第7話 アウト


 ***

 




 朝になってしまった。

 

 ふー、と深い息を吐き、俺は頭まで被さった布団を出る。結局あの後は叶戸先生の言葉を反芻して無限ループ。便宜上布団に入ったものの寝ることなど一切できなかった。独特の重い感じに顔をしかめながらぼんやり部屋を眺めると、


「あれ……?」


 辺りを見回すが、どこにも姿がない。部屋の端まで離した来客用布団は、もうすでに畳まれていた。

 するとガラリと脱衣場のドアが開き、


「……あ、……おはよう」


 スーツ姿の叶戸先生が、ぎこちなく言う。


「……おはようございます……」


 昨日のパジャマ姿とバスタオル姿、『ひなくん、しゅき』が一瞬で脳内を駆け巡り、負けないくらい俺もぎこちない。


「……昨日のことなんだけど」

「……ッ! はい!」


 ――唐突に核心へ突っ込んできた!


 鼓動がバクバク荒れ狂い、体温が爆上がるのを感じる。


「……泊めてくれて。……すごく、助かった」

「……いえ、滅相もないです!」

「……それで、その……」



「……ひなくん」



 心臓が、止まるかと思った。


「は、ハイ……っ!」


『ひなくん、しゅき』『ひなくん、しゅき』『ひなくん、しゅき』『ひなくん』『しゅき』……脳内予測変換が暴走し、顔面がどんどん熱を帯びて。


「……わたし……昨晩ね……」


 来るぞ来るぞ、と今度は心臓が早鐘を打つが。


「……とってもよく眠れたの……」



 ……ん? 少し遠回りする感じかな?


「……こんなに熟睡できたのは、久しぶりっていうくらい。……おかげで体調もかなり良くなった。……これでまた、今日から実習頑張れる。……だから」


 昨晩の天然とは似ても似つかない、完璧にセットされた容姿。綺麗な前髪と、薄めのメイク。全校生徒の憧れの的である教育実習生、叶戸先生がそこにはいた。


「……ありがと」


 はにかんだような笑顔。俺は正視できず、つい目を逸らしてしまう。

 

 ……やべー、まじ尊い。他の人に見せたくねー。


 ……などと、密かな独占欲に身を焦がす。いや、しかし、何がいけないのだ。だって『ひなくん、しゅき』なのだから。『しゅき』ということは、この笑顔も全部独り占めしても許されるということだ。なんだこれ、最高だな。『しゅき』大正義じゃないか。


「……じゃあ、また。……学校でね」


「……おうふッ!?」


 唐突で簡潔な別れの言葉に、俺は思わず転びかける。


「……? どうしたの?」


 キョトンとした表情で、叶戸先生は振り返った。


「……いやあ、……その…………ほら、昨晩といえば、ほら……もっと他に……」


 最低だ。自分から切り出すとかめちゃくちゃカッコ悪い。でも背に腹は代えられない。ここでしっかり確認しないことには、俺のオールナイトも報われないのだ。


 しかし。


「……他? ……なんのこと?」


 叶戸先生は心底不思議そうな顔で。



「……特に、覚えてない」



 ……トクニ、オボエテ、ナイ……。


 足元が揺らぎ、俺は膝から崩れ落ちて床に両手をつく。


「……え、あの……」


 頭上から、状況を掴めないらしい狼狽する声が聞こえてくる。……悔しいけど、その声すら可愛い。


「……なんでも、なかったです……。すみませんでした……」


「……そう? ……じゃあ、行ってくるね」

「……はい。行ってらっしゃい」


 バタン、と玄関の扉が閉まる。


 と同時に、悶絶する俺。


「~~~~~ッ!」


 ……覚えてない、って。じゃあ何?

 無意識か。無意識で『しゅき』ってことなのかッ? それとも夢の中で、


『彼は絵本が好きですか?』『好きです。ひなくんは』


 ……的に和訳みたいな会話をしていたとでもッ? ……いや、そうだとするとその前の『やだ』の説明が付かない。かと言って、さっきの叶戸先生に特に変な様子はなかったし……くぅ……ッ。


 働かない頭を抱えて時計を見ると、家を出るリミットの時刻になっていた。


「あーもう! わからん……ッ!!」




 ***




 何とか遅刻をすることなく登校すると、玄関で担任が待っていた。


「花倉―、ちょい来てー」


 有無を言わさず連行された社会科準備室には、……って、叶戸先生!

 

 資料で山積みになった汚い机の脇に、彼女は立っていた。他に人はいない。三人だけの空間だったが、俺は自分の体温が何度か上がったのを自覚した。

 さっき別れてからまだ一時間と経っていないが、やっぱり見惚れてしまう。対照的に叶戸先生は表情一つ変えることなく……、


 ふいっ。


 ……あれ? なんか今、一瞬赤面した気がするのは気のせいだろうか。ただ、視線を逸らされただけ?


「じゃー、朝のショートホームルームまで時間ないし、単刀直入に聞くぞー」


 担任が机の前で椅子に雑に腰かけ、そして言った。



「――お前ー、きのう叶戸先生と『寝た』のー?」



「「寝てませんッ!!」」


 俺と叶戸先生の怒声が重なる。驚いて叶戸先生の方を見ると、慌てて表情を取り繕ったようだが、もう遅い。


「あー、すまんすまん、言い方が悪かったわー。……で、同衾どうきんしたんかー?」

「――同衾って!」


 なんつー遠回しな言い方。


 しかし、何となく意味はわかるけど、細かいニュアンスまで知らない。

 俺が答えに窮していると、


「一緒の部屋で別の布団で寝ただけです。し、寝具は別だから、……同衾まではしてません」


 叶戸先生が、さっきよりはいくらか冷静に答える。


「……って、言っているけど、合ってるー?」

「は、はい! 誓って何もしてません! ……ただ、一緒の部屋で寝ただけですッ」

「一緒の部屋ってどこのー?」

「……俺ん家の……です」

「はぁー」


 担任が大きくため息をつき、


「つまり、叶戸先生は昨日、花倉の家まで行ったと。……で、お前、確か独り暮らしだったよなー?」

「……う、……そう、です……」

「独り暮らしの、実習先の生徒の家に転がり込んで、一泊してー、えーと、同衾はしてないものの同じ部屋には泊まったー、……これで全部かー?」


 今さらながら気が付く。俺は、担任にはめられた。

 本来なら、最初の段階から全て知らないふりをすべきだったのだ。

 だって、この後に続く言葉はどう考えたって。


「……んー、アウトだなぁー、こりゃー」


 予想通りの言葉に、俺は肝が冷える。

 昨晩のことは、秘密にしておくべきだったのに。


「……あ、アウトって、何ですか。何もしてないって言ってるじゃないですかっ」


 思わず声を荒げてしまう。

 しかし、担任は動じることなく、


「んー、まぁーそこもだけどさー、そもそも犯罪だし、百歩譲って信用するにしてもねー。教育実習生が無断で生徒の住所、つまり個人情報に触れて訪問しちゃった時点でアウトなんだよなーこれが。……叶戸さんもそれ、もちろんわかってるでしょー?」


 恐る恐る叶戸先生を振り返る。

 彼女は、静かに俯いて答える。


「……はい」

「……じゃあ、……もう、仕方ないね、残念だけどー」


 担任はもう一度大きくため息をつき、立ち上がる。


「……うし、とりあえず、……校長室、行くか―」

「……!」


 叶戸先生は何も言わずにこくん、と頷き、担任の後に続く。

 俺は立つことも出来ず、打ちのめされていた。


 ……相手の立場に立つとかなんとか、ガキが粋がって自己満足のために助けた気になって。でもその実、一番やってはいけない迷惑をかけたんだ。俺は本当に、大バカ者だ。


 ……どうしよう、俺、このままじゃ、叶戸先生の教育実習をぶち壊してしまう。せっかく会えたのに、応援するって決めたのに。


『……これでまた、今日から実習頑張れる。……だから、……ありがと』


 ふいに朝の笑顔が浮かび、心が奮い立った。


「……待ってくださいッ!」


 担任が、そして、なーちゃんが、振り返る。


「……確かに、昨日、先生は俺の家に泊まりました。……でも、それは、俺のせいなんですッ」

「……花倉のせい? つまり、花倉から誘ったと?」

「――そうですッ! ……だから、叶戸先生は悪くな」


「仮にそうだとしてもねー、成人にはきっぱりと断る責任があるでしょー。ましてや教育実習生ならなおさらだねー。実習の前にー、宣誓書まで記入してもらっているのには理由があるんだー。今回みたいなねー」

「だ、だとしてもッ……」


 なおも言い縋ろうとする俺に、担任が諭すように言う。


「……花倉ー、よくある話なんだよ、特にこういう美人の実習生にはー。しょせんまだ大学生だからなー、舞い上がっちゃって、出会い系まがいのことしちゃうんだよなー。……まーでも、初日に、なんていうのはさすがに初めてだし、……とりあえず同衾の件に関しては、俺はお前らを信用しようと思うからー、とにかく一緒に……」


「……出会い…系?」


 思わず喉から、かすれ声が漏れた。


「……俺と、なーちゃんの関係が、出会い系と同じだって、……本気で言ってるんですか?」


 あんまりだ。

 十年待って、ようやく会えたのに。

 やっと、久しぶりに、話ができたのに。


「……先生が、俺達の何を知ってるっていうんですか。何がわかるんですか……」


 口から言葉が溢れ出す。言わずにいられない。


「……小さい頃、公園で一人ぼっちだった俺を、なーちゃんが見つけてくれたことが、どれほど嬉しかったか、わかりますか?」

「いつも脈絡なくて何考えてるかわからないのに、俺が寂しくて悲しい時に限って側にいてくれて、どれだけ安心したか、心が温かくなったかわかりますか?」

「……んー、いや……何の話をー」


「そんななーちゃんがいなくなってッ」


 もう、俺は抑えられない。


「……連絡も取れなくなって、俺がどれだけ寂しかったか、悲しかったかわかりますか。約束を信じたくて、でも裏切られたかもしれないって、どれだけ悩んで考え抜いてきたかわかりますかッ。十年ですよ十年。自分でも呆れるほどしつこくて粘着質で、でも俺にとってなーちゃんはそういう人、――大切な幼馴染だったんです!」


「なのに、出会い系呼ばわりなんて、あんまりです。……俺はただ、宿無しで困っていた幼馴染を、看病がてらに泊めただけです。俺だって最初は迷いましたけど、財布落として泣きそうな人を、見捨てていけますか? ましてや、それが十年ぶりの再会で、恩人なのに。見捨てて野宿させればよかったっていうんですか?」


「……少なくとも、俺にはできません。いや、できなかった。たとえ十年経っても、なーちゃんを助けないなんて、俺には選べなかった。……だから」


「なーちゃん、叶戸先生は悪くありません。熱で朦朧とした人を連れ込んだのは俺です。責任を負わなきゃいけないなら、俺に……」


「いや、ちょーっと待とうかー」


 担任ののっぺりとした声が、俺の懇願を遮る。


「……幼馴染? 十年? なに、お前ら知り合いなんー?」


 俺と叶戸先生を担任が交互に見返し、


「「……はい」」


 俺と叶戸先生が同時に返事をする。


「……で、さっき、何だっけーえーと、宿無しーとかー、財布落としたーとか―、あと熱ーとかも言ってなかったー?」

「……え、はい。言いましたけど……」


 俺は答えながら、まさか、と思い当たる。


「……ぜんっぜん初耳なんだけどー、ちょっと叶戸さんー、どういうことー?」


 担任が困惑と呆れを足して割ったような顔で聞く。

 矛先を向けられた叶戸先生は顔を赤くして……、


「……う……」


 ひたすら下を向いて申し訳なさそうにしていた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る