(6)儚くて残酷なもの

「ごめん。面倒をかけてしまって」

「こちらこそ。気が回らなくて」

 透明な傘と黒い傘。二本の傘を腿に立てかける。僕は隣の彼女を横目に見た。

 姫神白亜。

 彼女が腰かけ背筋を伸ばすと安っぽい電車のシートも高級な家具のように見えてしまう。他の乗客も見慣れない白い髪の少女が気になって仕方がない様子だった。ちらちらと視線を感じて居心地が悪い。姫神さん本人は気付いていないのか、あるいは慣れっこなのか、気にも留めていなかった。けれど、そんな心地悪さも一駅程度の間だった。すぐに周囲の関心が薄れていくのを感じた。多様性の時代だ。髪の色が普通と違うぐらい珍しくもないのだろう。珍しくも。何とも……。

「……?」

 僕は、額を押さえた。

「どうしたの。風間くん」

「……いや、何でもないよ」

 取り繕ってから、前を向いた。

「体調はどう? もう大丈夫なの」

「おかげさまで。それに、あのときも話したでしょう。元々大したことはないの。記憶を喰べることで起きる一時的な疲労のようなものよ。休んでいれば自然と治るわ」

 僕は「そうなんだ」と生返事をするしかなかった。彼女は前を向いたまま「あら?」と疑問符を発した。

「兄さんから聞いているのよね? 私のこと」

「え? あ、……うん。聞いてる。でも」

「信じられない?」

「そういうわけじゃないんだけど……」

 何となく話題にすることが躊躇われた。秀玄さんに釘を刺されたからという理由もあるが、これ以上立ち入って構わないのだろうか、という不安のほうが大きかった。一方で相反する好奇心も強くある。不安と関心。矛盾する感情が僕の態度を曖昧なものにしていた。

 彼女はそれを疑念と取ったらしい。「無理もないわね」と息を吐いた。

「証明することは簡単だけど、実感が持てるかは別の話だし」

「……そうだね。正直なところ、狐につままれたような気分だったよ」

「化け狐と名乗ったほうが良かったかしら」

 降車駅までは二駅しかなかった。僕たちは雑談に花を咲かせるでもなく通勤客でいっぱいの電車を降りた。目的地は同じだから二人でそのまま黙々と歩く。姫神さんが退屈を表に出していないのは気楽だった。けれど彼女と肩を並べていると、不思議と別の感覚も込み上げてくる。

 胸が、ほんのりと温かくなってくるのだ。

 それは引き出しの写真を眺める感覚に近かった。僕はその感情の名前を知らなかった。既視感と似ているけれど少し違う。もっと嬉しくて、もっと胸が締め付けられて、もっと春に似ている。

(懐かしいってやつなのかな、これ)

 懐かしい。多分そうなのだろう。でも、どうしてそれを姫神さんに感じるのか?

 口に疑問を含んだまま通学路を歩いていく。古ぼけた小橋。住宅街の公園。駆けていくランドセル。無邪気な笑い声。そして校舎の正門が見え始めた頃だ。彼女は不意に脚を止め、街路樹を仰いだ。

「桜なんて咲かなければいいのね」

 空は桜で覆われている。もうすぐ終わりを迎えるのだろう。風があるわけでもないのに、ひらひらと花弁が舞い落ちていた。彼女の髪と同じ色。自然と呟いていた。

「どうして」

 姫神さんは、花びらの一枚を柔らかに受け止めた。

「だって、とても残酷じゃない」

 よく分からなかった。彼女は、大事そうに掌を見つめたまま続けた。

「初めから咲いてしまわなければ散って哀しい想いをしなくても済むのに。儚く消えてしまうものをこんなにも綺麗に見せつけるのは、罪よ」

 その理屈は妙に可笑しかった。

「極端だよ」

「事実よ」

 風が吹いた。花は彼女の手から呆気なく離れていった。春の雪が降り注ぐなか、彼女はそっと手を閉ざした。

「彼女だって」

 髪を耳にかけ、前を見つめる。

「初めから何も持たなければ喪失の哀しみを味わわなくて済んだのよ。そうでしょう?」

 その瞳は僕を映してはいなかった。視線を追うと、歩道の向かいに一人の女生徒の姿があった。

「佐々木先輩……」

 佐々木京子。有名人だから校内でも何度か見かけたことはある。剣道部の主将らしい凛としたひとだった。それが今や見る影もない。俯き、靴底を引き摺るように歩いている。精気がなく、芯もなかった。周りの生徒たちも彼女の存在には気付いている。けれど意識しないように振る舞っていた。まるで腫物でも扱うみたいに。

 やがて彼女は正門の影に吸い込まれた。僕は、姫神さんに向き直った。

「何か知っているの?」

 彼女は「いいえ」と肩をはたいた。花びらがひらりと下へ落ちる。

「でも、見れば分かるでしょう? 人が悲しみに暮れるのはいつだって何かを失ったときよ」

 無感情な瞳が、重力に従う花弁を追った。

「まあ、記憶を読めば簡単に分かる話ではあるのだけれど」

「記憶を、読む?」

 問うと、彼女は首を傾げる。

「何を驚いてるの? 当然の理屈でしょう。私は記憶を喰べる。記憶を喰べるためにはそれを読み取らなければならない。だからと名乗ったの」

 覚。さとり。ひとの心を読む妖怪。

 僕は一体どんな顔をしていたのだろう。彼女は、それこそ見透かすような笑みを浮かべた。

「安心して。直接的な接触もなしに心を覗き見るほど繊細な力はないから。できるのはせいぜい……感情の状態が察知できる程度かしらね。それも余程強い感情でなければ無理よ」

 たとえば、と掌を上向ける。

「今の君がどんな精神状態にあるのか、この距離であっても測ることはできない。まあ、戸惑っているのは見れば判るけれど、それは見れば判るだけのこと。つまり普通の人間と変わりない。けれど佐々木さんほど強い感情を抱いていれば離れていても……たとえ圧し殺していたとしても、それが伝わってくるの」

 姫神さんは、胸に手を当てた。

「そう、伝わってくるとしか言いようがないわね。色でも香りでも音でもない。他人の感情が。その点で言えば、間違いなく彼女は深い悲しみに苛まれている」

 露のような瞳に映り込む景色。それが微かに揺らいで見えた。僕は目を凝らしたが、閉ざされた瞼がそれを拒んだ。吐息が聞こえた。

「とても、残酷なことよ」

 そして白い髪の少女はもう一度空を見上げた。その頬をなぞるように一片の花弁が掠めていく。彼女は花びらが地に堕ちるぐらいの間そうしていたが、やがて落花で埋め尽くされた歩道を踏んだ。僕の脇を通り過ぎ、正門へ向かう。

 その背を呼び止めた。

「姫神さん」

 彼女は肩越しに振り返った。僕の声は震えていた。

「聞いて貰いたいことがあるんだ」

 校舎のどこかで窓の開く音が聞こえた。

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