26,550円をめぐる逡巡

かめにーーと

本文


 ホテルの清掃アルバイトの緒川真由美は、チェックアウトをしたあとの客室を一番先に見るのが好きだった。客が部屋をどのような状態にして部屋を出たのか、そこには人間性が現れるからだ。使い終わったタオルは畳んでおくのか、ドライヤーのコードは結ぶのか、食べ終わったスナック菓子の袋や、鼻をかんだティッシュはゴミ箱に入れるのか。立つ鳥跡を濁さずと言うが、お金を払ったホテルの部屋となるとそれは例外になる人もいるらしい。ひどく使ってある部屋がある一方で、清掃への感謝をメモに書き残す人もいて、そういった部屋は綺麗に使ってあることが多い。まさにそこには人としてのあり方が表れると真由美は信じている。

 ただ、部屋を開けてからの作業手順は部屋の綺麗さでは変わらない。作業の量が変わるのだ。部屋に入り、客の残した痕跡を見てまわってから、いつものように作業を開始する。ゴミを捨て、浴槽を洗い、トイレを掃除し、清掃用のタオルで拭きあげる。シャンプーや石鹸、歯ブラシなどのアメニティや、タオルやティッシュ、トイレットペーパーをセットし、机を拭き、グラスを交換する。最後に掃除機をかける。客がどのように部屋を使っていても、結局は同じように綺麗になる。最後に部屋を点検して、また次の客室に向かう。


 その部屋は学生の飲み会が行われたようだった。机の上にはチューハイやビール、ワインなどの空き缶や瓶が密集して置かれ、オードブルやピザ、ケーキなどが入っていたであろう入れ物が、食べ残しを含めて周囲に散乱していた。バスタオルはなぜかテレビを覆っていて、浴衣は床に脱ぎ散らかされている。プレゼント交換でもしたのだろうか、包装紙や紙袋といったゴミの量も多い。

 これはこのバイトを始めて2年を迎える真由美としても、げんなりとする部屋の様子だった。今日は12月26日である。ただでさえクリスマスは一人寂しく過ごしたというのに、他人が楽しんだ後の飲み会の片付けをしなければならないなんて。こんなことになるなら、予定がある風を装って、クリスマスではなく翌日の26日にシフトを入れたのは間違いだった、と後悔する。

 25歳、フリーター。恋人もおらず、一緒に過ごす友達もいない。その一方でこの部屋の客は、クリスマスを大いに満喫し、面倒な掃除は他人に任せる。部屋中の残骸を見ながら、その格差に、真由美はひどく惨めになった。


 ふらふらと歩いて、ベッドの近くにある小さな机を見た。すると電話機のそばに、銀行の封筒が見えた。まさか中身はないだろうと、冗談のつもりで、人目もないので封筒を持ち上げてみる。白い封筒は重みを持っていて、中が透けて見える。真由美はおもむろに封筒の中を覗いてみた。そこには一万円札が二枚入っていた。


 通常、忘れ物は発見者が名前と日付の書いた紙を貼付して忘れ物カゴに入れておく。ただし重要な忘れ物はすぐに上司に連絡するよう指示されている。真由美はすぐに業務用の携帯電話を手にとった。


 しかし、思いとどまった。そもそも、忘れ物をした客が悪いのではないか。真由美は海外に行ったことはないが、外国だったらこうした忘れ物は絶対に帰ってこないのではないかと思った。

 この部屋の様子を見るに、酒を大量に飲んだ乱痴気騒ぎの末、疲れた翌朝、宿泊費か何かのためにおろしたお金を置き忘れたのだろう。この部屋が空いてから数時間は経っており、客はもうホテルの外にいる可能性が高い。支払いは誰かが一括で行い、あとで買い出し代等をまとめて精算する予定だったのだろうか。いろいろな想像が膨らむ。最近では一番ではないかというほど、頭が回転する。


 兎にも角にも、これは忘れ物をした人の自業自得ではないか。


 真由美は再び封筒の中を見た。確認すると、一万円札二枚に、五千円札、千円札、五百円玉、五十円玉が一枚ずつ入っている。合計26,550円である。真由美は唾を飲み込んだ。

 先日ショッピングセンターで買えなかった服が頭に浮かぶ。続けて、ハンドクリームを切らしていたことや、お気に入りの手袋に穴が空いたこと、腕時計を修理に出さなければいけないことを思い出す。最近は美味しいものを食べていない。これだけの金額があったら近場の旅行くらいできるかもしれない。

 と、考えたのち、さすがにこれを丸々頂くのはどうかと、良心が痛む。妥協して、このうち五千円札一枚くらいを失敬しようかと考えた。いや、千円札の方がバレにくいだろうか。この際、500円でも、お昼代くらいにはなる。真由美は昔から小心者だった。

 しかし、残りの金額が入った封筒を持ち主に返すとして、その金額の差異に気づかないだろうか。そうなると問い詰められるのは発見者である真由美である。嘘を突き通すにも無理がありそうだ。

 こうなれば、オール・オア・ナッシングだ。くらくらと、真由美は久方ぶりの興奮を覚えた。

 

 いつまでもこうして突っ立っているわけにもいかない。真由美はとりあえずその封筒を、作業用の箱の中に入れた。

 大量にあるゴミを捨てる。いつもならぶつくさと文句を言いながら片付けるところだが、今回は無言できびきびと動く。缶と瓶は分けてゴミ箱に入れる。浴槽を洗いながら、トイレを掃除しながら、真由美はこの26,550円の使い方を考えた。細々とした生活用品を買うよりも、この金額はぱあっと使うのがいいように思えた。泡銭として、普段はしないような贅沢を、しようじゃないか。きっとこれは、惨めな私を見かねたサンタからのプレゼントだ。

 良心が痛むたびに、こう考えた。もしこれをそっくりそのまま返したとしても、「金額が足りない」と客に嘘をつかれるかもしれない。恩を仇で返すような真似をされるかもしれない。そうしたら私はもっと惨めな気持ちになる。悪いのは、無用心にも現金をホテルに置き忘れた客のほうだ。私は今、27時間分の労働に相当する金銭を簡単に得ることができる。こんなチャンスを逃すのはもったいない。

 どこへ行こう。何を食べよう。疲れた身体を癒す温泉に入りたい。綺麗な水平線を眺め、海の幸に舌鼓を打ちたい。それか、高級な牛肉を買って一人焼肉でもしてみようか。

 真由美は次から次へと出てくる欲望に自分でも驚きつつ、時々作業を中断して、26,550円の使い道を想像した。


 清掃作業も終盤に入ると、真由美は次第に落ち着きを取り戻してきた。ひとまず封筒のことは忘れ、一つ一つの作業に熱中した。そして新しいグラスを所定の位置に置き、緑茶のパックを引き出しに入れた。

 記憶が扉をノックしたのはその時のことだった。真由美は思わずその場に立ち止まり、静かにその記憶を手繰り寄せようとした。思い出されたのは、真由美が5歳か6歳の頃の記憶である。

 その年のクリスマスは、日曜日であった。両親がクリスマスに旅行に連れて行ってくれると言うので、幼かった真由美は大いに喜んだ。観光で行った先の動物園は、寒い中にもかかわらず賑わっていて、普段とは違う景色や動物たちに真由美はずっと興奮していた。疲れて着いたホテルで夕食をとり、ぐっすりと眠った。朝起きた時、枕元にサンタからのプレゼントが置かれていて、朝から大声を出してはしゃいで、それを見て両親は笑った。

 熊のぬいぐるみをホテルに忘れたと気がついたのは、家路についてからのことだった。当時の真由美はその大人の掌サイズのぬいぐるみと一緒でないと、一人で眠ることができなかったため、旅行にもそのぬいぐるみを持って行った。ホテルで寝る時も一緒だったことを真由美はよく覚えている。朝、プレゼントに夢中になるあまり、ぬいぐるみをホテルに置き忘れたのだ。

 真由美は家に着き荷ほどきをする段になって、ぬいぐるみの不在に気がついた。そこからは大変だった。ギャンギャンと泣き喚き、両親を困らせた。父親はその日の夜には宿泊したホテルにメールで連絡をしたが、翌日、従業員にも確認したがそのような忘れ物は見つからなかったという旨の返信がきた。

 真由美は幼いながらにこの出来事を理解しようと努めた。寝るときは確かに枕元にあった。朝起きたとき、近くにぬいぐるみはなかった。きっと掛け布団の中に紛れ込んだか、床に落ちてしまったのだろう。それでも、どうしてホテルの人はぬいぐるみを見つけてくれなかったのだろう。捨てられてしまったのだろうか。どこか暗くて冷たい場所に入れられているのだろうか。私がいなくて寂しくないだろうか。私はこれから、あのぬいぐるみのいない人生を歩まなくてはならない。もう二度と、あの熊と会うことはない。昨日まで、あんなに身近な存在だったのに。お別れが、こんなに呆気なくくるなんて。真由美は何度も泣いた。どうして、あの時、どうして——。


 成長するにつれ、真由美がこの出来事を思い出すことは少なくなっていった。思春期には、この幼少期の理不尽な出来事がその後の人格形成に与えた影響について悩んだりしたが、それがなくてもきっと自分はこうなっていただろうという諦観にも似た納得があって、それ以来考えることはなかった。そうして、25の今に至るまでその出来事をすっかり忘れていた。

 ことの全てを思い出し、真由美は涙をにじませた。同時に、驚いた。25歳になっても幼い頃に失くしたぬいぐるみのことで泣きそうになるなんて。私という人間を形づくっているものの中に、5、6歳の頃の記憶、感情がまだ残っていることに。

 この現金の持ち主も、いずれ封筒を失くしたことに気がついて、酷く落ち込むのだろう。クリスマスを大いに楽しんだあとに訪れるであろう絶望的な気づきに、真由美は同情した。ゴミの山のようになっていた机の上は、すでに綺麗に拭き上げられている。

 再び携帯電話を手に取る。しかし、発信ボタンを押せなかった。この機をみすみす逃すことに、まだ迷いがあった。ちゃっかり者の人間ならば迷わずに自分のものにするだろうし、正義感の強い人間ならば見つけたらすぐ電話するだろう。真由美はそのどちらでもなかった。

「真由美はもっと要領よくやりなよ」「変なところで馬鹿真面目なんだから」

 前の職場で何度も言われた言葉を思い出す。姑息で汚い手をしばしば使う彼女たちに、真由美は常々嫌悪感を抱いていた。しかし世渡りがうまく、成功していったのは彼女たちのほうだった。そうした状況に耐えられず、逃げるようにして仕事をやめ、生活のためアルバイトを始めた。

 彼女たちの言うような要領のいい人間ならば、今回の出来事も自分の得になる方向に持っていくのだろう。私に足りないのは、そういうところなのだろうか。要領が悪いから、私は25になって定職に就かず、恋人もおらず、ふらふらと、同じような毎日を過ごしているのだろうか。私も、彼女たちのようになっていれば——いや。


 私は、そうはなれない。そうはならない。


 発信ボタンを押す。押しながら、結局私はこうするだろうな、と初めからわかっていた気がした。要領悪く、優柔不断で、結局選ぶのは平凡な選択肢。笑えてくる。 

 26,550円。真由美はこの金額にたくさんの夢を見た。幼い頃の記憶を蘇らせた。もうそれで、十分じゃないか。


 見てるか、あの頃の私。


「もしもし、緒方です。902の部屋に、忘れ物が、はい、現金の入った封筒で——」

 

 かっこ悪い25歳だけど、これが、私だ。

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26,550円をめぐる逡巡 かめにーーと @kameneeet

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