第26話 李魁博士

 「提言」の共同執筆者でありながら、李魁の生涯は殆ど知られていない。彼は北京で長年臨時研究員として勤務していたが、息子李奇が大学を卒業するときに、漸く故郷南京の近郊にある小さな師範大学にポストを得た。その後1998年ごろに退職するまでそこで奉職したが、1,2度の調査協力を除いて委員会との交流は殆ど無かったという。

 退職後の李魁氏は、夫人と共に南京市内のアパートで細々と暮らしていたが、急激に物忘れが悪化し、加えて体の自由も利かなくなった。記憶力の低下によって現役時代に培った人間関係も失い、家を訪ねる者と言えば一人息子の李奇くらいである。そしてその息子が中国代表としてアテネ本部に赴任すると、老夫妻の住まいは一層鄙びたものになった。

 曄蔚文と李魁を知る全ての人は、両者の親交も途絶えたと思っていた。曄蔚文は何度か南京を訪れていたが、孫を養育し始めて以後はその機会も失われたからだ。加えて彼の記憶は急速に失われていったため、アテネに赴任する直前に李奇が「曄蔚文」の名前を出した時、彼には既にその単語の意味が分からくなっていた。

 しかし2003年の冬、不意に彼を訪ねてきた曄蔚文の顔を見て、殆ど寝たきりだった李魁の思考回路は再び蘇ることとなる。彼は旧友を自分のベッドに引き寄せ、その話を明確に聞き取った。今委員会が進めている改正条約には、想像し難い思惑があるのだと。李魁が何をすべきか尋ねると、曄蔚文はまず初めに息子李奇には内密にして欲しいと伝えた。そして自分の周囲は監視が厳しいからと、他の協力者との連絡を李魁に任せたのだ。

「私が李魁博士から聞いた経緯だ。私とマリアン君は具体的には李魁氏の指示に従って、君らを誘導したというわけ。思うに曄蔚文博士が敢えてフェイトン君にファイルを送ったのは、李魁氏を危険に晒さない目的もあったのではないかな。」

彼は曄蔚文と李魁、リゲル、自分の名前を線で結んだ。

「曄蔚文博士たちと私の関係はそんなところだ。次は改正条約が委員会でどう成立したか説明しよう。ところでペレウス君、アテネ本部の「総会」で1票でも棄権があった場合、その会議は決議に至らないって本当なの?」

「ええ。ですが棄権には重大なペナルティが課せられるので、それが総会の決議に影響したことはありません。もし反対したいのなら、素直に反対票を投じた方が利益になります。「予備事項」が適用される場合が多いので。」

「予備事項?」マリアンが尋ねた。

「特定国が「度を越えた不利益」を被らない事を保証する仕組みだよ。……ただ改正条約には「総会」関係の規定に変更は無いはずですが。」

「君はまだ北京本部長ではないから参加はしてないだろうが、改正条約は5月末の段階で現加盟国及び各国本部からなる総会で取り上げられた。」

「ええ。開催自体は存じています。」

「じゃあスロヴェニアが棄権したのを知ってる?これはリゲルとズメルノストから聞いたのだが。」

「まさか、全会一致で決議に至ったはずです!」

驚いて聞き返すペレウスを、アルファルドはやはり推し量るように凝視して言った。

「スロヴェニアのズメルノスト本部長が棄権したんだ。でもそれは総会の議事録に反映されていない。」

「つまり僕の祖国が無視されたってことですか?」

マリアンが尋ねると、アルファルドは訂正して言った。

「ああ、いや。棄権したのはスロヴェニア本部の方だよ。」

「どういうことです?」フェイトンが尋ねた。

「それは本職に聞こう。」

アルファルドに促されてペレウスは説明した。

「加盟国には2票が割り当てられている。各国代表に1票、各国本部長に1票という具合に。そして各国本部は「その国の利害を代表しない」と規定されている。だから規則上は本部と国が異なる提案に投票し得る。尤もそれは建前で、実際には殆どの場合、各本部の票はそれが所在する国の意向を反映している。ただ今回の場合、国代表は賛成票を投じたが、本部長は棄権した、ですよね?」

「そう。棄権はリスキーな手段だ。実際ズメルノストは更迭が決まっている。」

「そんな事が。ですがなぜ彼は棄権を?嫌なら反対すればいいのに。」

フェイトンの質問に、ペレウスはやや考えて答えた。

「……改正条約決議自体の反故を狙ったのかも。棄権したらその「総会」は反故され、次に同じ議題が提示されるには煩雑な過程を経なければならないから。「総会」では全票数の8割で決議に至る。予備事項では最大2割の少数派の利害を最低限保証できるけど、その決議自体を差し戻す事はできない。」

ペレウスの返答にアルファルドは頷いた。

「ズメルノストは自分のキャリアと引き換えに、議題の再提示まで時間稼ぎを試みた。でもそれは無視された。委員会中枢には差し戻す猶予も無いらしい。」

「今の話が確かなら、総会の参加者、つまり加盟国全体がズメルノストの棄権を無視したという事では?」

アルファルドはマリアンの質問に頷いた。

「そうだ。私はそもそも委員会の存在自体に異議があるわけじゃない。寧ろかなり好意的に捉えている。加盟国の協調と妥協との下で、公平で水準の高い調査と十分な話し合いが行われ、それが結果として皆に共有される。かなり面倒で不安定だが、少数の強大な国の武力と財力で保たれる平和とは異なる選択肢だ。だが今回の改正条約は、「総会」の段階でそれを全て覆えした。対話の重要性と情報の透明化をその身で示してきた委員会が、だ。なら単なる文言上の変更に止まるわけがない。なのになぜか皆がそう口を揃える。それが私にはどこまでも奇妙に思われるのだ。」

「じゃあズメルノストはなぜ口を揃えていないのだろう。スロヴェニア人だから?」マリアンが尋ねた。

「一理あるかも。彼も君も奇妙な男だからね。だが問題は、なぜ彼がというより寧ろなぜ彼以外が、かな。」

 アルファルドはくるくると回していた「ペリカン」をペレウスに返した。

「実はこれに関しても、私に一応の答えはある。今私の口から説明しても構わないが、曄蔚文のファイルの方が説得力がありそうだ。」

「じゃあ早速取り掛かりましょう。パソコンの性能にもよるけど、結構時間がかかるかも。」マリアンが頷いて言った。

「パソコンはいつもの部屋から動かしてないよ。ただ今夜はアウガルテン工房に用が。その時マリアン君に運転を頼んでもいいかな。」

「磁器メーカーのですか?分かりました。何時頃出発します?」

「夜11時くらい。……じゃあ私は一旦席を外させてもらうよ。ペレウス君も一緒に来たまえ~。」

「え、ええ。じゃあフェイトン君も……。」

ペレウスが言い終わる前にカラーが口を開いた。

「フェイトンさんは私とここで留守番しましょう?それともどこか行きたいところがある?私が案内してあげる。」

カラーの言葉と美しい表情に、フェイトンは困惑した表情でペレウスを見たので、アルファルドはカラーに苦言した。

「あまり彼を揶揄わないようにね。」

彼女は注意を気にも留めず口を僅かに開けて笑った。ペレウスはアルファルドの後に従って、温室とは反対側にあるドアの奥に姿を消した。

 カラーは2人が消えたドアを見つめるフェイトンに言った。

「きっと貴方に聞かせたくない話よ。」

「そうですか……。」

「フェイトンって本名じゃないでしょう。カンジではどう書くの?」

フェイトンは差し出された紙に自分の名前を書いた。

「曄子寧です。でもフェイトンも非正式な名前ではありません。留学先の学生証もこの名前です。」

「留学ってどこに。」

「イギリスです。」

 消え入りそうな声で答えるフェイトンを見て、カラーは更に面白がって尋ねた。

「ふーん。どうして母国語の名前を名乗らないの?」

「聞き間違いや言い間違いを防ぐためです。」

「そう。なぜその名前を付けたのかしら。どこか切ない響きだわ。」

「母が考えてくれました。多分特に理由は無いと思います。名前の響きとか。……カラーさんのお名前には由来があるのですか?」

「さあね。」

フェイトンは会話で弄ばれていると思い表情を濁らせた。

「そんな目で見ないで。ふと気になっただけよ。私は誰かが何かの行動を起こす動機に興味があるから。推理小説と同じ、各々の行動動機を照らし合わせれば、状況を正確に理解できるでしょ。貴方はどうなのかしら。普段何に基づいて行動しているの?」

 フェイトンは何と答えればよいか分からなかったが、ふとラッセル・スクエアの会話が思い出された。

「……カラーさんの求める答えじゃないと思いますが、僕の場合は一般的に言って誰かの役に立つかどうかでしょうか。ほとんど祖父の受け売りですが。例えば祖父からは、普通の感性に自分の研究の価値を訴えろと言われてきました。言い換えれば、学界の外側から自分を位置付けるという事かも。」

「そう、お爺様はいい事を言うわね。学界に限らず、自分の行動に意味付けし意味を見出すために、自分がいる世界を外から見るのは重要だわ。でも大真面目にそれを試みる人は多くない。集団に溶け込めていると自覚している人間なら猶更。」

カラーは無邪気とも倨傲ともとれない眼で相手を見つめた。

「ところでお爺様とは仲が良かったようね。」

「……僕はそう思っています。祖父は育ての親です。いつも僕を優先してくれました。」

「じゃあ彼が死んで猶更悲しいわね。私も家族が好きだったから分かる。貴方が考える家族とは少し違うだろうけど。」

過去形からして、彼女はアルファルドを指してはないらしい。

「尤も私は口先だけなの。でも、だからこそ曄蔚文の考えには首をかしげるわ。ファイルを渡せば貴方が危険に晒されると、お爺様は分かっていたはず。でも貴方を故意に苦しめるとも思えない。きっとお爺様も貴方を愛していたから。」

「アルファルドさんは、李魁博士の動向を隠すためだ。正直僕なんかに祖父の考えは分かりません。」

「自分を卑下しない。後一応忠告するけど、彼の言葉は話半分に聞く事をお勧めするわ。他者への信愛とは無縁の存在だから、お爺様が貴方に何を期待したかなんて言い当てられるはずがない。」

「手厳しいですね……。」

「正当な評価よ。実際自分で妄想と言ったじゃない。ウィーンまで無理やり引きずって来た私が言うのも変だけど、アルファルドの妄言に引きずられちゃだめ。貴方は確かに状況を知らなさすぎる。でも客観的に見聞きし考える事はできる。例えば彼は曄蔚文や李魁と自分との関係を説明したけど、「それがどういう目的の下で構築された関係なのか」は明言しなかった。」

「それは改正条約成立を阻止するためでは……。」

おずおずと言うフェイトンに、カラーは大袈裟な調子で言った。

「そんなの後付けの理由よ。適当にお茶を濁したに過ぎない。自分で調べて、自らの頭で判断し、世界がどういうベクトルで動いているのか冷静に見極めることね。そうすればお爺様の行動の動機も自ずと分かるはず。」

「……そうですね、カラーさんの仰る事は一応理解しているつもりです。でも実際にやるとなると難しい、僕に正しい答えが導けるとも思えません。」

「だけど挑戦しないと。もし貴方の出した答えがアルファルドやモデラ、或いは曄蔚文と違っても全然構わない。だって正しいも間違いも無いもの。今の話で言えば、「お爺様がある意図で行動を起こした」事と、「彼の行動を貴方がそう理解した」事自体は、別に相反しないでしょう。」

「……。」

「人の意思は行動に現れる。そして人間の世界では、誰がどんな意図で行動したか自分なりに理解する事と同じ位、相手の理解を知ることが重要なの。そうやって培った見識は、結局自分が自分に納得して行動するための支柱になる。貴方があの馬鹿友2人や私に遠慮していたのは見て分かる。気遣いができるのは素晴らしいけど、動揺するだけでは貴方が直面する問題の手がかりは得られないわ。」

「……分かりました。ありがとうございます。」

「何かできる事があれば私が協力する。理解し決断する人を助ける意思は、他ならぬ私自身が導き出した行動の動機だから。ね。」

「……。」

フェイトンは言葉に詰まり、咄嗟に手の甲で目元を拭った。そこで彼は初めて、追悼する自分と自分が置かれた境遇を外側から理解するに至ったのである。


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