第6話 人質

 ***




 時刻はすっかり深夜になっていた。叶戸先生は結局あの後目を覚まさず、俺の用意した布団の上で眠り続けている。

 俺はそっと押し入れの奥に隠れていた段ボール箱を出し、その中の『人質』を取り出してその健在ぶりを確認する。

 十年前、『約束』と彼女は言った。その『約束』の『人質』に、このスケッチブックを置いていって、それからずっと戻らなかった。


「……」


 表紙のホコリを払ってから、俺はそっと『人質』のページをめくる。そこには、小学六年にしては立派な硬筆のデッサンが何枚も描かれている。公園の街灯、遊具、遊んでいる幼児とそれを見守る母親。


 俺がただ外で頑なに絵本を読んでいた時、なーちゃんに見えていた世界が、そこにはある。


 今見返しても恐ろしいほどの観察眼だ。美術を齧った今だからこそわかる。このデッサンはまさしく、センスの塊だ。

 ページをめくると、思わず手が止まる。見返すのは久しぶりだが、相変わらず心が揺さぶられた。

 

 ……ねぇ、なーちゃん。なんでだよ。


 そこには、ある被写体が描かれている。

 ベンチの上で、背中を丸くして、つまらなそうな顔をしながら絵本を読む少年。

 同じような構図が、何回も、何回も。

 そのページから先は、ずっと同じ絵の繰り返しだ。

 絵本の面白さにニヤつく顔。

 視線を外してどこか遠くを見つめる様子。

 かと思えば、見られていることに気が付いて、焦った顔。


 全部、俺だった。


 ――なーちゃんの世界の中心は、俺だった。


 最後の、最後のページに至るまで、その『人質』は俺で埋め尽くされていた。


 中学に入るくらいの時、俺はようやくこの『人質』が、なーちゃんにとってのラブレターなんじゃないかと気付いた。手紙が来なくなってから、すでに三年以上経っていた。その考えに思い至った時から、俺の初恋の相手は、なーちゃんになった。気付くのが遅すぎて、今でも呆れている。立派な笑い話だ。

 でも、あの時俺は奮起して、もう一度、手紙を書いたのだ。




『なーちゃん、お久しぶりです。元気にしてますか。』


 確か、そんな書き出しだったのをおぼろげに思い出す。


『あれから五年も経ったので、俺は結構背が伸びました。百六十の大台です。もしかしたら、なーちゃんよりも高いかもしれないです。』

『中学では、美術部に入りました。別になーちゃんの真似したわけじゃないけど、クラスメイトに強引に進められたから、仕方なくです。なので、部で一番下手くそです。よかったら、なーちゃんみたいに上手く描く方法を教えてください。』


 いざ書いてみると、話したいこと、聞きたいことがたくさんあった。でもそれ以上に、望むことがあった。当時ノリと勢いだけで生きていた中坊の俺は、書きながら、どうしても衝動を抑えきれなくなった。


『嫌じゃなかったら、会いたいです。俺、なーちゃんと会って話がしたい。』


 その一文を書いた時、手が震えたのを今でも覚えている。『お返事、待ってます。』と手紙を締めくくり、ポストに投函した時はさすがに高揚したものだ。


 ただ、その手紙は、幾日過ぎても一向に返事が来なかった。

 

 そして、返事を待ったまま、気が付くと俺は中学生活を、受験を終えていた。毎日無難に部活に出ていると、小六のなーちゃん程度のアドバイスなんて必要ないくらいには、それなりに絵も上達していた。

 高校入学と同時に、俺は待つことを止めた。

 ずっと気付いていて、見ないようにしてきた事実と向き合うことにしたのだ。


 ――彼女は、俺と会うのが『嫌』だったと。


 簡単な結論を認めるまで、長い時間がかかって。

 それでも、なんだかんだで引きずって、高二の今、ようやく忘れることが出来たくらいだったのに。




 スケッチブックを閉じ、俺は叶戸先生を眺める。かつて長かった髪型はすっかり短くなり、顔も身体も、性格すら、俺の知っているなーちゃんではない。


 ……もし、俺が自分の気持ちに、もっと早く気付いていたら。


 そしたら何か違ったのだろうか。恋人にでもなっていたのだろうか。歳の差カップルとして、いろんな工夫をしながら逢瀬を重ね、その先の未来の選択肢を共に考える日も来たのだろうか。……でも。


 俺は、奥歯を噛み締める。


 現実は、そうはならなかった。俺となーちゃんは、幼馴染だけど、互いの事なんてほとんど知らない。連絡先も知らない。今こうして教育実習に来ることも、知らなかった。それくらい、もはや他人と言った方がしっくりくるくらいの間柄。


 ……なのに。



 先ほどの言葉が、耳に焼き付いている。


『……迎えに来れなくて、ごめんね』


 胸の奥が何かに圧縮され、苦しさを覚えた。


「……ねぇ、なーちゃん」


 俺は突き動かされるように、目を閉じたままのなーちゃんへ語りかける。


「……『ごめん』なんて……今さら言われても、困るよ」


 何があったのか、何が無かったのか、彼女の十年を俺は知らない。

 嫌だったから、返信しなかった。それこそが単純明白で、この呪縛から逃れたい俺にとっては好都合な言い訳だった。


 でも、彼女は今日、十年ごしの今日、『ごめんね』と謝って。


「……どうしようもない。何も言えない。……だって俺はあまりにも、君を知らなさすぎる……」


「……今さら『教えて』なんて言えないよ。むしろ、知りたくないとすら思う。反対に俺だって、君がいないこの十年を、君に知ってほしいとは思わない。それほど、俺達は互いに別の道を歩んできた。……それはきっともう、どうあがいても変えられなくて……」


 何に対して謝っているのか、なぜ涙を流すのか、俺は知らない。本当は、スケッチブックに俺が溢れていたのだって、別の理由があるのかもしれない。ただ単に忘れていたのかもしれない。それくらい、俺はなーちゃんを何も知らない。


「……謝らなくていい……」


 そんな俺が、ただ一つ知っていること。


「……こうしてまた、会えたから」


 今、彼女がここにいる、という事実。偶然でもなんでも、それが事実でそれこそが重要だと思う。これまでのことは、よくわからない。でも、もういいのだ。過ぎた想いは、かつての苦い思い出として処理すればいい。――少なくとも俺は、以前より少しは大人になったのだから。


「……確かに色々思うけどさ……でも、何だかんだ俺は、なーちゃんに会えたことを、嬉しいと思ってる……」


「……だからさ、『あの約束』、これでチャラってことで。……あの時は、お互い子どもだったし、俺は再会できただけで充分だから。この『人質』もお返しします……そんで」


「……明日からは、ただの実習先のイチ生徒になります。イチ生徒として、他の連中と同じようにあなたを、応援してますから……、叶戸先生」


 そっと手を伸ばし、髪を撫でる。別れの日にしてもらったのと同じように、優しく髪を梳くように触れる。

 

 ……これで、いいのだろうか。ちゃんと俺は、相手の立場に立てただろうか。


「…………」


 確認するように見ると、叶戸先生は未だ目を閉じて眠りの中にいるらしい。つまり今まで俺が語った言葉は全部独り言であったということになり……、


 途端に照れくさい気分になって、俺は触れる手を遠ざけた。

 

 ……それに、これ以上、休んでいるところを邪魔しちゃ悪いか。また体調が回復してから、同じことを伝えよう。


 ――それで今度こそ、この初恋は終幕になる。


 よし、とスケッチブックを手に、立ち上がる。

 その時だった。


「……ん……」


 後ろから、少女のようにか細い、息交じりの声が聞こえる。



「…………や……だ………………」



 呂律の回らない、眠りの中の否定の言葉。

 たどたどしい口調で、まるで自分に向けてささやくようにゆっくりと、彼女は続けた。




「……ひなくん………………………」








「………しゅき…………」





 ゴトン、とスケッチブックを取り落とし、一面に描かれた小学生の自分が露になる。


 ……えッ。


 真っ白になる頭を必死に回転させ、俺は今一度、言われた言葉の意味を反芻し、


 ……、

 …………、

 ………………。



(――えええええええええええ―――――――――――――――ッ!?)



 深夜の自室。

 驚愕に打ちひしがれる俺の隣では、すー、すーとリズムのいい呼吸音だけが、ひたすら鳴り響いていた。




 

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