第28話 『メタモルフォーゼン』

 フェイトンは1階に降りようとしたが、エレベーターの使い方が分からなかった。暗がりを見渡すと、階段に蹲る人影が見える。

「マリアンさん、大丈夫ですか?」

彼はぎくりとして振り向いた。

「え、ああ。もしかしてファイルの進捗の確認かい?パソコンの動作を待っているだけ。さぼりじゃないよ。」

「違います。昨日の夜からずっと顔色が悪いのが心配で。」

「え、そうかな?ご心配ありがとう。正直この家にいると、妙に調子が上がらない。モノが多すぎるのかも。」

確かにこの館は奢侈な調度品で溢れ返っている。それに比べてコブリーツ邸は、建物自体の古さの割に殺風景の言葉が相応しい住居だった。

「こんな所に座っていたら余計悪くなりますよ。さっきカラーさんから使っていい寝室を教えてもらったので、そこでお休みになったらどうですか?」

「へえ、じゃあカラーと仲良くなったのかな。すごいね、彼女すごく気難しいのに。」

「話を逸らさないでください。」

「ごめんごめん。でも睡眠よりこっちの方が休める。」

マリアンは指先に挟んだたばこを僅かに傾けた。その指が血の気無く震えるので、フェイトンは心配を募らせた。

「そんなはずないでしょう。色々ご迷惑をおかけした僕が言える事ではありませんが……。」

「迷惑?それはあり得ない。それより煙草を消した方がいいよな。ペレウスも嫌煙家なんだ。」

「僕は別に気になりません。どうぞお気遣いなく。でもお願いですから少し横になってください。それとも何か飲み物を貰って来ましょうか。」

「何をしている?」

フェイトンが振り返ると、アルファルドが立っていた。

「ああ、さぼりじゃありませんよ。ファイルの処理、暫く待たないといけないから。」

「それはよかった。だが根を詰めて仕上げないとは君らしくない。」

「すみません。ただ問題は僕の気力というかパソコンの処理速度です。」

「アルファルドさん、マリアンさんは調子が悪そうです。」

 アルファルドはすたすたと近づくと、おもむろにマリアンの顔を両手で挟んでまじまじと眺めた。マリアンは眉を顰めて手を振り払った。

「何ですか、やめてください。」

「本当だ。体を大切にしてよ。……リゲ・ドゥカか、君はいつもそれだな。私にも1本頂戴。」

アルファルドはマリアンの左手に握られた「L・D」と印字のある煙草のパッケージを指して言った。

「リゲドゥカ?何語読みです?別にいいですけど、以前安っぽいってケチを付けられた気が。」

「アルファルドさん、たばこに釣られないで、マリアンさんに休むよう言ってください。」

「そうだ、寝たまえ。残りは私が貰おう。」

「アルファルドさん!」

 フェイトンに睨まれてアルファルドは首を竦めた。マリアンは蝿を払うように顔の前で掌を振った。

「いや、僕は大丈夫。そろそろ戻ろうかな。」

「僕も何かお手伝いさせてください。」

「じゃあペレウス君と一緒に何か食べておいでよ。」

アルファルドが代わりに答えた。

「それがいい。この取っ散らかった館では気分も滅入る。」

「マリアンさんも一緒に行きましょう。もし大丈夫そうなら。外の空気を吸えば少しマシになるかもしれません。」

「ありがとう、でも僕はパソコンを見とかないと。」

「じゃあ何か買ってきます。どこかおすすめのお店や料理はありますか?僕、ウィーンのお店は全然知らないので。」

「だってさ、マリアン。何が食べたい?」

「じゃあ戻りがてら店を教えるよ。ところでペレウスは?」

「机を使いたいと言うから、適当に案内したよ。花瓶の部屋の手前。」

 ペレウスはアルファルドへの疑念を晴らす方法が無いまま、鬱屈とした気持ちでドイツ語版「提言」に目を通していた。ミラ博士がロシア語も堪能だったならば、ロシア語版を博士自身が執筆しても不思議でない。だがアルファルドに拠れば違うらしい。事実ミラ博士の僅かな足跡を辿る中で、ペレウスは博士の行動の整合性に疑問を抱く事が多かった。その1つは他でもなく1937年に人民戦線陣営で書き上げた「提言」をソ連の機関誌に掲載した点だ。

 スペイン内戦における人民戦線とソ連は一概に協力関係と言えないが、原稿をモスクワに送った時点で少なくとも博士自身は親ソ的な立場を取ったと考えられる。だがこれは些か唐突に思われる。それ以前に博士が公の場でソ連に賛否を示した事実は確認できないからだ。彼はほぼ一世代年上に当たるルクセンブルクなど国内の著名な社会主義者や研究者たちとの交流も無く、ロシア革命やトロツキーについて、自分の見解を一度として表明したことがないのだ。

 そもそも1937年というのも奇妙で、ミラ博士は確かにドイツにおけるヒューダリズム研究で名声を博したが、40代半ばを過ぎた頃、つまり1920年代初頭以降は、教職を退き芸術分野の評論家として活動を始めるに至ったのだ。ペレウスはこの時点で博士の思考が完全に唯物史観から離れたと理解した。彼の評論は「ドイツ語オペラにおけるドイツ的精神」を初め、より精神的な主題に遷移したからだ。

 言うなれば研究主題も芸術評論も果てはバルセロナ従軍や「提言」の執筆においてすら、博士の行動には特に脈絡を見いだせないのである。以上のような一種の「主体無さ」が後世の評価にも悪影響を及ぼしたのは確実で、博士は調査共有委員会内ですら忘却されるに至った。現在彼が芸術評論家ではなく資本主義の前段階としての封建制度研究者という一点のみで一応の認知を得ているのは、オステルマンが「ソ連型委員会」創設に当たって、彼をそう紹介したからに他ならない。

 以上の背景から、ペレウスにしてみれば、ミラ博士を唯物史観研究者と表現するのは些か抵抗がある。博士には「主体無さ」というか、奇妙な空虚さがあった。研究者にしろ評論家にしろ、彼が文筆業に従事していた事は間違いないのに、自分の研究や経験、思想を誰かに伝える事自体に関心がないように思われるのだ。

 ペレウスはこれまで、ミラ博士の謎めいた出自やズヴェスダとの関係を調べれば、上述の「主体無さ」から生じる違和感にも自ずと展望が得られると思っていた。だがアルファルドの話を聞いても結局よく分からない。アルファルドへの違和感は、ミラ博士に対するそれと共通するものがある。彼は曄蔚文たちとの関係を一通り話すだけ話したが、結局彼が如何なる目的で反対派に協力しているのか悟らせなかった。加えてアンティゴノス教授との関係も、相手の不安を煽るため敢えてぼかしたように感じられる。

 そこまで考えてペレウスはため息を吐いた。「提言」を貸してもらったものの、正直今はミラ博士どころではない。彼は早急に解決すべき2つの疑問を整理した。1つは言うまでも無くアンティゴノス教授に降りかかる災難への懸念である。そしてもう1つは、改正条約を決議した「総会」において、スロヴェニア本部の棄権が無視されたという話だ。その真偽はもちろん、仮に事実だとして誰一人異を唱えなかったのか?抗議が不可能だったとしたら、その原因こそ一連の事件の核心であるに違いない。恐らくアルファルドはその原因を知っているが、意図的に隠しているのだ。

 要するに彼の抱く疑問は、アルファルドへの不信感に起因している。ペレウスは彼が次の行動を選択する前に、状況を正確に理解する必要があると考えた。だが今の状況で事実関係を糺す手段は少ない。アルファルドに悟られず最短で確かめる方法となれば猶更だ。

「ペレウスさん?」

 ドアの外からフェイトンの声が聞こえると、ペレウスは慌てて「提言」をファイルの間に挟んだ。

「お邪魔してすみません。アルファルドさんから、外で何か食べてくるようにと。お店の場所も教えてもらいました。」

フェイトンは地図を差し出した。

「マリアンさんは焼いたウナギをテイクアウトして欲しいそうです。僕じゃ注文できるか不安なので……。」

「そう、2人は?」

「アルファルドさんの書斎です。」

「……。じゃあ今から出よう。少しだけ寄り道しても構わないだろうか。」

「ええ、どこにですか?」

「国際電話ができる公衆電話を使いたい。アンティゴノス先生に連絡を取りたいんだ。驚くことに先生もアルファルドの協力者らしい。昼間の「総会」の話といい、正直耳を疑う事ばかりだ。彼の情報が正しいのか確かめたい。」

 2人は一先ずカールスプラッツ駅に向かった。この駅は地元路線のハブ的存在で、地下鉄や路面電車、バス路線が多く乗り入れる区画でもある。マリアンの指示した店も、ここから路面電車に乗ってケルントナー通りを南に向かい、工科大学のキャンパスを過ぎた先にある居酒屋だった。だから駅で2件電話をかけて移動しても、不審に思われる心配は無い。

 ペレウスは最初にアンティゴノス家に電話した。電話に出たのは家庭教師ユングマンだ。ペレウスは最近何か不審な出来事があったか尋ねた。

「いいえ?至って静かですよ。なぜそんな質問を?」

「何もないなら一先ずよかった。先生に代わっていただけますか?」

「ついさっきお出かけになりました。」

「夜遅くにどこへ?今すぐお尋ねしたい事があります。」

「ご存じでしょうが、携帯電話はお持ちでないですからね。私に言づけるか、先生がご帰宅になったら折り返します。電話番号を教えてくださる?北京でも今までの番号は使えるのかしら。」

「いや、今はオーストリアの知人の家に。だから私の携帯電話は圏外です。すみませんが、アンティゴノス先生に伝言をお願いします。他の人には秘密にしてください。1つは身の安全に気を付けて欲しい、もう1つはイエ博士のご令孫がそちらに伺ったら、彼の話を聞いてください。」

「イエ博士?どなたです?」

「それで通じます。くれぐれも先生以外には内密に。」

「良く分からないけど、ちゃんと伝えるから安心して。みんなフィデリオさんの事を心配しているわ。ディオニシアは昨日も貴方の話を。」

「そうですか……ありがとうございます。」

 フェイトンは通話相手の言葉を聞き取れなかったが、ペレウスが切り際複雑な表情をしたので不思議に思った。ペレウスは次にイレクの携帯に電話したが、何度かけても通話中である。

「出ない。こんな時に限って何をしているんだ……。」

「メールはどうでしょう?あっちに有料無線ランの表示が。」

「確かに。だが返信をいつ受け取れるか分からないし、文面が残るのも都合が悪い。アルファルドはファイルの解読が終わり次第アテネに行くつもりだ。彼の企みに乗せられる前に、「総会」の真偽だけは確かめたい。他の方法を取らないと。」

「他の方法?」

「ウィーン本部に行ってみるよ。上手くいくかは分からないが。」

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