『透明人間の恋人』

コーヒーカップに手を伸ばした。


「僕は飲めないんだから、ニ人分用意しなくてもいいのに」

「……女心が分からないの?」


彼のコーヒーをすする。苦みが口の中に広がる。彼は今日もコーヒーに手を付けることはない。それは紅茶でも、オレンジジュースでも、一緒。


彼は飲み物を飲まない。さらに言えば、食べ物だって食べない。


「そうやって、僕の分まで飲んでたら、身体に悪いんじゃないの?」

「コーヒーニ杯で身体壊してたら、やってけないわよ」

「でも、夜眠れてないんでしょ?」

「……分かっちゃった?」

「くま、出来てるよ」


こうやって話している分には、私たちは普通の、どこにでもいるカップルだ。たわいない会話。日曜日の午後。家のテレビで借りてきたDVDを見て、一息。


「コーヒーか。だんだん、味も忘れてきちゃったなあ」

「でも、食べなくて良いって便利じゃない?」

「君は、透明人間心が分かってないよ」

「なにそれ」

「だんだん、味を忘れていくんだ。寂しいもんだよ」


彼……アキトは、そういって寂しそうに笑った。私は居たたまれなくなって、そっと目を逸らして言う。


「次は、いつ来るの?」

「消えてなければ、また来週かな」

「消えるなんて、言わないでよ。縁起でもない」

「もう既に半分消えてるんだ、いつ居なくなっても、何が起きても、僕はもう驚けないよ」

「……でも、アキトは消えない。私を残して居なくなれる程、度胸も自信もないはずよ。臆病者なんだから、昔から」

「そうだね、僕が見ていないと、恵美ちゃんはあっちこっちへふらふらするから」


アキトが楽しそうに笑った。本当によく表情が変わる男だ。無愛想な悪い私とは違って、アキトは情緒豊かで、感受性も高い。いつも、泣いたり笑ったり忙しい。


"オトコらしい"とは無縁だけれど、私はそんなアキトを可愛いと想う。


それは私が、アキトよりニつ年上だからだろうか。それとも、アキトの産まれ持った何かが、そう想わせるんだろうか。何はともあれ、アキトはよく笑って、よく泣いた。そして、よく怒って、また笑った。



出会った時は、誰からも好かれる少年だった。付き合い始めた頃も、少し子供っぽいところはあるけど、明るくて、優しい青年だった。


今は、普通の、透明人間。


アキトが透明……正確には半透明……になったのは、半年前のことだ。理由は解らない。突然、そうなってしまった。アキトのことが見えるのは、どうやら私だけらしい。私が相当に驚いて、気を落ち着かせるまでに長い時間を要したのに対し、当事者であるアキトはアッケラカンとしていた。


「これはこれで楽しいし、恵美ちゃんに見えるなら、別にいいや」


そんなことを言って、笑っていた。寂しくないわけ、ないのに、それでも笑っていた。私はそれをみて、少し安心した。アキトの明るさは、私にとっての救いで、アキトが居ない生活なんて、考えられなかったから。


とりあえず、私たちはポジティブに生きることにした。今まで通り、なんら変わらない生活。彼が普段、透明な姿で何をしているのかは知らないけれど、なんだか楽しく気侭にやっているようだし、私はアキトと過ごす休日を楽しみに、会社で働いていた。


「恵美ちゃん、ねぇ、聞いてる?」


いつのまにか、アキトが私の横に座って、顔をのぞき込んでいた。


「あ、ごめん、ちょっと考え事」

「悩み?」

「ううん、違う、アキト元に戻らないのかな~って」

「……やっぱり、透明人間じゃイヤ?」

「別にそういうわけじゃないけど。どんなアキトでも、アキトはアキトだからね」

「でも、不便ではあるよね。この姿じゃ、恵美ちゃんに触れることもできないんだ。ごめんね、恵美ちゃん」


顔を歪めて、私を見るアキト。また、泣きそう。


泣かなくて良いんだよ。私は、こうやって一緒に入れるだけで、こんなにも笑顔で居られるのだから。


「アキト、わがまま言っていい?」

「えっ!うん、いいよ!恵美ちゃんが僕にお願いなんて、珍しい」

「……居なくなったら、やだよ」


多分私は、今、へたくそな笑顔で笑っているのだろう。アキト、貴方と居る今は幸せだけど、貴方が居なくなることを考えると、私は……。


「……なんてね、言ってみただけ。気にしないで、アキトは私を置いていかないって、分かってるから」


慌てて言葉を濁した。大丈夫、私は脆いけど、弱虫じゃないから。私の弱さをアキトがちゃんと分かってくれるから、私は強くいられるの。触れることが、抱きしめることが、キスすることすら、出来なくても。


それでも良い。それでも、愛してる。


「恵美ちゃん、無理はしないで、イヤになったらいつでも……ちゃんと、話して欲しい」

「分かってる。それが、アキトのタメでもあるの、分かってるよ。だけど、今は良いの。これからどうなるか、なんて分からないし、今はアキトがここにいること、それが現実なんだから。くだらないこと言わないの。……私もだけどね。」

「うん、僕は恵美ちゃん、好きだから」

「恥ずかしげもなく言わないの!もう……あんたは、ほんと……」


アキトが真っ直ぐこっちを見ていた。その先の言葉を、待っているとばかりに。


「ほんと……」

「……ほんと?」


……やめた。この続きは、言ってあげない。


言ってあげない、けど、でも


「ん」


そっと、空気にキスをした。


何もないはずなのに、どうしてか、熱が唇から伝わってくるようで、不思議。何もない空気でも、そこにアキトがいることを、私だけは知っているから。だからこんなに、ドキドキするの?


温もりは、触れ合わなくても貰えるものだって、私は知っている。


貴方に出会って、貴方が透明人間になって、それでも時間を追うごとに、私は貴方を好きになる。


「恵美ちゃん、愛してるよ」


透明人間は、そういって、目を瞑る。私はもう一度、空に口づけをした。アキトが笑った。幸せそうに。今度は私も、上手く笑えたと思う。


そんなお互いの表情をみて、ますます笑顔になって、声に出して笑った。



透明人間の恋人は、幸せです。

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