第5話 天然   

 ***




 ふー、と息を吐き、俺は滝行のごとくシャワーを頭から浴びて、先ほどから荒れ狂う色んな脳内映像を鎮める。


 ……予想以上だった。


 何が、とは言わない。いや、むしろそんなことは些末なことで、それよりも俺がずっと気になっているのは、別の事なのだ。俺は自身に言い聞かせるように思考する。


 幼少期を思い返す際、若干感じていたことがある。


 それは、なーちゃんの人となりというか、性格というか。とにかくあの頃の俺は何せ小学校低学年なわけで、常識も何もないガキだったから気が付かなかった。しかし、お互い大人になってみて判明した事実。


 ……やっぱり、なーちゃんって、天然?


 さっきまでの色々な言動を想起し、俺はそう結論付けた。超絶美少女なルックスに隠れがちだが、思えば言動が色々とズレている。もともと浮世場離れしている印象はあったが、実際に会ってみると仮定が確信に変わった。

 

 だって予約を一年後にしたり、本気で野宿を考えたり。かと思えば平気で男子高校生の前にバスタオル一枚で出てくるし。俺の思い描いていた年上感はあんまりない。そのことに軽い失望と、安堵の気持ちを覚える。

 きっとそれは、憧れの存在が自分とは何も変わらない存在だとわかったからだ。何もかも叶わないと思っていたあの頃とは違って、今は少しでも対等の立場になった気がする分、改めて彼女のルックスや天然さが俺の好み的には結構ストライク……、


 俺は蛇口をひねり、降り注ぐ流水を冷水へと変更する。急激な温度変化に「ひっ」と思わず声が出てしまうが、それくらいがちょうどいい。


 ――考えたら終わりだ。自制心、自制心。これから一つ屋根の下、同じ部屋で寝るとか考えるな、自ら緊張の糸を張りにいってどうする。とにかく落ち着け。


 自らの女性経験の皆無さが本当に恨めしい。いろんなこと、本当にいろんなことを妄想してしまってどうしようもない自分が情けない。


 滝行の水量を全開にして、半ば凍える。


 ……とにかく、見ない、触れない、近づかないの三原則を徹底しよう。相手がどんなに可愛くてDカップだろうと、感覚を刺激しなければ変な気も起きまい。……よし。


 もう一度深い息を吐いて、俺は風呂場を後にする。

 バスタオルで念入りに身体を拭き、穿いたスウェットの腰ひもを固く結ぶ。三度目の息をゆっくりと吐き、俺はリビングの扉を開ける。その先を見ないまま、


「あのー、先生?」


 声をかけてみるが、返事はない。代わりにすー、すーと規則的な呼吸音が聞こえる。思わず目を開けると、さして広くもないリビングの床で、ベッドの枠にもたれながら叶戸先生が目を閉じていた。


「……なーちゃん?」


 再び返事はない。薄橙色のパジャマ姿が目に入る。襟や袖が切り替えになっていて、少し幼めのデザインだ。昼間着ていたスーツとの落差がすごい。


「……あのー?」

「……ん……」

 

 言葉にならぬ声と共に、叶戸先生の頭が少し揺れる。そのまま動かず、しばらくしてからまた、規則的な呼吸に戻る。


 ……これはもう、確実に寝てらっしゃる。


 その証拠にパジャマの胸元が静かに上下しているし、長いまつ毛の下の頬は赤く上気していて、その先の小さな可愛い口が少し開いている。……って。

 俺は思わず頬を赤くした。

 まじまじ見るな、と自分を叱りつける。叶戸先生は体調が悪いんだから、仕方ないじゃないか。とはいえ夕飯を食べていないことが気になるし、どうすべきか考えてみよう。


 ……いったん起こす? 何か食べてもらって、薬とか飲んでもらった方が……、しかし。


 チラリと先生を盗み見る。若干はだけた肩口に目が吸い寄せられ、そんな叶戸先生を『あーん』と介抱する光景が心に浮かびあがり、ブンブンと頭を振って否定する。


 ……申し訳ないけど、理性が耐えられそうにない。見る、触れる、近づくの三拍子が揃っている。異性慣れしてる人なら平然とできるんだろうが、生憎リアル童貞の俺にはリスクが高すぎて無理そうだ。かと言って、眠っている病人をこのまま放っておけないし……。


「……あのー」


 俺は悩んだ末、結局、声をかけることにした。


「申し訳ないんですけど……、寝るなら、布団で……」


 叶戸先生を全く見ないように視線を逸らしつつ、近距離から起きるように促す。これなら三原則のうち二つが守られているし、童貞の俺にも安心の選択だ。


 ……と、思っていたのだけど。


「……んんー」


 すぐそこで子猫のような声がして。


「……ひなくん……?」

「……そうです。あの、……一旦起きてく」

「……むり……」


 甘えたような口調に、思わず俺は振り返る。叶戸先生は未だ目を閉じたままで、こくりこくりと頭を揺らしている。どうやら寝ぼけているようだ。


「こ、困ります。……そんなんじゃ、もっと調子悪く……」

「……じゃー、」


 狼狽する俺に、叶戸先生はおもむろに両手を突き出し、


「……ハイ……」

「えと……なんですか……?」


「……抱っこ」


「なっ」


自分の顔が赤くなるのがわかった。寝ぼけているとはいえ、叶戸先生がまるで子どもみたいなことを言っている。


「……抱っこして」

「や、そんなこと言われても……」

「……ねー」

「……」

「まだー?」

「…………」


こんな風に甘えられるなんて、十年前には想像もできなかった状況だ。まぁ、とはいえこれも中々に悪くない……じゃなくて。


「……ちょっと失礼します」

「……ふぁっ」

 

 俺は彼女を抱っこする代わりに、先生の額に手を当てる。妙な声を上げたことはこの際無視しよう。

感覚的に、自分の手のひらよりもずっと熱い。間違いなく熱があるだろう。これでは寝ぼけているというよりも、熱で朦朧としていると言う方が正しい。俺はため息を禁じえなかった。


「……わかりました。とりあえずここに今、布団をしくので待っててください」

「……抱っこは?」

「なしですっ」

「……」


 俺はごほん、と咳ばらいをして煩悩を払い、口調を強めて言う。


「発熱した病人は、温かくして寝る! 以上!」


 言い切って立ち上がり、叶戸先生に背を向ける。毅然として対応したつもりだが、内心は心臓がバクバクだった。これ以上正視するのに耐えられないのが本音で、慌てて三原則を思い出した格好だ。

 いやはや、しかし、なんというパンドラの箱だろう。公園での失敗経験がなければ、今頃病人の戯言を真に受けて、ぎゅー致してしまうところだったぞ、まったく。


 押し入れに向かうために、立ち上がる。自分のベッドに異性を寝かせるのは抵抗があるので、親がきた時用の布団を使おう。

 ……予備のシーツはどこにあったっけ。


 その時。



「……ごめん」


 不意に、後ろから声がする。

 声色からはさっきの甘えた様子はまったくなく、ささやくようなつぶやくような、不確かな発声。


「……ごめんね、ひなくん……」


 彼女はもう一度同じことを言った。朦朧としていたのが、素に戻ったのだろうか。だとすると今のは、変な発言への、いや、布団を準備させたことへの謝罪の言葉か。


「大丈夫ですよ、全然気にしないでください。こんなの当然……」


 俺は振り返り、笑顔を見せる。しかし、叶戸先生の様子を目にして微笑みを続けることが出来なかった。


「……なー、ちゃん……?」


 彼女の目尻が、濡れていた。

 目を閉じたまま、赤い頬で、少しだけ息を荒くして。


「……ひな……くん……」


 意識のはっきりしない中で、続けてなーちゃんはこう言った。





「……迎えに……来れなくて、ごめんね……」




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