第27話 記録保管室

 ペレウスは細く薄暗い廊下の突き当りにある部屋に案内された。そこは先ほどのホールと違い、床には大きな花瓶を乗せたテーブルとソファ、壁面には額縁と2つのドアがあるだけの、壁紙も絨毯も窓も無い簡素な部屋だ。唯一の色彩ともいえる花瓶は東洋的な文様が描かれた豪奢な物だが、生けられた花は皆退色が著しい。アルファルドはペレウスにソファをすすめて言った。

「殺人事件で動揺している彼の前では、君も色々話しにくいと思ってね。私も多少の「思いやり」はある。」

「ありがとうございます。」

「君が記事を調べている事は知っていた。親愛なる奇妙で軽薄なマリアンの友人なのも。何か分かった?ミラ博士について。」

「いえ……私はまだ……。」

「それとも私に質問したいかな。エレナさんは私がズヴェスダの親戚だと言っただろう。」

「ええ、その通りです。ですが具体的にどのような関係なのです?」

「血の繋がりがあるわけじゃない。それはミラも同じだ。ズヴェスダはミラの養子としてミュンヘンで養育された。君の推理の1部は正解だ。そしてミラはミュンヘンに招聘されるまでこの館で過ごした。」

「……。じゃあ貴方とミラ博士は……。」

「私たちの関係は、触れないでおこう。じきに分かることだ。」

 ペレウスは怪訝な表情を浮かべた。アルファルドはそんな相手を注意深く観察して言った。

「私が尋ねたいのは、「提言」の訳者についてだ。君はマリアンに興味深いことを言ったらしい。翻訳者はカレンニコフではなくその息子「ズヴェスダ」だと。」

「ミラ博士はロシア語を解さなかったのですよね。」

「そう装っていただけだ。実際はズヴェスダ以上の多言語話者だった。ズヴェスダに言語の神髄を教授したのは、他ならぬ彼だから。」

「言語の神髄……?」

「自分の心を他者に伝える術さ。ミラは言葉で表現することに長けた男だ。」

「……?失礼を承知で言いますが、アルファルドさんはまるでミラ博士を実際に知っているような言い方をなさいますね。」

「そうかなあ。まあ彼を最も良く知るのは私だよ。」

「どういうことです?貴方はマリアンや私と同年代かもっと若く見えます。でもエレナさんに見せて貰った貴方の写真は……。」

「私が若々しく美しいせいで混乱しているのかな。無理もない。君は私が若いから私の話を信じないのか?」

「そうではありませんが、不可解さは感じます。」

「ミラを更に知れば、君はある意味失望するかも。だが君が知りたいなら、私は君に明かしても気がしているんだ。今までミラを知ろうとする人はいなかったから。ただ2つの約束を守ってくれれば。」

「……どんな約束です?」

「1つは私の許可無く口外しない事だ。つまり君が調べ上げたという事自体、誰にも話さないでと言いたいのだ。傲慢に聞こえるかな。」

「いえ。正直少し惜しい気もしますが、私は自分が知るだけで十分です。当然親族である貴方の指示に従います。もう1つの条件は?」

アルファルドは琥珀色の眼でペレウスを凝視した。

「私の質問に答える事だ。君はどういう経緯でズヴェスダの記事を発見したんだ?」

ペレウスは自信無く答えた。

「……アテネ本部で見つけました。偶然。」

「私が満足する答えじゃないなあ。」

「……。でも偶然なのは本当です。私はアテネ本部の記録保管室という部署に所属しています。主に委員会創設に関する資料を管理する部屋です。」

「管理?じゃあ蒐集はしないの?」

「無くはありませんが、数は少ないです。保管室は慣習的に室長が置かれない部署で、私ともう1人の職員が事実上の責任者に当たる管理主事という役職についていました。」

「現場に強い裁量を持つ人間を置かない方針なのだね。」

「そういう事です。私は保管室に入ったことがありません。部署内で保管室に入れる権限を持つのは室長だけですから。そして室長は委員長が兼任しています。」

「つまりモデラか。」

「ええ。それで……。私は2002年9月に配属されましたが、そのすぐ後にアテネ本部で大規模な停電が起きた事がありました。その時保管室のシステムも停止したので、私は偶然中に入ることができたのです。」

「ふーん、だが何時間も部屋にいたわけじゃないだろう?よくズヴェスダの記事が掲載された14号を見つけられたね。」

「いや……、実は閲覧テーブルの上に置いてあった雑誌を勝手に持ち出したのです。所蔵番号シールも無く、当然表紙のスロヴェニア語も読めなかったので、一度保管室から持ち出して調べようと思って。」

「それで?」

「雑誌は記録保管室に登録されておらず、また寄贈リストにも名前がありませんでした。普通は書籍が部署に届いた時点でリストを作成するのですが。」

「雑誌は元の場所に戻したの?」

「いいえ。……すぐ停電が復旧したので、戻しそびれてしまいました。」

「想像より間抜けな話だな。君が可哀想だから、誰かに話すなんてしないよ。」

「……ありがとうございます。ズヴェスダさんの記事を読んで、雑誌が保管室にあった理由は分かりました。ミラ博士の私的な記録が殆ど残っていない現在では、あの記述は大変稀少な物です。」

「そうだね。入手した経緯そっちのけで、君がコブリーツ邸を訪ねたくなる気持ちもわかる。」

「……それは本当に反省しています。ですが奇妙なことに、その後誰も雑誌の紛失に言及しなかったのです。」

「じゃあ君以外、誰も資料の行方を知らないの?」

「いや、一人だけ知っています。弟のイレクトロです。実はその時彼も居合わせていたので。当時弟はモデラ委員長のご令嬢との縁談が進行中で、私たちはつまらない好奇心で規定違反を知られるのを恐れ、結局誰にも言えず終いに。」

「兄弟揃って何してるんだ……。弟も記録保管室の人なの?」

「いえ、当時はウィーン本部の調査員でしたが、休暇で帰省してました。そうだ、そういえば―――。」

「なになに。」

「弟も口外しないと。違反が露見した時のダメージが大きいのは彼ですし。ですが先日フェイトン君と初めて会った時、彼は記事の存在を弟から聞いたと。」

「フェイトン君が?ほとぼりが冷めたと思った弟がうっかり零したのかな。」

「自分で墓穴を掘る人間ではありません。妙に饒舌な所があるので否定もできませんが。」

「そうか。じゃあ結局誰が記事を置いたのかは分からないの?」

「はい。ただ室長の許可無しで入室できる役職は決まっています。室長のほか、上級委員と本部長の数名から構成される執行部、そして曄蔚文博士だけです。」

「私はその誰かを知りたい。……1点確認したいのだが、保管室は電源が落ちると解錠されてしまうの?」

「それが……分かりません。私は雑誌の事が不安になって、室長宛に停電で保管室のシステムに問題が生じたかもしれないと連絡しました。室長、つまりモデラ委員長からは、彼の方で確認するから私は関知不要だと。ですがやはりその時も雑誌の話題は出ませんでした。」

「そうか。じゃあ部外者が本部の電気設備を落として、雑誌を置いて立ち去ったのかも。だから君ら以外誰も知らない。」

「無いとは言えませんが、それこそ何のために?」

「さあ。じゃあ君は寄贈の取り零しと認識しているのかな。」

「一応は。ただそれでも保管室の机に放置されていたのは不自然です。仮に『リュブリャニツァ』が寄贈されたのなら、寄贈者の可能性が高いのは主催者のコブリーツさんですが、彼は違うと。」

「雑誌の購読者が寄贈したとか?」

「コブリーツさんも不思議がっていました。雑誌の購読者は彼の地元仲間ばかりで、もし寄贈するなら一言伝えてくれてもよさそうなのに、と。」

「それもそうだ。」

「私が知るのはここまでですが、アルファルドさんの満足する答えではありませんよね。」

「まあ正直そうだ。とにかく誰が雑誌を保管室に齎したか知りたい。」

「そうですよね……。」

ペレウスが心底がっかりするので、アルファルドはにこりと笑って言った。

「そう気落ちするなよ。折によって君の知りたい事は話すつもりだから。私は優しいんだ、君みたいに信用できる奴には特に。」

ペレウスは顔を上げて琥珀色の双眸を見た。

「……なぜ、私が信用できるのです?」

「突然どうした?」

「さっき仰いましたよね、改正条約の成立には中国が大いに関与していると。具体的には李奇代表と楊何業上級委員、私を北京本部長に推薦した張本人です。更に言えば、私は保管室で事実上モデラ委員長の直轄でした。その意味で私は彼らに恩がある。」

アルファルドは奇妙な笑い声を上げた。

「あはは、だって君だけ屋外待機させるわけにはいかないだろう。それにさっきホールで話した事は、推進派の人間なら皆知っている。唯一秘密があるとすればこの館の位置だが、そんな気配を見せようものなら、君の爪先が敷地外に出る前にこの手で四肢を裂いて見せるよ。」

「誰にも言いません。」

「あは、冗談冗談。私が君を信用する理由の1つは、誰も関心を寄せないミラについて君が調べているから。でもそれだけなら君は単なる狂気的好奇心の塊かも知れない。その可能性を打ち消すもう1つの根拠は、私が厚く信頼を置く人物が君の身分を保証したからだ。」

「つまりマリアンですか?」

「違うよ。彼はギリシャ学界で最も権威のある考古学者の1人。現代におけるエーゲ島嶼発掘の第一人者、アテネ・フランス学院の教授でもある。」

「まさか、本当ですか?」

「いや嘘だ。正確には元教授だ。今年退職したから。」

「つまり保証した人って……。」

「アンティゴノス教授。君の先生らしいね。君の事は勝手に文献学系の人だと思っていたから、まさか教え子とは知らなかった。アンティゴノス家とは以前から親交があってね。私はずっと君の正体に半信半疑だったが、彼が君の悟性を保証してくれたというわけさ。」

「悟性?」

「あはは、こっちの話だ。」

「正直俄かに信じ難い話です。アンティゴノス先生は委員会と距離を置いていますから。先生の知人だという根拠は……?」

「信じてくれないのか。彼は曄蔚文の知り合いでもある。そういえばさっきは今後の予定を話しそびれたな。」

「どういうことですか?」

「彼が条約阻止派の仲間だと感づかれたかもしれない。」

「つまり先生も阻止派の協力者の1人だと?」

「あくまで確証はないが。ただもしそうなら彼はリゲルの殺害犯に狙われるだろう。改正条約への執念が半端ない奴だ。」

ペレウスはぎくりとした。

「本当ですか!?そんな……!」

「だから私がその危険を肩代わりすることにした。相手が挑発に乗るかは分からないが。」

「意味が分かりません!先生と連絡を取らないと!」

「取ってどうする?こちらの手札が看破され、より不利になるだけだ。大丈夫、教授は凌ぎ方を知っている。」

「でも相手は殺人犯なのでしょう!?」

「ファイルの処理が終わり次第、私とマリアンはアテネに行く。君とフェイトン君も当然来るだろう?……そろそろ彼の様子を見て来るよ。作業の調子を聞いて、飛行機を予約しよう。立て続けの移動で悪いが、いつでも出発できるよう、それとなくフェイトン君にも伝えてくれないか。」

「……。」

「私は君が彼の教え子だから先立って話しただけだ。知識は知るべき人が知るべきで、君はそうだと判断した。君が無関係なら何も言わないよ。それに免じて一先ず私に任せて欲しい。いいよね?」

アルファルドは一通り捲し立てると、ドアを開けて一方的にペレウスへ退出を促した。ミラ博士とズヴェスダへの求知心は、親戚アルファルドの得体の知れなさで塗り替えられてしまった。そして相手が敢えてアンティゴノス教授の名前を出したのは、彼が弟子だからなどではなく、勝手な行動を取らないよう牽制するためだと察知した。彼は今朝自分なりに最良と思ったはずの安全圏が、ただただ自分の浅薄な思いつきに過ぎなかった事に肩を落とした。


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