(3)眠り姫

 彼女は何を失ったのだろう?

 ふと思い浮かんだのは、そんなことだった。

 中学生の頃、クラスメイトの女生徒に目の前で泣かれたことがある。彼女は大切にしていた髪留めを失くしてしまったと何度も頬を拭っていた。どこにでもありそうな安物の髪留めだ。

 けれどそれは、彼女の祖母の形見だった。

 人が涙を流すのは、いつだって何かを失ったときだ。

 だから、きっと彼女も何かを失ったのだろうと、そう思った。

 姫神白亜は、白い手で目元を覆った。気を鎮めるための仕草なのだろうが頭痛や悪心を我慢しているふうにも見えた。やがて耐えかねたように息を吐くと傍にある階段に足をかけた。天端まで上がってくるつもりらしい。

 こちらに落ち度はないのだから堂々としていれば良かった。むしろ倒れた生徒を真っ先に気遣うべきだったかも知れない。けれど胸の内にはじんわりと後悔が滲み始めていた。

 やはり早く立ち去るべきだった。

 何か良くないことが起こる気がする。

 それは自然な恐怖だった。未知に対する自然な恐怖。一方で不自然な……自分でも理解不可能な高揚感もあった。

 僕はどこかでこの状況を待ち望んでいたのではないか。

 混濁する二つの感情が両脚を地面に縫い付けていた。その間にも彼女は階段を上がり、天端の奧から近付いてくる。一歩。一歩。刻限を示すように。そして、

「……見たのね」

 姫神白亜が目の前に立った。手を伸ばせば触れられる位置に。

 舞い散る桜を含んだ風が、白い髪を涼しげに梳いた。けれど、その表情は涼しさとは程遠かった。彼女は、見るからに万全ではなかった。額は汗で塗れ、眉間には苦悶が刻まれている。瞳はどこか虚ろで、何より……涙が頬を伝い続けていた。

「姫神さん……」

 彼女は応じず、尖らせた眼で僕を射抜いた。

 ゆらりと左腕を上げる。

「……悪いけど」

 五本の指を蔓のように伸ばし、こちらに翳した。

「消させて、貰う」

 そう宣言した直後だった。

 彼女は、涙で滲んだ瞳を大きく見開いた。白昼夢から目覚めたように、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。眉根を寄せ、戸惑いを零した。

「……風間、くん?」

 驚いたのは僕のほうだった。

 名前を覚えられている。姫神白亜に、名前を。

 同学年なのだから覚えられていてもおかしくはない。それにしても接点がなかった。どこかで彼女に知られる機会があっただろうか?

 記憶を正確に導き出すのは難しかった。心当たりがなかったし、何より突きつけられた手が思考を阻害していた。結果二人とも動かなくなる。そうして数秒。少なくとも膠着を脱しなければと息を吸った、そのときだった。

「!?」

 姫神さんが、ふらりと崩れた。

 僕は、咄嗟に両腕を伸ばす。抱き留めた身体は、桜の花びらみたいに軽かった。混乱も恐怖も一瞬でどこかへ霧散していく。肩を掴み、仰向けにした。

 瞼が、きつく閉ざされていた。

「姫神さん!?」

 身体を揺するが反応はない。完全に意識を失っていた。それでも安らかに寝息を立ててくれていたのならまだ安心できただろう。眠る彼女の貌は、悪夢にうなされていると表現するほうが相応しかった。胸は浅く上下し、唇からは吐息が漏れている。真っ白な肌は、いつにも増して色がなかった。

(本当に、白い……)

 人間を眺めている気がしなかった。どこまでも愚かな発想に違いないが……それでもやはり精霊や妖精を連想してしまう。あるいはお姫さまだろうか。毒林檎を食べ、永遠の眠りに囚われた姫。そんな彼女の目を覚まさせる方法があるとすれば、それは……。

「風間、くん」

 か細い声が、間近に聞こえた。

 はっとして我に返る。睫毛の隙間から微かに瞳が覗いていた。

「……姫神さん。病院に行かなきゃ」

「……だいじょう、ぶ。しばらく……休んでいれば……」

「大丈夫って……」

 意識が橋へと向いた。その気配を察したのだろう。姫神さんの視線も同じほうへ傾く。

「彼も……すぐに、目を覚ますわ」

 大丈夫。弱々しく繰り返し、再び瞼を閉ざす。言葉とは裏腹にちっとも大丈夫には見えなかった。つらそうだし、頬には涙の筋が残っている。まるで火傷の跡だった。

 と、そのとき肌にぽつりと水滴が落ちた。

「あ」

 と声を上げる間にも、またひとつ。

 雨だ。いつの間にか空が薄雲で覆われていた。粒は間もなく音になり、全身を冷たさで包み込んだ。僕は「ごめん」と断りを入れ、姫神さんを背に負った。慌てて橋の下へ駆け降りる。ほとんど重みは感じなかった。片膝を着き、カバンを枕に、そっと寝かせた。雨粒で輝く白髪を払い、空を仰ぐ。さーっと雨の音が響いた。

「参ったな、これは」

 意識のない男子に、意識のない女子。状況の掴めない僕。

 雨脚はさほど強くない。しばらくすれば降り止むだろう。けれど、それより先にここが真っ暗になる可能性が高い。暗くなるのは、まあ、嫌だ。この状況であれば尚更。

 救急か。警察か。途方に暮れるしかない状況で、くいと袖を掴まれた。

「……風間くん。……して」

 姫神さんが何事かを囁いた。名前を呼ばれなければうわ言にしか聞こえなかっただろう。ともすれば雨音で掻き消されそうな擦れ声で、彼女は続けた。

「……ガーデンクリ……ク、に、電話を……。私の、名前を出せば………」

 ガーデンクリニック。聞いたことはなかったけれど、こんなときのためにスマホがある。地図アプリを起動させれば住所と連絡先はすぐに分かった。市内にある小さな診療所だ。助けを呼べということだろう。あとは表示された番号を押すだけだったが果たしてどう説明すれば良いものか? ディスプレイが消灯する程度の時間悩み、結局はありのまま伝えるしかないと腹を括った。

 相手側の応答は早かった。「ガーデンクリニックです」と若い女性の声が響く。

「あの、風間という者ですが」

『はい』

「姫神白亜さんのことで、分かる方いらっしゃいますか?」

『……少々お待ちいただけますか』

 スピーカーの向こうからグリーンスリーブスが聴こえてくる。僕はそのメロディに安堵を覚えた。話が通じないということはなさそうだ。そして二分程度だろうか。心地良い調べが途切れ、低い男の声に換わった。

『代わりました。失礼ですが……風間さん?』

「はい。風間です」

『風間?』

「風間想太です。姫神さんとは同級生で」

『……成る程。それで? どういったご用件でしょう』

 相手は名乗らずに話を進める。怯んでしまうほど硬い声だった。説明は要領を得なかった。自分でも事態を呑み込めていないのだから仕様がない。それでも姫神さんが動けず、雨に降られて途方に暮れていることだけは伝えられた。しどろもどろの話を終えると受話器の奧で嘆息する気配がした。

『わかりました。すぐにそちらへ向かいます。少しだけ待っていて貰えますか』

 事情を理解して貰えたからだろうか。相手の態度が軟化したように感じた。彼は最後にこう言い添えた。

『妹がご迷惑をおかけして、申し訳ありません』

 お兄さんか。

 納得し、通話を切った。当の妹さんを見やる。真っ白な髪がそう錯覚させるのか。彼女の周囲だけ明るく見えた。けれど顔は苦しそうに歪んでいる。一方の男子生徒はすやすやと寝息を立てていた。心なしか心地良さそうですらあった。そして顔の判別も難しくなってきた頃、ようやく彼が誰であるのかを思い出した。

(B組の小西くんだ。確か)

 親しい間柄ではない。姫神さんと同じく話をしたこともないだろう。けれど彼に関してはひとつの噂を聞いたことがある。噂と言うより情報だろうか。それはただの事実なのだから。

 三か月程前、交通事故で母親を亡くしている。

「……」

 彼自身も大怪我を負った。復学したのは、つい最近だったはずだ。すぐに部活は無理だろうからグラウンドの隅で見学でもしていたのかも知れない。

 姫神さんは、彼のことを見ていたのだろうか?

 眠り姫は答えない。僕はそっと指を伸ばした。白い髪に、同じ色の花びらが張り付いていた。摘まみ、掌に乗せた。一枚の花弁はそよ風でなくなってしまいそうなほど頼りなかった。振り払うことも躊躇われ、ただ何となくその儚さを見つめた。

 やがて橋の下を光が照らした。

「風間想太くんかい?」

 堤防の上に傘を差す人影があった。光に向かって「はい」と返事をすると影は慎重に段を降りてくる。スマホの白い光が、その姿を明らかにした。

「姫神さんのお兄さんですか?」

「ああ、連絡ありがとう。迷惑をかけたね」

 眼鏡をした、スーツ姿の男性だった。齢は三十前後だろうか。少し冷たい雰囲気はあるが電話の印象よりはずっと穏やかそうだった。そして姫神さんに負けず劣らず端正な顔立ちをしている。けれどあまり似ているとも思わなかった。何しろ髪が真っ黒だ。

 彼は屈むと、意識のない姫神さんをひょいと抱えた。

「堤防の下に車を停めてある。悪いが傘を頼めるかな」

 僕は、指示通りに傘を預かり、荷物を提げて彼の後に続いた。天端から黒塗りの乗用車が見えた。雨水の垂れる階段を降り、後部座席のドアを開く。お兄さんが姫神さんをシートに滑り込ませ、僕は、反対側から荷物を押し込んだ。

 これで一段落だ。

 そう胸を撫で下ろした矢先、

「風間くん、すまないが君も同乗してくれないか?」

 お兄さんが、そう切り出してきた。

 戸惑い、訊き返した。

「下ろすところまで手伝ったほうが良いってことですか?」

「ああ……そうだな。そんなところだ」

「残してきた彼はどうするんです?」

「彼は……」

 お兄さんは、口許に拳を当てた。

「まあ、大丈夫だろう。もう数分もすれば目を覚ますはずだ。多少の混乱はあるかも知れないが自力で家に帰れるはずだよ」

「ええ?」と頓狂な声が漏れた。スーツ姿をまじまじと見やる。

 このひとは医者だろうか? 診療所にいたのだから、そうなのかも知れない。けれど小西くんのことを診たわけじゃない。人が意識を失うというのはそれなりに大事であるはずなのに。

(……何が起こったのか、分かってるってことなのかな)

 姫神さんが倒れたことも何も訊いてこない。だから多分そうなのだろう。だとしたら小西くんのことも信じて良いのかも知れない。

「分かりました。でも、どこへ行くんですか?」

「決まっているだろう?」

 お兄さんは助手席のドアを開いた。

「この娘の家だよ」

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