(4)あやかし

 姫神家は車で十五分程のところにあった。普段あまり足を運ぶことのない住宅街で、どの路地の景色も同じに見えた。お兄さん――姫神秀玄ひめかみしゅうげんさんという――は慣れたハンドル捌きで狭い道路を縫って進んだ。車内では、僕と姫神さんの関係についていくつか質問を受けた。でも答えられることはほとんどなく無言で固まっている時間のほうが長かった。ただ沈黙のために返って記憶に残ったこともある。後部座席の姫神さんが、ぽつりとこう呟いたのだ。

「……ごめんなさい」

 譫言だったらしい。振り返っても彼女は瞳を閉ざしたままだった。一体誰に向けた謝罪だったのだろう。秀玄さんにも聞こえていたはずだが口を噤んだままだった。

 窓硝子のうえで家の灯りが静かに流れていく。僕は、メッセージアプリを立ち上げ、帰りが遅くなると打ち込んだ。すぐに『了解しました』というスタンプが返ってくる。アプリを閉じてスマホをポケットに入れたところで目的に辿り着いた。

「ここ、ですか?」

「ここだ」

 姫神さんの家は板塀に囲まれた古いお屋敷だった。大豪邸という程ではない。けれど、普通の民家やアパートが窮屈に立ち並ぶなか突然古風な門構えが顔を覗かせるのだから独特の雰囲気がある。余程の名家か、あまり近付かないでおこうと思えるような。

「そんな大層な身分じゃあないよ。大正のはじめに鉱業で少々儲けただけの家柄に過ぎない。そして祖父が古いもの重んじる人間だったから家が残った。それだけだ」

 塀越しに顔を覗かせる桜に圧倒されていたら、秀玄さんが苦笑した。

「その祖父もいなくなり、両親は順に他界した。残された私には分かりやすい負債だな」

「じゃあ、今は白亜さんと二人暮らしですか?」

「……まあ、その話は追々しよう。鍵を開けるから少し待っていて貰えるかな」

 それから二人で姫神さんをなかへ運んだ。雨はもう止んでいたから煩わしさもなかった。兄妹の鞄を玄関まで運び、僕の役目はそれで終わった。部屋に布団でも敷いているのか奧からごとごと物音が響く。帰るべきかどうか迷っていたら秀玄さんが「折角だからお茶でも飲んでいきなさい」と顔を出した。僕は、恐る恐る靴を脱いだ。

 通されたのは居間だった。硝子障子の引き戸を開けると木と畳の香りが漂ってきて、胸がほんのりと温かくなった。部屋の真ん中には丸い木机と座布団があり、座るように促される。そこで秀玄さんも腰を下ろすのかと思いきや、彼は茶菓子を運んでくると、また部屋を出てしまった。姫神さんの様子を見て来るらしい。止めることもできず、湯呑に息を吹きかけた。

(ここにいる必要あるのかな)

 姫神さんの事情について何か説明があるのではと期待したのだけれど。

 空腹に手を当て室内を見回した。木造りの棚に、水の流れを描いた襖。天井も柱も色が深まっている。さすが築百年近く経つ古民家だ。絵に描きたくなるような趣がある。でも小物類は現代的で、もっと言えば女性的な雰囲気があった。特に文机にある文房具類は見るからに姫神さんの趣味だった。彼女が住んでいるのだから当たり前かも知れないけれど、それにしても秀玄さんの色が薄いように感じる。

 手持無沙汰のまま数分が経った。引き戸が音を立て、秀玄さんが顔を覗かせた。

「風間くん、構わないか?」

 彼は、視線で振り返り、続けた。

「白亜が目を覚ました」


 彼女は縁側に面した部屋にいた。元々は客間だったのだろうが部屋にあるものから彼女の個人部屋として利用されていることが分かった。文机。書棚。姿見。和箪笥。ノートパソコン。日本人形。ランタンの置物。

「ごめんなさい、散らかっていて」

 姫神さんは布団の上で上半身を起こしていた。体調はそれなりに回復したらしい。表情から不調は読み取れなかった。「見苦しいでしょう?」と振られたけれど口ごもるしかなかった。実際それは全くの謙遜で部屋のなかは綺麗に片付けられていた。少なくとも僕の部屋よりは余程ましだ。感心していると、

「白亜。君の言って良い台詞じゃないな」

 隣で秀玄さんが溜息を吐いた。

「片付けたのは俺だ」

 姫神さんは口許に手を当てた。

「あら? 私だってお客様が来ると分かっていたらもっとちゃんとしていたわ」

「ちゃんと押し入れに押し込めた、の間違いだろう? 実際そうしてるよ。あんな大量のガラクタ、いい加減に捨てたらどうだ?」

「私が何をどうしようと兄さんには関係ありません」

「成る程な。ならば無関係なのに倒れた君を運び、掃除までしてやったことについて正当な感謝が欲しいものだがね」

 二人は悪態を投げつけ合う。けれど険悪な雰囲気はなく兄妹間の自然な軽口に聞こえた。事実それ以上言い争うようなこともなく秀玄さんは踵を返した。引手に手をかけ、告げる。

「白亜は君と話がしたいそうだ。向こうの部屋にいるから、まあ、終わったら呼んでくれ」

 そのまま、返事をする間もなく部屋を出る。

 ぎこちなく振り返ると姫神さんが薄く笑みを浮かべていた。座るように促してくる。白い指先の示す先には紫色の座布団があった。言われるがまま膝を着き、緊張に唾を呑んだ。

 彼女とちゃんと会話をするのはこれが初めてになる。今日の放課後まで、まるで接点のない女性だった。いや、それどころか、どこか別世界の存在として見上げていたのだ。そんなひとが目の前にいる。

「何だか、とても不思議な感じがするわ」

 彼女は、感じ入るように言った。

「こうして風間くんと話をしているなんて」

 見透かされたみたいでどきりとする。それに彼女の声音。すっと意識を吸い寄せられるような独特の響きが在った。お腹のあたりがむずむずする。

「僕も変な感じだよ。姫神さんとは廊下ですれ違うぐらいだったから」

 改めて室内に首を巡らす。

「すごいお屋敷に住んでるね」

 姫神さんは、くすりと唇を隠した。

「ほとんどの部屋が物置よ。無駄に広くても不便なだけだわ」

「お庭も広いしね。ここからは自転車で通っているの?」

「徒歩と電車ね。自転車はたまに使うぐらいかしら」

「そうなの? 僕も電車通学だけど姫神さんのことは見たことがないな」

「便が違うからでしょう。風間くんのように部活で遅くなることもないし」

「姫神さんは部活やってないの?」

「一応は華道部。でも籍を置いているだけよ。私が名簿に名を連ねていることも知られてないんじゃないかしら。……ねえ? 風間くん」

 姫神さんは首を傾けた。

「貴方が訊きたいのは、そんなこと?」

 言葉に詰まった。

 もちろん違った。

 僕が知りたいのは、橋の下で何が起こったのか。なぜ小西くんは気を失ったのか。なぜ姫神さんまで倒れたのか。。けれど正面切っては訊きづらかった。たとえ当の本人に許されたとしても。

 口を噤んでいると、姫神さんが困ったような笑みを作った。

「妖なの。私」

「え?」

 聞き返す。彼女は音節を区切って繰り返した。

「あ・や・か・し。妖魔。妖怪変化。とかとかとか呼ばれているものよ」

「ごめん。何を言っているのかよく分からない」

「証拠を見せましょうか?」

 彼女は一本指を立てた。自ずと先端に意識が奪われる。整えられた爪が弧を描き、ゆっくりと僕の手元に降ろされた。

「それ」

 声に促されて、見下ろした。そこには、

「うわっ!?」

 心臓が破裂した。それほどの衝撃だった。驚き、慌て、

 

 着物姿がごろりと転がり、虚ろな瞳で天井を見上げた。

 訳が分からなかった。何を放り投げたかすら理解できていなかったかも知れない。ぴくりともしない人形が得体の知れない化け物に見えた。手が震え、全神経が怪物の挙動に注がれる。早鐘が肋骨を激しく叩いていた。

 くすくすと忍び笑いが漏れ聞こえた。辛うじて眼球を向けると、姫神さんが愉快そうに口許を覆っている。彼女は、先ほどと変わらない動きで、僕を指で射抜いた。

「それ」

 

「わああァッ!?」

 今度こそ仰け反り尻餅を突いた。滅茶苦茶に脚をバタつかせ後方へ逃れる。背中を襖に打ち付け、その音に驚いてまた転げた。ケタケタと笑う声が部屋に響いた。彼女は背を折り曲げて布団を叩いていた。すぐ傍らで人形が揺れ動いている。

 僕は、シャツの胸元を押さえ付けた。

(何が起こった!?)

 いや、!?

 あれは……箪笥の上にあった日本人形!? 持たされた? いつ? 気付かないうちに? 二回も!? どうやって!?

 白い髪の少女は「あー、可笑しい」と目元を拭った。

「これで理解してくれたでしょう?」

 一体何を?

 訊き返そうにも声が出せなかった。僕は眼前の少女を穴が開かんばかりに凝視した。人形よりも精巧な唇に、仄かに光る白い髪。妖精のようだという印象は変わらないが、彼女は自分を妖怪だと言う。真に受けるにも馬鹿々々しい冗句が、今は全然笑えない。

 妖怪。まさか本当に?

「……白亜、お友達を困らせるのはやめなさい」

 振り向くと秀玄さんがいた。額に手を当て渋面を作っている。姫神さんは「はーい」と締まりのない返事をした。彼は、嘆息し、眼鏡を中指で押し上げた。

「それで、どうする?」

 どうする? 何を?

 心の中で問い返したが答えはない。代わりに姫神さんが首を左右に振った。

「どうもしないわ」

「どうもしない? それでいいのか?」

「いいのよ。どうとでもなるから」

 秀玄さんは、僕と彼女を見比べ「それもそうだな」と納得した。何をどうする話だったのか。疑問が宙に浮いたままだったが、やり取りはそれで終わったらしい。姫神さんは縁側のほうを見やった。

「兄さん、風間くんを家まで送ってあげて」

「言われなくてもそうするつもりだよ。風間くん、立てるか? 今日はすまなかった」

 僕は「いえ」と口ごもり差し出された手を取った。小壁の時計は八時を示そうとしていた。遅くなるとは伝えてあるが、それでも限度というものがある。色々な意味でこれ以上は無理だった。

「じゃあね、風間くん」

 彼女は、最後にそう言って手を振った。気の置けない友人にそうするみたいだった。僕は気軽に振り返すこともできず、ただ黙って頭を下げた。

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