第29話 ウィーン本部

 ペレウスはフェイトンに一度館へ戻るよう勧めた。だがフェイトンはついていくと言って聞かないので、結局2人でウィーン本部に向かうことにした。ウィーン本部はウィーン東南、レン通りからライスナー通りに入って暫し北上した所に位置する。2人はレン通り方面に向かう路面電車に乗った。普通なら歩ける距離だが、2人はそれが億劫に感じる程疲れ果てていた。フェイトンは降車して尋ねた。

「ここは何でしょうか。」

「ベルヴェレーデ宮殿の下宮と書いてある。行こう、あっちだ。」

2人はライスナー通りに入ったが、街灯も人通りも無くひっそりとしている。

「この辺りは閑静ですね。」

「全くだ。…………ここか、ウィーン本部。」

「明かりが消えています。誰もいないのでしょうか?」

「だけど皆帰宅していたら施錠するだろう。この門も閉じていそうなものだけど。」

 スライド式の外構は開け放たれたままだ。試しに奥の建物入口まで進むと、大きな音を立てて自動ドアが開いた。そのまま進入しようとするペレウスに、フェイトンは恐る恐る尋ねた。

「勝手に入って大丈夫でしょうか。」

「受付までは大丈夫だろう。」

 だが玄関ロビーには非常灯の明かりだけで、何がどこにあるのかよく見えない。2人は大声で呼びかけたが、館内は静まり返っている。ペレウスは圏外の携帯電話を照明代わりに館内図を探した。

「調査員の個別研究室は3階と4階か。そっちには誰かいるかも。」

「さっきのお話、どうやって確かめるのです?」

「ドーナー本部長に聞くしかない。確実に「総会」へ出席したと分かるのは彼女だけだ。誰かに取り次いでもらおう。」

 とは言ったものの、ペレウスには上手く事を運ぶ自信が全くなかった。ドーナーはモデラより年長の数少ない現役職員で、かつ創設以来ウィーン本部一筋という今では珍しい経歴の持ち主だ。ウィーン本部が小規模ながら家族的な信頼関係を構築し、アテネ本部にイレク達優秀な人材を送り続けているのもこの「女帝」の功績である。

 2人は階段で4階に上り3階に降りたが、やはり人の気配は無い。2階まで降りたフェイトンが廊下の奥を指して言った。

「見てください、一番奥の部屋は灯りがついているようです。」

確かに突き当りの手前の部屋からは青白い光が漏れているように見える。館内図によれば、あの部屋は―――。

「本部長室……?」

2人は足音を忍ばせて部屋の前に至った。だが灯りに見えたのは、僅かに空いたドアから漏れ出る屋外の明かりらしい。

「すみません、ドーナー本部長はご在室でしょうか?」

返事は無い。フェイトンは辺りを見回した。ペレウスはかなり大声で呼びかけたが、誰一人それに気づいて廊下へ出てくる者は無い。

「ペレウスさん、一旦戻りましょう。誰もいないのはおかしいです。職員の方も警備の方もいないなんて……。」

だがペレウスは既にドアノブに手をかけていた。

「ペレウスさん……。」

 部屋の正面には机が置かれている。開け放たれた窓から差し込む月影に照らされて、小柄な老女が椅子に深く背中を預けている。ドーナーだ。

「本部長?すみません。……?」

ペレウスはそう言いながら徐々に近づくが、ドーナーはピクリとも動かない。一方スイッチを探して壁に手を添わせたフェイトンは、自分のすぐ傍らに何かが横たわっている事に気付いた。彼は慎重に身を屈めて触れた。しっとりと冷たく弾力の無い皮膚、彼は本能的に状況を理解し、震える声でペレウスに呼び掛けた。

「亡くなっています……!」

ペレウスは驚いて、ドーナーの口元にそっと触れた。呼吸は極めて弱いが、彼女は確かに生きている。

「救急車を呼ばないと!電気をつけてくれ。」

ペレウスは動転しつつ備え付けの外線電話で救急に連絡し、フェイトンはドーナーの傍で呼びかけた。

「ドーナー本部長、しっかりしてください!」

 その時2人の視界の端で何かが動き、パチリと蛍光灯がついた。反射的に目を晦ませた2人の前に、帽子を目深に被った制服姿の若い男性が警棒を手に立っている。

「動くな。」彼は高い声で言った。

「私はアテネ本部記録保管室のフィデリオ管理主事。ドーナー本部長に用があってきましたが、一体何があったのです?」

警備員は2人から目を逸らさないまま、床に横たわる男性の首に手を触れて言った。

「死んでいる……。他の部屋も。お前たちの仕業だな。」

フェイトンには言葉が分からないが、相手の意図する言葉は直感的に理解できた。ペレウスはフェイトンの前に出て訴えた。

「まさか、違います!それにドーナー本部長には息がある。さっき救急車を呼びましたが、応急手当ができるならお願いします。」

だが相手が腰から拳銃を抜き取ったので、2人は仰天して両手を上げた。

「カバンを降ろせ。手はそのまま、壁まで下がりなさい。」

フェイトンはトートバッグを床に置き、2人はじりじりと壁に向かって後ずさりした。救急車のサイレンが聞こえてくる。警備員はゆっくり部屋の中央まで進入すると、おもむろに椅子へ向き直りドーナーに向かって発砲した。


 だが銃弾はドーナーに届かなかった。フェイトンには何が起こったか分からなかったが、腕を抑えて屈んだ警備員の向こうに、拳銃を握った彼の手首が弧を描いて落ちるのを見た。警備員は冷静な様子で立ち上がると、不気味な笑い声を上げながら残った片手で帽子を被りなおした。

「こいつを撃ち殺した所で、貴様の生青い信条には触れないはずだが?どういう了見だ、カト……。」

カトと呼ばれた長身の男はゆっくりと本部長室に入って来た。手には蓋の無いミネラルウォーターのボトルを手にしている。

「ええ。だが他の人間は違う。」

カトが片足で手首を踏んだので、警備員の表情は俄かに曇った。

「ああ、そっちを怒っているのか。お前の気持ちなど知らないが、機嫌を損ねて悪かった、謝るよ。じゃあ俺はこれで。」

「一つだけ質問が。誰の指示です?」

「答えると思うかあ?」

「何でも構わない。殺すついでに聞いただけ。」

 警備員は苦笑いを浮かべた。その時1階で大きな呼び声と慌ただしい足音が聞こえてきた。救急隊員だ。それに一瞬反応したカトの隙をついて、警備員は窓から上半身を仰け反らせると、そのまま身を翻して飛び降りた。カトも軽やかな身のこなしで窓の向こうに消える。ペレウスは窓に駆け寄って、一瞬その高さとドーナーを見比べたが、廊下の足音が大きくなると決心した。

「私たちも追いかけよう。」

「え?正気ですか!?」

ペレウスはトートバッグをつかみ取ると、フェイトンを促して2階から飛び降りた。2人は不格好に着地すると、そのまま南に向かって走り出した。

 一方レン通りに出たカトは、調度路面電車を挟んだ通りの反対側で、ベルヴェデーレの門に滑り込む人影を見た。宮殿の開館時間はとっくに過ぎている。この時間なら閉門しているはずだ。カトはそれが相手の罠らしいと悟ったが、特に警戒する素振りもなく大股で道路を渡り後に続いた。その後ろ姿を認めたペレウスとフェイトンも急いで宮殿入口に走り込んだ。

 宮殿の敷地内は静まり返っている。暗闇の中、2人は人の気配を探しつつ、入場口で引き抜いてきたパンフレットを覗き込んだ。この宮殿には主に2つの建物が存在する。片方が2人のすぐ前に建つ下宮で、200メートル弱の広大な庭園を挟んだ南方に上宮があり、いずれも美術館になっているらしい。ペレウスが下宮の入り口を指して言った。

「見て、宮殿の扉が開いている。あの2人は建物に入ったんだ。」

「危険です。一旦引き返しましょう。ドーナー本部長はどこの病院に搬送されたのでしょう。」

「彼はドーナーに銃を向けた。委員会中枢の不審死はこれで3人目だ。きっと関連がある。曄蔚文博士の事件の手がかりになるはず。」

「あの男性は死んでいたのですよ?」

「ああ分かっている。だが君はカトと呼ばれた男がどうやって警備員の手首を切り落したか見たか?」

「いいえ、僕は銃声で目を閉じてしまったので。」フェイトンは首を傾げて答えた。

「彼は水を槍のように飛ばしたのさ。どう見ても人間業じゃない。なのにあの警備員は驚きもしなかった。」

 宮殿内からピチャリと滴の落ちる音がする。ペレウスは愈々探求心を抑えることができなかった。ペレウスは一旦門まで戻ってフェイトンに言った

「少し見て来るだけだ。君はここで待っていて、人がいる所で。」

「でも……!」

 ペレウスは既に踵を返して闇の奥へ消えていた。フェイトンは慌ててウィーン地図を取り出した。路面電車では周囲をよく見ていなかったが、この場所からは特に複雑な経路を経ないで国立歌劇場の近くに着くらしい。距離もせいぜい1キロ強だ。そこからアルファルドの館までの道順なら知っている。フェイトンは先ず歌劇場に向かって走り出した。

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