(5)陰喰

『続いて県内のニュースです。霧代市のマンションの駐車場で、このマンションの六階に住む私立校の女子生徒が意識不明の重体で発見され搬送先の病院で死亡した件について市の教育委員会はいじめの有無などを調べる外部有識者による委員会を設置したことを明らかにしました。この事件は、今月一日の未明……』

 ニュースが車内をじわりと湿らせた。市内のマンションで女子高生が転落死した事件。警察は事故と自殺の両面で調査をしているらしいが十中八九後者だろう。皮を剥いだところで陰湿な真相しか出てこない。あまり聴いていたい話題でもなかったけれど運転席の秀玄さんは口を噤んだままハンドルを握り続けている。この事件に興味があるわけではないと思う。多分全く違うことを考えている。いずれにしても話しかけられる雰囲気はなく、僕は気まずい空気を吸うしかなかった。そしてニュースも終わり、お笑い芸人がパーソナリティを務める番組が始まった頃だ。秀玄さんがラジオを消した。

「風間くん、あの娘は自分のことを何と言っていた?」

 世間話よろしくそう訊いてくる。一番知りたかった質問だけれど、いざ踏み込まれるとまごついてしまう。シートベルトを握り締めた。

「自分は妖怪だと、そう言っていました」

 。そして、

。そうだね?」

 頷くと、彼は、ふっと緊張を緩めた。

「妖怪の名前ではないな。妖精として扱われることはあるそうだが、少なくとも妖怪ではない。レテは女神の名前だ」

「女神……」

 その神秘的な言葉と、浮世離れした風貌が重なった。白髪の少女。女神。

 こちらの想像を察したのだろう。秀玄さんは左手を振った。

「いや、先に断っておくと彼女は正真正銘の人間だよ。普通人とは少々違うところがあるだけでね」

「……そこが、よく分かりません」

 思い出そうとすると自然と視線が下がった。靴には茶色い斑点が付いていた。堤防を移動したときに泥を跳ねたのだ。ベルトを締めていては拭き取ることもできない。もどかしさを感じながらも、続けた。

「最初に見たとき白亜さんは、小西くん……例の男子生徒の名前ですが、彼の額に、自分の額を触れさせていました。それから小西くんが倒れて、白亜さんも」

 右の掌を見つめた。

「部屋に招かれたときはもっと奇妙で……とても説明しづらいんですが、。彼女の部屋にあった日本人形を。それを、こう、いつの間にか両手に」

 あの感覚は言葉にしづらい。まるで時間を消し飛ばしたかのように突然人形が現れるあの感覚。今までの人生で一度としてなかったものだ。思い出したその瞬間にも、再び人形を抱えていそうな気がして、ぞっとした。

「獏というのは中国の妖怪ですよね? 確か悪夢を食べるとかいう。は心を読む妖怪。レテは河の名前だったと記憶しています」

「そう。レテは女神であり、冥府を流れる河でもある。その性質は?」

「……忘却」

 記憶の底から引っ張り出してきた答えだった。でも正解だったのだろう。秀玄さんは満足そうに口許を緩めた。

 レテ河の水を飲むと記憶を失う。それを題材にしたベルギー作家の油彩画があったはずだ。題材はダンテの『神曲』 作者の名前はジャン・デルヴィル。

 秀玄さんは中指で眼鏡に触れた。

「風間くん。記憶というものはどこに保存されていると思う?」

「脳のどの部分に、という話ですか?」

 無言の肯定が返ってくる。少し考え、答えた。

「記憶の性質に拠るんじゃないでしょうか?」

 秀玄さんは、また大きく頷いた。

「その通り。よく勉強している」

 前方の信号が赤になった。窓の景色が緩やかに停止する。自転車の女子がゆっくりと横断歩道を横切っていった。見覚えのある制服だったが、どこの学校なのか思い出せなかった。

「記憶というものは大別すると非陳述記憶と陳述記憶の二種類に分けられる」

 秀玄さんは、僕と同じように視線を動かしながら、言った。

「非陳述記憶は無意識の記憶、あるいは意識できない記憶と呼ばれていて、運動技能・知覚技能・慣れや習慣などに関わり反射的な性質を持つとされる。よく例に挙げられるのが自転車の乗り方だな。自転車というものは始めこそペダルやハンドルの動かし方を意識して覚えなければならない。だが一端インプットされてしまえば操作方法を逐一意識しなくても。シナプス結合の強度が変化し、無意識化でも最適な動きが可能になるんだ。この記憶を司るのは主に大脳基底核と小脳だが、前頭前野や、補足運動野の関与も指摘されている。そして……もう一方の陳述記憶。こちらはエピソードや思考に関する記憶で、言葉やイメージによって意識的に想起することができる。私たちが普段『記憶』と呼んでいるものは、こちらの陳述記憶のほうだ」

「確か海馬に保存されてるんですよね?」

「間違いではないが正解とも言えない。海馬は記憶が長期記憶として安定化する前の一時的な貯蔵庫で、新たな陳述記憶の獲得……つまりは物事を覚えるという活動を司っている。海馬が損傷すると新たに物を覚えられなくなるという点において非常に重要な領域であることは疑うべくもないが海馬の損傷は過去に獲得した記憶には一切影響しない。仮に海馬が傷付いたとしても、生まれてからそれまでの事柄はしっかりと覚えているんだよ。そうした長期的な記憶を司るのは大脳皮質……前頭皮質や側頭皮質の役割になる。つまりはこういうことだ」

 歩行者信号が点滅し、間もなく赤に切り替わった。

「全ての記憶が恒久的に保存される単一の中枢組織は存在しない。記憶というものは、その性質に応じて脳内のあらゆる領域に分布していて、今もなおその全容は明らかになっていない」

 交代で前の信号が青を示す。窓の景色が徐々に動き始めた。

 前方の道路沿い、民家の庭に綺麗な桜が咲いていた。

「あの娘はね、そんな記憶と呼ばれるものを消し去ることができる」

 加速する車輪が風景を置き去りにする。屋根の形。塀の色。表札に掲げられていた家主の名前。眼球に映り込んだそれらの情報は数秒と経たないうちに薄れていく。けれど塀から覗く夜桜の印象だけは、脳裏に焼き付いて離れなかった。

 僕は、ごくりと喉を動かした。

「ど……」

「どうやってかは訊かないでくれ。身内なんだ。調べたくても調べられないしがらみがある」

 メーターパネルの灯りが彼の貌を淡く浮かび上がらせていた。

「相手の身体に触れることでそれが可能になるらしい。腕でもどこでも構わないそうだが頭と頭を触れ合わせるのが一番速いと、そう言っていたな」

 橋の下の光景が浮かんだ。額を触れ合わせる二人。微かに光を放つ少女。

 彼女の部屋で起こったことも、つまりは、人形を持たされるまでの記憶を……?

「記憶というものは意図して消せないわけではない。先に話した通り該当する保存領域を損傷させれば自ずと記憶は消滅する。尤もこの場合は脳の機能自体が損なわれる可能性が高く、心身に重大な障害が残る。他にも意識して想起を抑制することで記憶を封印できるという実験結果もあるが相応の労力を要するうえ持続性も未知数だ。即ち記憶の消去は可能であっても容易ではない。何しろ特定の記憶を保存する部位が正確に把握できないからだ。……にも関わらず、あの娘にはそれができる。触れるだけで。相手に何の後遺症も残さず。容易く」

 彼は、笑うに笑えないような顔をした。

「まったく、でたらめだよ。超能力としか言いようがない」

 前方のトンネルを見据えた。

「正確には、らしいのだがね」

べる……? 記憶を?」

「ああ、情報を喰べるのだそうだ。情報を喰べて自分の記憶として獲得する。あの娘は記憶を消し去るどころか、他人から奪い取っているのだよ」

 車は、トンネルの口へと呑み込まれていく。長いトンネルだった。先は見えず、ひたすら落下していくような浮遊感を覚える。秀玄さんは続けた。

「しかし副作用もある。影響と言うべきか。記憶を喰らう際、彼女は記憶に付随する感情まで一緒に読み込んでしまう。喜びなら喜び、悲しみなら悲しみの感情を本人と同じように感じてしまうわけだ。そして情報の種類によっては脳に多大な負荷がかかる。倒れたのはそのせいだろう。余程腹に悪いものを食べたようだ」

 頬を伝う涙が思い出された。そして小西くんの事情も。

 きっと彼女は、事故の記憶を。

「……その口ぶりだと、先生にはできないんですね?」

「できるのなら小さな診療所になど留まってはいないよ。そもそもあの娘と私は血が繋がっていない。養子なんだ。両親を失ったあの娘を私の父が引き取った。元々は姫神家とは関わりのない人間だ」

「そう、ですか」

 両親を。

 腕の震えを押さえた。少しばかり肌寒いように感じた。運転席の彼はそのことに気付いていない。じっとテールランプを見つめていた。

「父は数年前に他界した。今あの家にいるのはあの娘ひとりだ」

「一緒に暮らしてないんですか?」

「事情がある」

 素っ気なく言う。追及を拒むような響きがあった。補足を待ったが沈黙しか返ってこない。やがて車はトンネルを抜けた。

「紫苑の庭」

「え?」

「あの娘の一族の呼び名だよ。元々はとある地方の名家で、医業を生業としながら集落を仕切っていた」

 トンネルの照明で距離感が狂ったのだろうか。前の車との車間距離が大分詰まっていた。赤ん坊の同乗を報せるステッカーが鮮明に見える。秀玄さんは、慌てずに速度を落とした。

「彼らの一族には時折奇妙な力を持つ者が現れたそうだ。それらは決まって女性で、一族の人間は彼女たちを『陰喰かげくい』と呼んだ。陰喰は紫苑の庭に繁栄をもたらす存在として敬われ、時に畏れられた。その力は個人によって強弱があるそうだが、あの娘のそれは一族のなかでも強力な部類に入るらしい。そして彼女たちはこの力を秘匿しながら生きてきた。白状をするとだ」

 彼は苦笑した。悪戯がばれてしまった子供みたいだった。

「君を家に連れてきたのはあの娘に君の記憶を消させるためだった。公になると面白くない類の話ではあるからね」

 なるほど、と合点する。

 家に招かれたことが不思議だったが、道理で。

「なら……このあと僕の記憶を?」

「いや、そうはならないだろう」

 彼は、否定を示した。

「あの場で彼女がそうしなかったのはそうする気がなかったからだ。そして私が事情を説明することを容認している。どういう気紛れかは分からんが、少なくとも今、君の記憶が消えることはない」

「信用してくれたってことですか? 介抱をしたから?」

「さあ? どうだろうな。いずれにせよあまり他言はしないでくれ」

「しませんよ。言っても誰も信じない」

「賢明だ。彼女を怒らせると嫌われるだけでは済まないからね」

 冗談めかしてそう言ったが、笑って済ませられる話ではないと思った。彼女の力はどの程度のものなのか? ぞっとしない想像ならいくらでもできる。そして、そんな想像すら最後には喰い尽されてしまうのかも知れない。

「境遇や、自身の力を含めて致し方ない面もあるが、今まであの娘は他人と関わろうとしなかった。それが、たとえ気紛れであっても君という同年代の子と接点を持とうとしている。前向きに捉えるべきことなのだろう。まあ……仲良くしてやって欲しい」

 あの娘と、仲良く。

 有り触れた社交辞令だった。保護者が子どもに言うものとしては。けれどどこか軽視できないものを感じた。それは保護者としての……義兄としての、彼の責任感が込められていたからかも知れない。僕は、その重みに耐えかねるような、か細い返事しかできなかった。

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