってのはいるもんだ。まあ、俺らとは違う人種だな」

 そう答えてまた腕を組む。面倒くさそうに。

 彼の名前は藤宮真一。僕と神坂さんが所属する美術部の部長だ。無気力かつ不愛想。大抵いつも不機嫌そうにしている。何事にもやる気がないため部活にも滅多に顔を出さない。けれど怖い先輩かと言えばそうでもない。神坂さんはよく懐いているし、僕も苦手にはしていなかった。憮然としてはいるけれど、このひとこそ人柄の良さのようなものが伝わってくるのだ。本日の集まりはそんな彼によって設けられている。

 南久保さんとは、あのあとも、こうじゃないか、ああじゃないかと意見を出し合った。でも彼女を納得させられる理由は最後まで見つけられなかった。当然だがあまりに情報が不足している。他の部員からも話を聞いてみたいと頼んだけれど持ち合わせている情報は似たり寄ったりらしい。

 誰か佐々木先輩に詳しいひとがいないだろうか? そんな疑問を口にしたとき神坂さんが挙げたのが藤宮部長だった。

「同じクラスだったんじゃないかな? 確か」

 佐々木先輩は三年A組。藤宮部長もそうだと言うのだ。直後、珍しく美術室に顔を見せた彼に尋ねたところ「確かに佐々木とは同じクラスだ」と返ってきた。佐々木先輩も部長職だから部活間の意見交換会でも顔を合わせる機会があるらしい。けれど仲が良いかと問われると決してそうではないそうだ。

「まあ、文化部と運動部だからな。規模も実績も比較にならんし」

「そっかあ」

 神坂さんが肩を落とすと、彼は、ふんと息を吐いた。

「……だが、まあ、仲の良いやつを紹介してやれんことはない。明日で良ければ都合を聞いといてやるが、それでいいか」

 そうして引き合わせてくれたのが相沢先輩だった。

 南久保さんが剣道部の練習を抜けられなかったので神坂さんと僕だけで話を聞くことになった。藤宮部長には仲介人として立ち会って貰っている。

 相沢先輩は、そんな部長を微笑ましそうに見つめた。

「藤宮くんだって面倒見良いじゃない。今だってこの子たちの相談を真摯に訊いてあげてるわけだし? 京子みたいな才能がないからって、拗ねなくても良いと思うけどね」

「別に拗ねてるわけじゃない」

「そう?」

「そうだよ」

 部長は淡々と応えてむすりとする。相沢先輩は肩をすくめた。

「じゃあ、トラブルなんかもありませんか? たとえば人間関係の」

 問いかけると、彼女は悩ましそうに身体を傾けた。

「トラブル。トラブル。トラブル、ねえ……」

「トラブルに限らず、佐々木先輩がショックを受けるようなこととか」

 先輩は、力なく首を振った。

「私も考えてみたけど思い当たる節がないの。週末も帰るまで普通だったし」

「誰かとケンカしたーとかないんですか? たとえば彼氏さんとか」

 彼氏、という言葉に力を込める神坂さんに、相沢先輩は苦笑して手を振った。

「ないよ。だって京子彼氏いないもの。あの娘ずっと剣道一筋だったから。告白されても断ってたみたい」

「えー、もったいないなあ。あんな美人なのに」

 まあね、と相沢先輩。

「家庭環境はどうでしょう? 何か……問題を抱えていたとか」

「私の知る限りはないかなあ。先週も全部終わったら家族旅行に行きたいって笑ってたし、親子仲は悪くなかったと思うよ」

 相沢先輩はふっと笑みを浮かべた。

「だから元気ないのも剣道で負けたことが原因だと思ってたんだよね。一回負けたぐらいで気にすることないよって言ったら、そうだねとか、ごめんねとか、そんなことしか言ってくれなかったなあ……」

「相沢先輩」

 声が溜息と共に零れ落ちる。そっと肺を握られたような息苦しさを覚えた。

 沈黙が気まずい。

 そう感じた矢先だった。美術室のドアががらりと開いた。

「あ、いたいた」

「おーい、ともえー。帰らねーの?」

「うちらもう帰るよー?」

 顔を覗かせたのは三人の女生徒だった。相沢先輩の友人だろう。先輩は明るい顔を作り「ごめんね」と片手を上げた。

「ちょっと藤宮くんに付き合っててさ。もう少しかかりそうなの」

 三人は顔を見合わせ「えー?」と声を揃えた。「あんたら付き合ってんのー?」「いつから?」「藤宮やるぅー」 そう愉快そうに囃し立てる。部長は無視を決め込んでいた。三人はひとしきりはしゃいだあと「じゃねー友恵」「藤宮―、友恵泣かせたらショーチしねーぞ」「二人ともまた明日ねー」と引き返して行った。

 にこにこと手を振る相沢先輩に尋ねた。

「良いんですか?」

「うん、いいの」

 彼女は、そう頷いたあと「あ」と指を一本立てた。

「京子に関してはこんな話があるよ」

 参考にならないかもだけど、と工作台に手を添えた。

「仮に……Aさんとしようか。高一のときAさんはちょっとしたことが切っ掛けでいじめを受けるようになったの。まあ、いじめって言うと大袈裟かな? あるグループからきつく当たられてたって言うか」

 彫刻刀によるものだろう。工作台には無数の痕が刻まれている。

「その子、年度の途中から転校してきたものだから周囲に馴染めてなくてね。ただでさえ心細いのにそういうことが起こっちゃったから精神的に参ってしまったの。もう学校を辞めたい、私の居場所はここじゃないってトイレでひとり泣いたりしてた」

 相沢先輩は歪な傷痕を、柔らかな手つきで撫でた。

「そんなある日突然ね、Aさんにきつく当たってた娘たちが謝罪にきたの。ごめんなさい、あんたの気持ちも考えずにやり過ぎたって。急な掌返しが気持ち悪くて何か裏があるんじゃないかって疑ってたAさんも、彼女たちと接しているうちに本当に反省してるってことが分かってきた。それで三人とも仲良くなって、京子とも、他の皆とも仲良くなって……半年ぐらいたったときかな? 訊いてみたの。どうして急に態度を変えたの? って。三人はばつが悪そうな顔でこう答えた。あるひとに本気で叱られたから。自分が情けないことをしてるって気付いたから、って」

「そのあるひとが佐々木先輩だった?」

 相沢先輩は、こくりと頷いた。

「Aさんの知らないところでね。京子がその娘たちに怒ってくれたみたいなの。寄ってたかってひとりに……それも転校してきたばかりの子にそんなことをして、恥ずかしくないのか……って。正面切ってそう言われると流石に何も言い返すことができなかったって」

 それを被害者本人に知らせず、ずっと黙っていた。

「それは確かに、格好良いですね」

「ね、惚れるでしょ?」

 相沢先輩は嬉しそうに頬を緩めた。それから照れを隠すように表情を整えたけれど、その口許は綻んでいた。彼女は、そっと瞳を閉ざす。

「でもね。京子の本当に格好良いところはね。そのあと京子が謝ったってことなの」

「謝った? その三人に?」

 謝る理由があるだろうか?

「普通はそう思うよね。でも京子はそうは思わなかったみたい。あの娘は一年のときから剣道部のエースで大勢の味方が周りにいた。対して相手は帰宅部の三人。としての力が違い過ぎたの。京子に対立する気はなくても相手は過剰に委縮してしまう。もしかしたら京子の仲間が暴走してしまうかも知れない。あの娘はそれを見越して謝罪したの。一方的に言い過ぎたって。実際三人とも結構びくびくしてたみたいでね。京子が謝ってくれて安心したって」

 その三人がさっきの三人、と先輩は戸口を指した。神坂さんは「え?」と目を丸くする。先輩が「ふふ」と笑みを溢した。

 朱に染まるカーテンがふわりと浮いた。先輩は、傾いていく夕陽を見つめ、こう呟いた。

「そういうね。本当に格好良い、ヒーローみたいな娘なの。京子は」


「ただいまー」

「おかえりー想太。今日は早かったね」

 居間に入ると悠さんが椅子から腰を上げるところだった。エプロンを巻いて台所に立つ。その動きが布団から起きて歯を磨くみたいに自然だった。僕は少しだけやるせなくなった。

 もう少し休んでくれててもいいのに。

 点けっぱなしのテレビを見て、そんなことを思う。

 すぐに手を洗って台所へ向かった。悠さんは「休んでくれてていいのに」と苦笑した。

 じゃがいもの皮を剥きながらテレビの画面をぼうっと眺める。若手芸人の旅番組が終わると夕方のニュースが始まった。初めに全国のニュースが流れ、次に県内のニュースが流れた。高速道路の衝突事故。知事が誰かを表彰した話。高校生の転落死事件。県内で起きた特殊詐欺について。何となく、そういうニュースが紹介されていたことは覚えている。けれど内容は全然入って来なかった。頭を埋め尽くしていたのは佐々木先輩のことだ。

 完璧超人。相沢先輩は彼女のことをそう評していた。その完璧という言葉が表す通り彼女の綻びが見えてこない。佐々木京子は非の打ちどころのない人格者である。只々そんな人物像が補強されていく。本当にそんな人間がいるのだろうかと訝しんでしまうほどに。

「想太、剥き終ったらこっちの鍋に移してくれる?」

 悠さんは水を張った鍋をコンロに置いた。僕は慌てて「うん」と頷く。手が止まっていた。遅れを取り戻すために焦ってじゃがいもを回転させる。裸になったじゃがいもは随分と歪な形をしていた。僕は、不細工な仕上がりを見下ろしながら藤宮部長の言葉を思い出していた。

 彼は、別れ際にこう言った。

「さっき言った通り……佐々木に対する相沢の印象は俺のそれとかけ離れているわけじゃない。俺たちとは違う人種だというのも、そうだと思う。だがな風間。完璧な人間なんていないぞ。人間には絶対に足りないところがある。あるいは……完璧である、というそれ自体が既に大きな欠陥なのかも知れん」


 週明けはすっきりとしない天気だった。雨の予報は30パーセント。降るとも言わないし、降らないとも言わない。こちらに全ての判断を委ねるようなずるい確率だった。こんな予報であれば傘を持って行くしかない。傘立てに手を伸ばそうとしてふと思い出した。

(そう言えば)

 忘れてきてしまっていたのだ。彼女の家に。

 腕を伸ばしたまま、しばし考える。そして諦めることにした。連絡を取る手段がない。息を吐き予備のビニール傘を掴んだ。「行ってきます」と声をかけマンションの階段を駆け降りた。

 駅に着き、くたびれたロングシートに身を埋める。じっと出発を待っていると自然と佐々木先輩のことが浮かんできた。あと少しで何か掴めそうな気がする。けれど何も掴めない。やがて電車は動き出し、景色は瞬く間に後方へ滑っていく。一駅、二駅と通り過ぎ、五つ目の駅に着いたときだ。速度を緩める窓の外に見慣れない人影が映った。「あれ?」と瞬いている間にも、そのひとは車内に乗り込み、真っ直ぐこちらへ向かってくる。そして僕の目の前で立ち止まった。

「おはよう、風間くん」

 車内に透き通るような声が響く。彼女は僕の傘を差し出してきた。

「困ってるんじゃないかと思って」

「姫神さん」

 姫神白亜は、にこりともせず、僕が手を伸ばすのをじっと待っていた。

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