第26話 夏 天空都市XIII



「ったく、蛇はうようよするわ、おっかねえ雷雲は立ち込めるわ、一体いつからこの街は伏魔殿パンデモニウムに成り果てたんだあ?」

 大きな翼を外套に戻し、ピックスが口元に皮肉気な笑みを浮かべて軽口を叩いた。

 小さく悪態つくマーガレットが、その胸倉を掴もうと詰め寄る。だがピックスがいきなり目を剝いて叫んだ。

「ああっ、おまっ、可愛い可愛いプリムローズちゃんになんつー真似してやがるぅ!?」

 震える右手が指し示したのは、マーガレットの背後にいた青年と幼い少女だ。意識を取り戻したジョシュアが身を起こし、プリムローズを胸内に引き寄せていた。己の唇に被せていた解呪符ソーサラーコードをゆっくりと外し、気を失う幼い少女を悲哀の眼差しで見下ろす。やがて、その小さな口元に、キスを落としたのだ。

 鬼の形相のピックスがジョシュアの肩を掴んで引き離そうとする。

「てめっ、おいっ、クソ羨ましい、じゃねえ、とっとと離れろド変態!」

「るっさいわね、ド変態はあんたでしょ」

 半目のマーガレットが、スパンと小気味良い音を出してピックスの後頭部をはたいた。

「……我がキャンベル式の介抱よ。部外者がガタガタ抜かさないことね」

「介抱ぉ? あれがぁ? 俺とプリムローズちゃん、騙されてない??」

 眉を八の字にするピックスは嘆かわしく口零した。情けない表情に応じるマーガレットが、素っ気なく鼻を鳴らす。

 慈愛の力を持つ彼の施しは、手指からより口移しで分け与えた方が、何より効率が良いのだ。

「……負傷兵の傍でいちいちうっさいのよ、このゴミ屑箱」

 冷ややかな鈴の音が掠れつつも奏でられた。紅玉のつぶらな瞳を瞬かせるプリムローズが、ジョシュアの胸内でゆっくりと頭をもたげる。ジョシュアが蕩けるような微笑みを零し、少女の柔らかな巻き髪を慈しみ込めて梳かした。

「レディ、良かった……」

「ジョシュアちゃんも、生きてて良かった……」

 今にも泣きそうに口元を引き結ぶプリムローズが、ジョシュアの頬を両手で包んだ。その肌色が殊更に真っ白なのが、青年の限界を告げている。

「ごめんね。もうぼろぼろなのにね」

「君が憂えることじゃないよ。僕は役目は、こういう時のためだから」

「そうよ、あんたはいっちょ前を気取ってるけど、まだまだ子供の身体なの。長く尾を引かないように、きちんとケアしなきゃ」

 威勢良く言い放つマーガレットの方にも妹はぼんやりとした視線を向けたが、すぐに気まずそうに俯いた。

「ごめんね、ねえちゃま。言い付け、また破った」

 マーガレットが、らしくないと苦笑する。

「いいえ、良くやったわ。ありがとう。皆が無事だったのは、あんたとジョシュのおかげよ」

「最終的には俺様のおかげなんだけどなあ……」

 ピックスが不満そうに口を挟んだが、プリムローズは相も変わらず冷淡に応じる。

「まず、そもそもの釣果を見せてほしいのよ」

「そうよ、来るのが遅いのよ、このグズノロマのキリギリス。一体何処で油売ってたわけ」

 マーガレットが辛辣に吐き捨てると、ピックスは心外だと言わんばかりにため息をつく。

「薬剤ならすでに治療場へ届け済みだぜ。お前らが、けったいな輩とガチンコバトルしてる間にな」

「はぁ!? でたらめ言ってんじゃないわよ! ここを通りすがっていくの、見てないわよ」

 高い壁を顎で指し示すマーガレットが疑問をぶつけたが、それにもピックスはさっくり答える。

「そりゃ裏側から入ったに決まってんだろ。ドンパチやってる傍を、誰が不用意に近づくってんだ」

 鳥のように翼を持つ身である以上、空からなら街の何処にでも舞い降りることが出来る。その可能性をすっかり忘れていたマーガレットは、きょとんと目つきを和らげた。

「じゃあ……薬剤投与は……」

「全員分、まかなう程度には運んできたぜ」

「間に合ったんだね、良かった。ありがとう」

 ジョシュアがのんびりと告げ、拍子抜けしたマーガレットはとうとうへたりと座り込んだ。

「……やったのね?」

「おう、万事解決ってとこか?」

 ピックスが得意げに鼻を鳴らしたが、少し不思議そうに辺りを見回した。

「……その割に、キャストが一部行方不明だが」

 膝を抱え込み始めたマーガレットが、ぶっきらぼうに受け答える。

「兄さんとリーンなら、枢機部で別仕事よ。この伏魔殿パンデモニウムの元凶――呪い返しの後始末を背負わされてね」

 ピックスが瞬き、神妙な表情になった。

「……誰が呪い合ってんだ?」

「知らないわ。……兄さんははっきり言わなかったけど、きっと、高等解呪師レベルなのは確かね」

 横目で思案する若者は、やがてひっそりと口の端を上げる。

「ははーん、とうとう尻尾を出しやがったか……?」

「心当たりがあるのかしら」

 マーガレットが片眉を上げて投げかけたが、ピックスはあっけらかんと肩をすくめてみせた。

「さてな。余所者のお前にゃ関係ねえよ。罪人の取り締まりは、俺たち兵鳥バードの仕事だ。部外者はすっこんでな」

「言われなくてもそうするわよ。兄さんとリーンなんか、完璧な貰い事故なんだから」

「――そう、ここからが、本当の仕事だ」

 ピックスが痛快そうに笑みを浮かべると、再び翼を背に纏った。飛翔装バードコートをはためかせて、枢機部の方角へと翔けてゆく。

 マーガレットは、夕空に浮かぶその黒い背を、ただぼんやりと見送った。

 不意に、少女の頭を優しく撫でるものがあった。

 揺れる視線で、ゆっくりと、その手と、その先にある優美な微笑みを辿っていく。待ち受けるのは、聞きたくて聞きたくてたまらなかった、受け入れてはいけないと歯を食いしばっていた、少女をたちまち決壊させてしまう砂糖菓子の囁き。

「メグ、もう、いいんだよ。……良く頑張ったね」

「…………ジョシュ」

 青年をつたなく呼ぶマーガレットは、くしゃりと顔を歪ませた。琥珀の瞳にきらめくものを、すぐに隠すように俯いてしまったが、その暖かな胸内にそっと飛び込んだ。

 小さな小さな啜り泣きが、夕闇の世界にやがて落とされる。姉の傍らに身を寄せつつも、背を向けて知らんぷりを決め込むプリムローズと、穏やかな眼差しで抱きとめるジョシュアだけが聞ける、強がりの少女の湿った声音だった。





 ――ヨッカ……!


 ああ、またかと、思った。

 また、潤んだ大声を上げている。

 昔の己を知る少女が、切ない悲鳴で泣きじゃくっている。

 幼い頃より、その悲痛さには耐え難いものがあり、聞いているだけで何もかも押し潰されてしまいそうで、酷く胸が詰まった。

 己には、親や兄たちに泣いて縋った記憶は一度もない。だからこそ、他人事であるからこそ、少女がどうしてこんなに泣くのが不思議でならなかった。

 ほんの些細なことでも少女は泣く。目の前に虫が通るだけでも、石につまづいて転んでしまっても、母親にほんの少し叱られただけでも。途方に暮れてひとりうずくまる、まるで知らない誰かのためにも。

 泣かないでほしいから、精一杯に笑いかけた。そうすれば、少女は大きな蒼い瞳を源にする涙を堰き止め、その花の名を冠するに相応しい、澄みやかな微笑みを花開く。幼くとも、きれいに咲くのだと思った。それは確かに、己の心を掬い上げてくれた。宿命を受け入れ、限りあるまで貫いていこうと、あの時の己に言い含めるには充分な対価だったように思えた。

 姿が大きくなっても、少女は相も変わらず詮なきことで怯えて怖がり、泣いた。場所を考えず、脇目も振らず、誰かのためにさえ、悲しいことがあればすぐに涙を見せる。それに弱る己であることもてんで変わらずで、随分参っている。

 ――ヨッカ……! ヨッカ……!!

 ああ、もういい、聞きたくない。どうかその苦々しい嗚咽を止めてくれ。

 どうすれば君の涙は止まるのだろう。一体いくつになれば、どれだけの安らぎを約束すれば、君は心から微笑みだけを形作るのだろう。そして、一体何をひた隠しにしようとして、その澄み渡る瞳をかげらせるのだろう。

 君の培った真摯な眼差しに巣食う不穏さが、己の憂いを一層募らせる。果たしてそれは、この手で隈なく取り除けるものなのだろうかと。

 ――ヨッカ……。

 泣かないでくれ、どうか。

 笑ってくれないか、俺の宿命ガーランドであるならば。

 なれば何でも、是が非でも、すべきことをしよう。

 まずは――ここから出なくては。



 リーンはハッと上向いた。アークォンの頭上にある蛇が、悶え苦しむように胴体をくねらせ始めたのだ。その本体である初老の男も、顔を覆って苦しみうめく。

「ああ……!? これは……これは……我にはたまらぬ、いただけぬ……!」

 うねる胴回りに促され、膨張した部分が徐々に喉元へと逆戻りしていく。やがて毒を吐き出すように、口元から勢い良く中身が飛び出してくる。卵状の赤い球体だった。駆け寄ったリーンがそれにそっと手を触れると、頂点からひびが入り、さらさらと崩れ落ちていく。

 中から現れた黒曜石のような姿が少女の蒼い瞳に映ると、澄んだ大粒の雫が幾度も零れて落ちていく。たまらず黒髪に触れようとして、けれど真っ向から大きな手が静かに伸びてきた。少女の濡れた片頬を、愛おしげに包む。

「……そんなに泣くな。君は一体いつになったら、泣き虫を卒業する気なんだ?」

 しゃくり上げるリーンは、青年を睨み据えるようにして受け答えた。

「ヨッカが、心配させるからよ……」

「そうだな、すまん」

 幾分気まずそうにするヨークラインが、小さく息をついた。リーンはしばらく睨んだままだったが、青年の何処もおかしい様子がないことを見てとると、とうとう顔を覆って泣きじゃくり始めた。

「だから泣くなというのに……」

 弱り切ったヨークラインはためらいがちにだが、少女の肩を胸内に入れて抱きすくめるようにする。安心させるように、背中をゆっくりトントンと叩く。幼子をなだめる手付きではあったが、リーンは嗚咽を止め、啜り泣く程度まで落ち着いていく。

「本当に良かった……食べられて、消えちゃうんだって思ったんだから……」

「食べられてなどいない。まあ、取り込まれそうになったのは本当だがな」

「……それって、どっちみち一緒ってことでしょう?」

 少女が不満のような声を零し始めたので、調子を取り戻しつつあると判断したヨークラインは、安堵する。やがてしかめ面に戻り、少女を囲う手をほどいてしまった。

「元来、俺の力はそんなに羨まれるものではない。むしろ取り込めず、事なきを得たことに感謝してほしいものだがな」

 そう嘆息する青年は、ふと室内を見回した。己を喰おうとした最高法師の姿を目に捉えて、訝しげに眉を吊り上げた。

 奥中央の寝台の上で、アークォンが怯えるようにして身を丸め、無防備な背中をさらしている。

「……猊下?」

 青年の呼びかけに気付かず、アークォンは小さな早口で何かをまくし立てている。慈悲を、お許しを、どうか、死にたくないなどと口走っているのが精々聞き取れる程度だ。

 リーンが弱々しく口零した。

「……ご、ごめんなさい、多分、私のせいなの」

「……君が? 何故?」

「そんなつもりじゃなかったんだけど……、その、つまり、ヨッカを出さないと、あなたは死んでしまうって……脅してしまったの」

「は? そんなことでか?」

 ヨークラインが疑わしく目を剥いたが、少女は必死な形相で噛み付いた。

「そんなことよ! だって、死ぬのは誰だって恐いものでしょう!?」

「……それで、君は実際、猊下を殺せるのか?」

「とんでもないわ! そんなこと、したくないもの!」

 少女はたちまち震え上がった。その様に青年は一瞬思案したが、淡々と畳みかける。

「なれば君は、脅しただけなんだろう? その得物がどうあれ、猊下が勝手に怯んだだけ。そうなのだろう?」

「そ、そうなんだけど……」

「……そうか。君、あの猊下を、脅してみせたのか……」

 淡々と口零したヨークラインが、考え込むようにして視線を落とし、ふと黙った。

「………………ふ……っ」

 その肩が軽く震え、笑いを嚙み殺すような声が漏れ出てくる。青年の様子をおっかなびっくり見守っていたリーンだったので、戸惑いながら問いかける。

「……あ、あの、ヨッカ? どうしたの?」

「……っ……く……ははっ」

 今度こそ明らかな笑い声を聞き取ってしまい、リーンは目を何度も瞬かせた。

「よ、ヨッカ……? 何で、何で笑うの!?」

 よもや脅迫を白状して笑いを得られるとは考えもしない。もしや、先程呑み込まれたせいで頭の何処かが溶けたのか。おろおろと困り顔を見せる少女に気付き、ようやくヨークラインは顔を上げた。

「いや、すまん。……君は弱虫の泣き虫のくせに、随分したたかになったんだなと……そう思ったら、何だかな」

 苦笑にも取れる表情だったが、青年は紛れもなく、心の底からの破顔をしたのだった。

 リーンは息を呑み、その晴れ晴れとした微笑みを、蒼く澄んだ大きな瞳に焼き付けていく。

 胸の内が、あたたかなもので満たされていくのが分かった。その奥で小さく縮こまっていたものが、柔らかくほどかれて、透き通るような形へと様変わりしていく。穏やかで優しい鼓動が、安らぎを告げる。それなのに、徐々にせり上がるのは、嵐にも相応しき感情の高ぶりだった。

 心地良いのか、息苦しいのか、分からない。けれど、羽が生えたみたいに気持ちは軽くて、芯ある熱さもあって、もっとずっと感じていたい。戸惑いながらも、そう気付いてしまった。

 高揚の嵐がたまらなくなって、なだめるように胸元へそっと手をやる。

(どうしたのだろう……私、今のヨッカが、とてつもなく……)

 ヨークラインは清々しそうにだが、ひとつため息をついて立ち上がった。寝台にうずくまるアークォンの傍らに歩み寄っていく。リーンもその後ろに付き従った。

 二人の足音に気付いた男は、怯えるように寝台の背に身を寄せた。

「ああ……それ以上我に寄るな……、我を壊すな!」

「ご安心されよ。もうすでに、あなたは壊れている」

 にべもないヨークラインは、解呪符ソーサラーコードを取り出した。カードから飛び出した蔓草が、瞬時にアークォンを縛って傍らへと引きずり招く。己の指二本を男の額に乗せ、低い声で素早く唱えた。

「其は邪気を祓う誉れ高き剣――エンコード:『エル・グラン』」

 青白い雷光が迸り、一つ何かを破壊する澄んだ金属音が響いた。程なくして、老いた男の額からどろりとした赤い液体が滲み出た。床面に落ちたそれは、うねりくねってその場から逃げ出そうとするが、すかさずヨークラインの靴が強く踏み潰した。途端、ざらついた灰へと成り代わる。

 大きく息をついたヨークラインは、やがて耐えかねたように膝をついた。

「ヨッカ……!」

「……少し疲れただけだ。問題ない」

 ヨークラインは平然と答えたが、肩を上げ下げしている様子からして強がっているのは明白だった。リーンは大きな背に手を添えて、支えるようにする。

 縄を解かれて尚も放心した表情のアークォンは、畏怖で瞬く瞳を二人に向けた。

「お主らは何なのだ……。我の何を奪い、脅かす者なのだ」

「……ヨッカは、あなたの呪いを解いただけよ。私はそれを手伝っただけ。あなたのものを、何ひとつ取り上げてなんかないわ」

 リーンが小さな声ながらも毅然と答えた。

 アークォンは、初めて少女をよくよく見つめた。何の取り柄もなさそうな、いかにも弱々しい風情の娘――異端キャンベルの一員にすぎないと高を括っていたが、実は青年と同質なのだと勘付き始めていた。

「……娘よ、お主の名を、聞かせてはくれまいか」

「……リーン=リリー・ガーランドです」

 少女がためらいがちに名乗れば、アークォンは仰々しいまでに身を震わせた。その傍らに控える青年を見比べ、やがて理解する。

「ああ、ああ! そなたが、あのガーランド――神の花嫁エル・フルールなのか。なれば、その傍にはべるとするなら、神の剣エル・グランが道理。……やはり散り散りになろうとも、その結束は固いか」

「エル・グラン……?」

 リーンは不思議そうに言葉を繰り返した。ヨークラインの唱える解呪コードと同じ発音だったが、意味合いは違うようだった。思わず隣に視線を投げかければ、彼は疲弊のためなのか眉根を寄せ、沈黙を決め込んでいる。

 アークォンは皺の刻まれた目じりを緩ませ、縋るような眼差しを送った。

神の花嫁エル・フルールよ。このアークォンに、栄光を授けてはくれまいか。我に絶対なる光を、天より授かりし力を、この身に宿してはくれまいか」

「あの、あなたの言っていること良く分からないし、私は自分のことを、ガーランドのことを良く知らないの。あなたの望んでいるものは、持っていないわ」

「何も知らぬのか。なれば、このアークォンが導こう。お主のすべきことを、神の子との契約を……この天なるアークォンが取り結ぼう」

 男のしわの寄った手指が、嬉々として伸ばされていく。

 それを第一に拒んだのは、少女に寄りかかるヨークラインだった。解呪符ソーサラーコードを差し向けて、最高法師を冷徹に見下ろす。

「お前如きが、彼女に触れるな」

 アークォンが嘆かわしそうに眉をひそめた。

神の剣エル・グランは、そうやっていつも独り占めしおるのだな。所詮は守護者ガーディアン気取りの宿り木のくせして」

「ふざけたことを……!」

 息の荒い青年は膝を立てたが、消耗の激しい反動で足に力が入らない。倒れ込む身体をリーンが抱えようとするが、そのぐったりとのしかかる重さがたまらなく不安な心地にさせる。慌ててスカートのポケットの中を探った。

「ヨッカ、しっかりして。私も解呪符ソーサラーコードを持ってるから……」

「いい、気にするな。それより君は、早くアルテミシア候を呼んできてくれ」

「でも、ヨッカを一人には出来ないわ」

「構わん。……ここに君をいつまでも留めておく方が、よっぽど危うく、不愉快だ」

 アークォンは立ち上がり、リーンをきらめいた眼差しで見下ろした。浮かれた声音で呼びかける。

神の花嫁エル・フルールよ、お主の真なる伴侶は、このアークォンの手の内にある。いつまでも紛い物を手に取るな。我の手を取り、神の子と――」

「嫌よ、触らないで!」

 少女がきっとねめつけると、再び伸びてきた老いた手が淡い光によって弾かれる。

 アークォンは驚いて己の手を引っこめると、その切っ先の有様に恐怖した。光に触れた部分だけが、石と化して全く動かなくなっている。

神の花嫁エル・フルール、我に何を……!」

「え? 私は何も……」

 戸惑うリーンの代わりと言わんばかりに、軽快な口調が答えた。

妖精プーカのおまじないだよ。彼らの施しは、身内にとっても甘いから。その甘さが敵に対しては、より残虐になるって寸法さ」

 天井からふんわりと降りて来たのは、全身を真っ黒な外套で覆う、さながら魔法使いのような出で立ち――魔術師マグスだった。

 アークォンが子供のように嘆いた。

「何故!? 何故なのだ、何故我を拒むのだ、何故駄目なのだ!」

「君が駄目だからだよ。この子に、青大将の君なんかが触れちゃあ駄目だ」

 硝子細工の面立ちが、薄っすらと微笑みかけて右手を掲げた。長い指爪が、くるくると弧を描く。それにつられて、アークォンの眼球が縦横に揺れる。

「ガーランドの姫君を好き勝手出来るのは、神さまか、それに連なる者だけだ。威を借ってるだけの君は、千年万年人生やり直したって相応しき相手となれない」

 アークォンのぎらつく瞳孔が、とうとう真っ白になった。魂を抜かれたように沈黙し、虚空を見つめるばかりとなる。

 魔術師マグスはやれやれと腰に手をやり、リーンに向けてへらりと苦笑した。

「ごめんね、雪のお嬢さん。もう少し早めにどうにかしたかったんだけど、彼の性根がなかなかいやらしくてね。君らの助力に感謝するよ。おかげでこうして、私は自由に手を下せる」

 歯噛みするヨークラインが、前のめりになって唸る。

「また貴様は、容易く呪いを……!」

「その闘魂は言い値で買いたいんだけどさ、もうちょっとコンディション整えてから吼え直しなよ」

 哀れみの眼差しを送る魔術師マグスは取り合う気もないらしい。やるべきことを全うしたようで、颯爽とした足取りで部屋の外へと向かう。

「待て……!」

 扉を開けて退路を確保し、魔術師マグスは悠然と振り返ってから片目を瞑ってみせた。

「待てと言われて待つ悪者はいないよ。じゃね☆」

「――だが最後の最後で油断して、大事な喉元疎かにする馬鹿はいくらでもいやがるよな」

 扉の裏で機会を窺っていた気配が、魔術師マグスの背後から囁いた。ローブから見え隠れする首筋に、いつの間にかナイフが押し当てられている。きょとんとした横目で捉える黒衣に向けて、ピックスが意地悪い人相でほくそ笑んでいた。

「ちと悪ふざけがすぎるな。御同行願おうか、ド腐れ外道の極悪人」

「ありゃりゃりゃ……」

 肌に金属の冷たさをぞっと感じ、さすがに魔術師マグスは降参だと、両手を上げてみせたのだった。




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